第2話

〈【伊月玲】 20〷/6/3 16:03 [自宅・キッチン]〉


 玲は慣れた手つきでパンを卵に漬けてハムとチーズを挟み、フライパンで焼き目を付けていく。ついでに自分の分も作ろうか、いや、でも今食べたら晩御飯食べられなくなるしな、なんて目の前で良い匂に惑わされながら、皿の用意も同時に行う。

 盛り付けてみれば我ながら中々のできまいだと賞賛の言葉を送りたくなるような見栄えだ、卵で黄金色に染められて、絵に描いたような焼き目のついたパンは見てるだけで涎が止まらない。

 思わず手が伸びそうになってギリギリの所で踏みとどまる。

 早く持って行ってしまおう。

 玲はクロクムッシュ片手に妹の部屋へ向かう。

 丁度視線の先に『おりあな』と書かれた手作り感溢れる木の看板が付けられた扉を四ノック。


「アナー、出来たよー」


 返事無し、おや? と玲は再度ノックを繰り返す。


「アナ―? クロクムッシュ+αのおでましだー。ここを開けろー」

 

 尚も返事が無いという事は、あれだろう、クロクムッシュが出来る一〇分にも満たないこの短時間の内に夢の世界へランデブーしたということだろう。

 帰って来た時から眠そうにはしていた事から予想するに、ベットの誘惑に打ち勝てず倒れ込み、そのままといったところだろう。


「うん、ヘッドバットな」


 確定した事象を誰かに理解させるかのように玲は呟く。この呟きは最早、オリアナに向けたものではない、言うなればそれは起動の合図、ヘッドバット・デストロイヤーが始動する烽火である。

 

 玲はおもむろに扉を開くと案の定ベットの上で制服に皺を作る作業に勤しむオリアナを発見し、一度勉強机の上にクロクムッシュを避難させると俯せに倒れる彼女をさながらワラジムシでもひっくり返すかのように仰向けにすると上半身を起こす。

 寝かせたままだと小学生の時に劇でやった白雪姫を王子が叩き起こすシーンで誤って本当にキスをしてしまった苦い記憶を思い出すし、何よりヘッドバッドしにくい。

 ついでに付け加えるなら上体を起こした時に目覚めたなら救済措置をとっても良いと考えていたからだ。

 しかしながらそれも無駄に終わる、何故ならオリアナは現在進行形で爆睡中だからだ。


「アァァァァナァァァァ! 朝ですよぉぉぉぉぉぉ!」


 頭突きの鈍い音が掻き消える程の声量で叫びながらに玲の頭がオリアナの頭へ振り下ろされ、オリアナの体は再度ベットへ沈められ、バウンドする。

 ヘッドバットはやり慣れてないと諸刃の剣だ。

 殴り慣れない拳と一緒で、相手に与えたダメージがそのまま自分にも返ってくる、その為、それなりに手加減もしてしまうものだがそれでも声量で掻き消されたものの結構良い音していた。


「起きない、だと?」


 オリアナは未だに寝息を立てて眠りこけているではないか。

 どんな鈍い奴でも普通はヘットバットを食らったら目を覚まさないか、冷や水をぶっ掛けられるのに相当する衝撃が有った筈だ。

 玲は鈍い痛みのするおでこを摩り、目を瞑る。

 まるで何かを黙考し、決意を固める様に。


「良いだろう」


 目を見開いた玲の瞳には、決意の色があった。

 それは自分を投げ打ち結果のみを求める男の顔だった。


「パージェーロ、パージェーロ」


 アナの頭を手で衝撃を逃がさないように固定して自分の頭に助走でも付けるかのように前後させ、狙いを定める。

 狙うはおでこ、とクリティカル。

 自分の頭が搗ち割れてもいい位の気持ちで、ただ只管に威力を求めるそこに遊びは無い、玲にとっての全身全霊。オリアナとの闘いがそこにあった。


「……けて」

「パージェ?」


 オリアナが起きたかと思ったが、そんな事も無かった。

 どうやら寝言だったらしい、どんだけちゃんと寝てるんだ。


「パージェーロ、パージェーロ、パージェ――――喰らいやがれぇぇぇぇメテオ・ヘッドバットォォォォォォォォァァア痛ったぁぁぁ!?」

「助けて! 助けてぇ! 兄ちゃん! ――――痛ったぁぁ!?」


 ゴォッというスイカに踵落としでも決めたような鈍い音が、接吻と同じく顔の距離をゼロまで近づけないと成立しない攻撃によって文字通り直接頭に響く。

 この痛みを前に、やめときゃよかった、とか玲はそんな事を思った。


「に、にいちゃ……さん?」

「ツゥ……ニーチャさんって誰よ」

「兄さん!」


 ニーチェさんの親戚ですか、とか茶化そうとした玲をオリアナは至近距離でそう叫んだかと思うと、強く抱きしめた。

 何事か。玲は伝わってくる体温やら体の感触やらに、幼少期オリアナからよくおんぶを頼まれたことを思い出しながら、身体が震えている事に気付いた。

 こんな欧米的スキンシップも無くなって久しい、だからオリアナが相当に混乱していることにも。


「兄さん! 兄さん! 兄さん!」

「はい、はい、はい、兄だよ。兄、だよーん」

「兄さん! 兄さん! 兄さ――――なんでわたくしの頭はこんなに痛いの?」

「おっとー? そこでそう来ちゃいます?」


 鯖折りである。

 これは欧米的スキンシップなどではなかった、肺を圧迫し、あわよくば背骨を圧し折る、レスリング技である。

 しかも腕ごと捕まっているためにタップも出来ない。

 というかこの妹、意外に力が強い。


「ねぇ、ねぇ。まさかとは思うけれども兄さん。わたくしが寝ているところにヘッドバットとか本当にしてないよね?」

「ちゃうねん。小粋なジョークやねん」

「あれれー? 兄さんって肋骨が粉砕骨折とかしても良い人だっけ?」

「それはきっと人間じゃない」


 きっと人に擬態したスライムとか、そんな感じの地球外生命体に属する何かだ。

 意外に、というかオリアナは本当に力が強かった、このまま無抵抗でいると本当に肋骨とか背骨とかがポッキリ行ってしまうんじゃないかと危惧する程度には。

 だがそれでも男と女、腕力の差は出てくる。

 玲はなんとかオリアナの拘束より逃れて距離を取る。


「アナ、落ち着け」

「兄さん、わたくしが落ち着いてないように見える?」

「待つんだ、俺を角に追い込むんじゃない」


 策を労ずるところに本当の殺意をヒシヒシと感じつつ、玲はオリアナと一定の距離を取る。


「ねぇ兄さん、わたくしは信じてるよ。兄さんが寝ている女の子に手を出すような人じゃないって」

「手を出すって表現は頂けないんじゃないかなぁ」


 母に聞かれたら今度は玲がヘッドバットを食らいそうな位には。

 それと、どう見ても今のオリアナは信じている人のそれじゃなかった。


「それよりも。俺は一体何からアナを助ければいいんだ?」


 オリアナが押し黙る。話を逸らせたやったぜ、とは思わなかった。

 オリアナは言った、助けてと。

 怖い夢を見ただけならいい、それならば「もう大丈夫だよ」とでも声を掛けながらホットミルクでも振る舞ってあげれば済む話だ。けれどもオリアナの反応を見るにそうではないのだろう。

 ならば夢に出るほどの恐怖に晒されているということになるのではないか、身内の、それもまだ十四歳の少女が。

 それは駄目だろう、許容できない。

 となれば玲のすべきことは決まっている、オリアナに「全て俺に任せろ」と言ってやることだ。


「実は、ね」

「うん」

「信じて貰えないかもしれないんだけど……」

「うん」

「今迄変にリアルな夢を見てて」

「うん?」

「そこで殺されそうに……」


 あれー? 玲の中で何かが、気合的な何かが抜けていった気がした。

 夢に出る程の脅威は夢でした、とっぴんぱらりんのぷー、的な。


「えっと、それ助けを求められた俺はどうすればいいのかな?」

「どうって……」

「添い寝……って歳でもないよね。子守唄も違うかな。『夢への扉フューチャーゲート』を持たない俺には夢の中に入る事はできないし、ホットミルクを入れて眠るまで手でも繋いであげる事位しかできそうに無いんだけど」

「ふゅーちゃーげーとって何」


 知らん。


「まあクロクムッシュでも食べなよ、ちょい冷めちゃったけど」

「あ、ありがとう」


 避難させていた皿を渡すと受け取ったオリアナはクロクムッシュに口を付ける。


「アナ、夢はお化けと一緒で拳が当たらないんだよ?」

「え、うん」

「電車に乗っても行けないし、タクシーの運転手に「夢まで」とか言ったらきっと冷たい眼で返される」

「そうね」

「いやホント、俺はどうすりゃいいの? ガチで添い寝でもしてあげようか? それで俺も夢の国に行けるかもしれんし」


 怖い夢をどうにかして? はい無理ー。とは言わないけれども、出来る事がないのは事実だった。そういうのは精神ドクターのお仕事で、玲は専門外。

 そのドクターの所にだってこの歳で怖い夢を見るんです、なんて言って診察して貰うのは恥ずかしい事この上ないだろう。付き添うのもごめんこうむりたい位には。


「添い寝は兎も角、眠るまで手を繋いでてくれるなら、眠るまでで良いから繋いでて欲しい、かな」

「え、マジで」


 冗談だった訳だが。

 気持ち悪がられると思ったわけだが。


「そんなんでいいなら幾らでもやったげるけどそれで悪夢から解放される?」

「分かんないけど……兄さんが居てくれたら大丈夫な気がする」

「そっかー。ならそれでいっか」


 ホットミルクの方がよっぽどよく眠れそうだけれども。

 怖い夢は精神的な問題であるだろうし、本人の要望であるならそれに応えるのが一番いいだろう、玲はそう結論付ける。


「で? すぐ寝るの? それとも夜で良いの?」

「出来ればすぐに寝たい、かな。実は今にも寝ちゃいそうで」

「オッケー、オッケー。……って、服は着替えなよ。制服皺になっちゃう。アイロン掛けるのは俺なんだからね」

「え、うん」

「じゃ、外出てるから着替えたら呼んで。途中で寝たら駄目だよ」

「わ、分かってる」

「……着替え出して上げなくても大丈夫だよね? パジャマはタンスの一番下だよ?」

「分かってるってば! 大丈夫だから廊下出てて!」


 玲は言われるがままに廊下に出るが、今にもパッタリいきそうなオリアナはどう見ても大丈夫そうではなかった、まあ最後ヘッドバットをされた直後程度には精気を取り戻していたから着替える位は大丈夫そうだが。




「もういいよ」


 五分も経たない内に呼ばれ、中に入ると黒いパジャマに身を包んだオリアナがもう既にベットに入っていた。


「寝るまでって言っても寝るのに一分掛かんないと思う」

「別に起きるまででも良いけど? 引き篭もりには時間あるから」

「因みに今日は何やってたの?」

「普通二輪免許取りに行ってた」

「引き篭もりってなんだっけ……」


 玲はオリアナの手を取る。

 オリアナの手は冷たく、少し震えていた。

 眠るのに恐怖しているのなら寝なきゃいいのに、とも思うが眠らずにはいられない程睡魔に侵されているのだろう。

 しかし、そんなにも怖い夢って一体何なんだろうと玲は少し思った。


「おやすみ、アナ。良い夢を」

「……おやすみ、兄さん」


 オリアナは自分で言ってた通り、目を瞑るとすぐに寝息を立て始めた。

 眠っている妹の手を握っていると、病室から出れない余命宣告された病弱な我が子の手を握る親の気分になる。いや、とんでもなく縁起が悪い訳だが、気持ち的に。

 さて、と。玲は


「オリアナの手を握っているのは俺なのに、まるで何かに押さえつけられているが如く指一本微動だにしないっていうのはどういう事だ?」


 オリアナの手を握るまでは何の問題も無かった、しかしオリアナが目を瞑り、寝息を立て始めるとまるで腕が無くなったかのように感覚が無くなった。

 手を放すのを禁ずるように。

 玲がオリアナの手を放そうとしていないだけ、なんていう事実は無い。不可解な現象ではあるが、間違いなく腕の感覚がごっそり持ってかれている。どうしてそう思うのかは玲自身分からないが、一昔前のゲーム器同士を繋ぐ通信ケーブルの様だ。

 オリアナは言った。

 リアルな夢を見て殺されそうになった、と。

 そのリアルな夢、というのがどの程度のものか聞いておくべきだっただろうか。

 いや聞いたとてどうしようもなかっただろうが、この不可解な現象がそれと関係していると考えればオリアナの不安の一片位なら理解出来たかもしれなかった。


「……あ、れ?」


 思考が、停止する。

 理由はなんてことない、突然の睡魔だ。

 瞼が重い、考える事がとても高尚な事に思える、とてもじゃないが眠らないなんて選択肢を選べる次元じゃない。

 この流れで来る睡魔に何も思わない程玲は鈍くない。

 オリアナの言うリアルな夢とやらに自分も招待された訳だ。


「こんな展開、フィクションの中だけに留めとけよ……」


 まあ、良い。

 招待には応じようじゃないか。

 オリアナが世話になっているようだし、それ相応の対応でもって返させて貰うけれどもね。




 ◆◆◆




 成程、確かにリアルだ。

 玲が一番最初に思った感想はそんなものだった。

 見渡す限りの草原というのは初めて目にする訳だがこれを初体験に含めていいかは微妙な所である。何せ夢であるから。


『スリィピアへようこそ』


 まるで頭の中に聴覚が出来たような感覚があって、女性の声を元にした電子音、さながらゲームのナレーションであろうそれはそのまま、モノローグでも語りだしそうである。

 何せ玲はゲームタイトルでも聞いた気分になったから、何だスリィピアって。


『【伊月玲】のこの世界における役割は【英雄】です』


 世界でも救えというのだろうか。

 英雄っていうのは偉業を成した者のことで、間違っても学校にすら行っていない自分には当てはまらないジョブだと思うのだが、役割ということはこれから英雄的行動でもとれと言いたいのだろうか。

 だが断る。


「兄、さん?」

「お、アナ居た」


 見れば、なんか初期装備臭いワンピースに身を包んだオリアナが此方に驚愕の眼差しを向けていた。


「ほ、本物なの?」

「おっとー? そいつは俺の質問なんじゃぁないかね? 何故ならお前さんが俺の夢が生み出しただけのフィクション・オリアナである可能性を誰が否定出来ようか」

「な、そんな事言ったら兄さんだって自分が玲・オリジナルであることを証明出来ないでしょう!」

「できるよー?」

「ど、どうやって?」

「俺は起きたら開口一番に『山』っていう。アナは『アッルヴィオーネ』っていう。これで同じものを見ていたと証明完了」

「今しないと! 今証明しないと!」

「今は……まあいいじゃん。俺はアナが本物って事にして助ける。藁にも縋りたいアナは俺をお助けキャラとでも思っときゃぁ良いよ。兄は夢だろうがフィクションだろうが取り敢えず妹を助けるスタンスで動くから」


 なんてことはない、何時もの事だ。

 それに、何だかんだ言いながらも目の前にいるオリアナがオリアナ本人であるという奇妙な確信があった、あの不可解な現象の延長線上に現状があると思えば目の前の妹が偽物である確率の方が低いように玲は感じる。

 何故なら恐らくは玲がオリアナに巻き込まれた側だからだ。


「グルル……」


 唸り声がした。


「ひっ……!?」

「あぁ、アナが何とかして欲しいのはこいつかぁ」


 狼がいた。

 群れではない、はぐれなのだろう、一匹だけだ。

 玲は狼に詳しい訳では無いが、少なくとも現実には存在しない種類であることは額に生えた角を見ればわかる。

 毛で見えにくいが、あれは間違いなく角、しかも鬼に生えているような形状のモノだ。

 というか、角が生えてても狼に含めていいのだろうか。


「やあやあ狼さん、特に恨みも無いけれど多分殺生するね――――お前は邪魔だ」


 まあ、どうでもいいことなのだが。

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