第36話 名前
――帝国に聳える、巨城の中で。
(生きていてくださった……勇者様が……)
銀髪の姫君は、帝国城の深窓から青空を見上げ、かつて求め続けた少年の姿に想いを馳せていた。
あれから六年。彼は、どのように暮らしていたのだろう。なぜ今、王国に現れたのだろう。――どのように、逞しくなったのだろう。
想像するだけで身体が熱くなり、腹部が熱を帯びてくる。皇女フィオナの胸中はすでに、彼への想いに満たされていた。
(会いたい……なんとしても。……けれど)
しかし、ただ浮かれているわけではない。その表情には、憂いもあった。
その原因は、彼が帝国に帰らず、王国に身を置いている――という点にある。
優しい彼のことだ、敗戦を迎えて疲弊している王国を狙う賊から、人々を守るために戦っていたのだろう。……だが、それにしても六年は長過ぎる。
このまま帝国に帰らず、王国に腰を据えるつもりなのか。それが、彼の望みなのか。
(私は……あなたの思うままに生きていて欲しい)
彼を想えば想うほどに、フィオナは自分から彼が離れていくように感じていた。あくまで彼自身の想いを尊重したいフィオナにとって、今の状況は限りなく苦痛なのだ。
(でも……本当は。私を、選んで欲しかった……)
故郷にも帝国にも帰らず、彼はどこに向かうのだろう。愛する勇者の行く末を憂い、彼女の瞳は空を映す。
――そうすることで、どこかで彼と繋がれるような、気がしていたから。
(……彼のことだ、罪を償うために王国に身を置いているのだろうが……生きていると判明した以上、放っておくわけにはいかぬ。早々に、迎えねばな)
そんな娘の横顔を見つめ、強大な帝国の頂点に立つ皇帝は、眉を顰めて勇者の像を見下ろす。終戦から六年を経た今も、その巨大な像は帝国の象徴として、人々の前に残されていた。
(タツマサよ……今度こそ、そなたを独りにはせぬぞ)
勇者が生きていた、という報告は今のところ内密にされている。あの場にいた貴族や皇族、衛兵達を除き、真相を知る者はいない。
姿を消したヴィクトリアのことも、今は「無事に王国へ出発した」ということにしている。無闇に事を荒立てて、民衆を混乱させないための配慮であった。
だが、差し向けた追跡隊の奮闘も虚しく、彼女の行方は未だに掴めない。しかも、王国では不自然な賊の襲撃事件が発生したという。
もしヴィクトリアがそこまで辿り着いているとすれば――彼女と勇者がぶつかる可能性も出てくる。勇者の剣の実態を知らない皇帝も、彼女が纏う邪気に不穏な予感を覚えていた。
(頼む、無事であってくれ……!)
彼をこの世界へ召喚した者として。娘の幸せを願う父として。皇帝はあの日見送った少年の背を想い、天へ願うのだった。
一方、その懸念の向かう先である王国騎士のダタッツは。
「……なぁ、帝国勇者」
「ん? 何かなロークく――あっつ!」
自身が駐在している小屋に、男勝りの少女騎士を招き入れていた。彼女に手製のコーヒーを振る舞うために。
だが、生来の不器用さが災いしてか準備は難航している。かつて帝国勇者と恐れられた男は、剣では敵わぬ敵に苦戦を強いられていた。
そんな彼の姿にため息をつきながらも、少女騎士は出来上がりを待ち、見守り続けていた。こうしていれば、普通の青年なのに――と、もどかしさを覚えながら。
(こいつがもし、帝国勇者なんかじゃなかったら……多分、オレは……)
ババルオから自分達を守るために戦ってくれた彼。穏やかで優しく、それでいて強い。もし自分に兄がいたら、こんな風だったのだろうか。
帝国勇者という過去がなければ、きっと……自分はもっと素直に懐いていただろう。好きになっていただろう。
――そう。父の仇でさえなければ。
「うぁっちゃちゃちゃ! ……っと、ごめんごめん。何かな?」
「……なんで帝国勇者は、ダタッツって名前にしたんだ? 偽名にしたって、もっといい名前があったんじゃないのか? タツマサ・ダテだからダタッツって安直過ぎるって思うんだけど」
ロークは思う。この男はなぜ、「ダタッツ」と名乗ったのだろう。自分達に償うためだけに、伊達竜正という親から貰った名を捨ててまで――と。
「ふふ、確かにな。けど、安直でいいんだ。この名前なら……忘れずに済むから」
「忘れる……?」
「――例え捨てた名前だとしても、伊達竜正は母がくれた、大切な名前だ。この先、何十年経っても……地球でもこの世界でも、その名前が忘れられたとしても。ジブンだけは、覚えていたい。だから、ダタッツなんだ」
「……大切な、名前か……」
捨て去っても自分だけは覚えていたい、大切な名前。それを聞いた少女騎士は、天井を見上げて過去を振り返る。
今は亡き父に教えられた、自分の名前に込められた願いを。
「……オレの名前はさ。昔、王国を魔物から守るために戦った騎士から取ったらしいんだ」
「そうなのか?」
「大して有名ってわけでもないし、歴史書の隅っこにちょっと載ってるくらいだけどさ。その生き様に感動したからって、父上が付けたんだ」
ロークの脳裏に映るのは、幼い頃の自分にその歴史を読み聞かせる父の姿。もう会えないその父の言葉の一つ一つが、今も彼女の心に住み着いている。
「――その当時、王国は魔物と戦いながら、敵国の侵攻にも抵抗していたんだ。魔物との戦いに乗じて略奪を働くなんて、その頃は当たり前だったから……自国民以外は信用しないのが鉄則だった」
「……」
「けどある時、敵対していた国の兵隊が駆けつけて来た。魔物に追い詰められた自分達を救って欲しいって。王国の誰もが、相手にしちゃいけない、これも罠に決まってる、って信じようとしなかったんだけど……ローク将軍だけは、違ったんだ」
その心が望むまま、言葉を紡いで行くローク。ダタッツは、そんな彼女の語りを静かに聞き続けた。
「『弱きを助け、強きを挫く。騎士とはかくあるべきである』。ローク将軍はそう言って、敵国の救援に向かった。そのおかげで向こうは救われて、以来その敵国は王国の傘下になったんだ。……ローク将軍は、その戦いで命を落としたんだけど」
「そうか……」
「そんなローク将軍の生き様を、父上はいつも誇らしげに語ってたんだ。騎士の鏡だって。だからオレに、その名前を付けたらしいんだ。……憎しみに囚われない、真の騎士になれるように、って」
「なるほどね。そして今まさに、立派な騎士になった――ってことか」
彼女の名前に込められた、父の想い。その一端を知り、ダタッツはしみじみとした面持ちで深く頷いた。だが、自分を肯定するダタッツに対し、ロークは苦々しい表情で首を振る。
「……なってねぇよ。全然なってねぇ」
「ローク君……」
そんな彼女の様子に、ダタッツは眉を顰める。明らかに、自分のことで思い悩んでいるからだ。
(憎しみに囚われてるから、オレはお前を……)
ダタッツを見つめる少女騎士の瞳は――迷いの色を帯びている。父から授かった名前に背く、今の自分の在り方を、憂いているのだ。
「……もいっこ、聞いてもいいか」
「……いいよ。何かな?」
それに気付いているダタッツは、彼女が呟くありのままの言葉に、静かに耳を傾けた。
「父上はさ……どんな最期だったんだ……?」
「……」
「知りたい……知りたいんだ、オレ。父上がどんな想いで、お前にぶつかっていったのか。どんな風に、戦ったのか」
少女騎士の憂いを帯びた眼差しが、ダタッツが淹れたコーヒーに向かう。その揺れる水面を見つめる彼女の呟きに、ダタッツは僅かに言葉を失った。
だが、すぐに気を取り直して過去を思い返し――在りし日の騎士団長、ルークの生き様を脳裏に浮かべた。
「……彼のことを、詳しく知ってるわけじゃない。けれど、誇り高い人だということだけは、子供だったジブンにもすぐにわかった。勇者の癖に人に剣を向けるジブンが許せないと、いの一番に一騎打ちを申し込んで来たんだから」
「父上は……強かったか?」
「ああ、強かったさ。よほど、勇者という存在を大切に思っていたんだろう。凄まじい気迫だった」
勇者という神聖な存在でありながら、血に塗れ人類に暴威を振るう。そのような自分に向けられた敵意は、尋常ではなかった。
だからこそ自分も手など抜けなかったし、彼を倒した後も油断できなかった。王国騎士とは、これほどに恐ろしい敵なのかと。
「……そっ、か」
それを知った少女騎士――ロークは、僅かに頬を緩ませる。最強と謳われた帝国勇者にここまで言わせるほど、父は強い騎士だった。それが、娘として純粋に嬉しかったのだ。
「なぁ、帝国勇者」
「ん?」
「オレ、父上みたいになれるかな。父上みたいに……強くなれるかな」
「……なれるさ、絶対。あの人の子供なんだから」
「……うん」
そんな彼女の胸中に触れたダタッツも、穏やかにその背中を押す。少女騎士の行く末に、いつか光が差すことを祈って。
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