第27話 母との別れ

 アイラックスの戦死から、約三週間。

 帝国と王国の間には、終戦協定が結ばれていた。


 すでに王宮を囲う城下町は帝国軍の支配下に置かれ、ババルオによる統治が始まっている。

 しかし――王国が降伏した今でも、戦況の打開を諦め切れず、戦いを続けている敗残兵達がいた。


 王国近辺の森を中心にゲリラ戦を敢行する彼らは、王国側からの命令にも耳を貸さず、国の復興を目指して抵抗を続けている。

 彼らの対処を任務とするババルオの配下達は、森ごと焼き討ちにすることで解決しようと考えたが、王国の豊かな土地を傷付けることを良しとしないバルスレイの方針により、地道な白兵戦を続けるよう強いられていた。


 ……一方。

 短期間で戦いを重ね過ぎたことで精神に異常を来たした――と、判断された竜正は療養のためとして王国から離れ、帝国へと帰還していた。

 王国最強の戦士が倒れた今、帝国の勝利は揺るぎないものとなったからだ。


「痩せたな……タツマサ」

「……皇帝、陛下」

「今まで、よく戦ってくれた。そなたの小さな身体が背負う悲しみ、目に見えるようであるぞ。さぞかし、辛い思いをしてきたのだろう」


 謁見室にて、労いの言葉をかける皇帝に対しても、竜正はまともに反応することさえできずにいた。そんな彼の姿に、そばに控えていたフィオナも鎮痛な面持ちになる。

 この世界に来た頃に着ていたブレザーも、いつしかかなり小さくなってしまっている。竜正の肉体的成長は、彼がこの世界で過ごした時間の密度を物語っていた。


「勇者、様……」

「……タツマサよ。貴殿の力により、この帝国の勝利は盤石となった。国を代表し、礼を言う。そして――余も、約束を果たさねばなるまい」


 心を痛める娘の様子を一瞥し、皇帝は空に手を翳す。――すると一瞬にして、虚空に白い光の渦が生まれた。

 その輝きを前に、竜正の目から失われていた光が、微かに蘇る。


「……!」

「この先に、貴殿の帰るべき場所がある。もう、罪の意識に苛まれる必要もない。辛いのであれば、全て忘れても構わぬ。――貴殿はもう、自由だ」


 勇者送還の儀。その秘術が生む光に、竜正は目を奪われていた。

 この世界へ召喚された、あの日と同じ輝きが今、目の前に広がっている。その事実が、竜正の意識を釘付けにしていた。


「勇者様……」

「……フィオナ、わかっていたはずであろう。遠からず、このような日が来ると。さぁ、笑って彼を見送りなさい」

「はい……」


 そんな彼の様子を見遣り、フィオナは別れの瞬間がすぐ近くまで迫っていると感じていた。自分に勇気を与えてくれた、最愛の少年が――この世界から、いなくなってしまう。

 仕方のないことだとしても。わかっていたことだとしても。その事実は、少女の心に重くのしかかっていた。


(けれど……私は……)


 しかし……愛する彼が苦しむような真似だけはできない。ここで泣き喚いて引き留めるのは簡単だが――フィオナは母との再会を夢見る竜正の横顔を思い出すたびに、そのような邪念を懸命に追い払っていた。


「勇者様……おめでとうございます。ついに、成し遂げられた……のですね」

「フィオナ……」

「さぁ、ご自分のふるさとへお帰りください。――母上が、待っておられるはずです」

「……ありがとう」


 今にも崩れ落ちてしまいそうな――儚い笑顔。それを見遣り、竜正はふらつきながらも、静かに立ち上がる。


「……それじゃあ……今まで、ありがとうございました。どうか、お元気で……」


 そして少しずつ、光の向こうへと歩みを進めて行った。後ろから僅かに聞こえる、すすり泣く声には気付かぬふりをして。


「勇者、様……私は……いつまでも、あなた様をお慕いしております……」


 竜正の姿が、光の中へと消えていく。

 その瞬間、たがが外れたように――フィオナは、ありのままの想いを言葉に乗せ、竜正がいた場所へ呟いていた。

 とめどなく溢れる涙。崩れ落ちる膝。喉の奥から漏れて行く泣き声。少女は何一つ、抑えることができなかった。


 しかし、皇帝はそんな娘を咎めることもなく。父として静かに、泣きじゃくる娘を抱きしめていた。一方で、帝国の統率者として生き抜いてきた歴戦の瞳は、自分が作り出した光の渦を見つめている。

 竜正を遥か彼方へ誘った渦は、時間と共に少しずつ小さくなり始めていた。術者である皇帝が、術の維持より娘を優先したためだろう。


 この光が消えれば、この世界と竜正の世界の繋がりはなくなる。もう、彼が帰って来ることはない。

 だが、これでいい。光の渦が消える頃には、竜正も無事に向こうへ着いているはず。

 遥かに遠い異世界の彼方、とあっては、安否を確かめる術もないが――竜正なら大丈夫だと、信じる他ない。


(タツマサよ……ありがとう。誰がなんと言おうと、余にとって貴殿は紛れもなく「勇者」であったぞ)


 娘を抱きしめ、皇帝は光の先へと消えて行った少年に、精一杯の賛辞を送る。

 そんな父の胸の中で、フィオナはただひたすら、縋るような姿勢ですすり泣いていた……。


「――こ、こは」


 ……そして。

 竜正の視界には――懐かしく、穏やかな景色が広がっていた。


 石造りの塀。電柱。見慣れた造りの住宅街。どれも、あの日から――召喚された日から、変わっていない。

 その光景だけで、竜正は強く実感していた。自分は――元の世界に帰ったのだと。


「……え……?」


 だが。

 帰還に成功した余韻に浸る間など、与えられはしない。


 我が家へ帰ろうと歩みを進めた瞬間。竜正の目に、とある張り紙が飛び込んできたのだ。

 それには、行方不明になったある少年の顔写真が大きく写されている。しかも辺りを見渡してみると……それと全く同じ張り紙が、幾つも張られていることに気づいた。


「……俺……?」


 行方不明者の名は、伊達竜正。数ヶ月前に消息を絶ち、依然行方がわからないままであると、その張り紙には記されている。

 さらに、張り紙の端には連絡先も書かれていた。竜正は、その電話番号をよく知っている。

 ――母の、連絡先だからだ。


「……母、さん……!」


 竜正はこの張り紙一枚で、自分がいない間のことを把握してしまう。

 異世界に召喚されている間、行方不明となっていた自分を探すために、母はこんな張り紙をあちこちに張りながら、懸命に情報を集めようとしたのだろう。

 息子が異世界に勇者として召喚されていた、ということなど、知る由もないのだから。


(母さんは……大丈夫、なんだろうか)


 張り紙の数は尋常ではない。しかも、自分がいなくなってからかなりの日数が経過している。

 もしかしたら憔悴のあまり、気を病んでいるかも知れない。


 しかも今日は平日なのか、住宅街の中なのに人気がまるで感じられない。そのことが、竜正の不安をさらに煽る。

 言いようのない孤独感。母の安否。それら全てが、竜正の心を押し潰そうとしていた。


 すると――その時。


「息子さんは帰ってくるのでしょうか!?」

「警察の捜索も手詰まりになっている、という情報もあります。それについて何かコメントは!?」

「伊達さん、答えてくださいよ! 伊達さん!」


 曲がり角の向こうから、数人の声が響いてくる。何を喋っているかはわからなかったが、竜正は無意識のうちに塀をよじ登って内側に飛び込み、身を隠した。

 声の主達は竜正には気づくことなく、塀のそばを通過していく。その間も、彼らの声はひっきりなしに住宅街に響き続けていた。


「……!?」


 そして、彼らが竜正が隠れていた塀を完全に通り過ぎた時。声の主達の話し声をはっきりと聞き取った竜正は、血相を変えて塀から身を乗り出した。


 視界に映るのは、マイクやカメラを構えた報道陣らしき人々の後ろ姿。そして、彼らの追及を受けているのは――


(母さん!?)


 ――間違いなく、会いたいと願い続けていた母の背中だったのだ。


「伊達さん。先程も申し上げた通り、息子さんの捜索は警察でも難航しているらしいんですよ。そろそろ、亡くなってる可能性も考えないと、余計に辛いのでは……?」

「そもそも彼が行方不明になった原因がわからない、というのは本当なのでしょうか? 家庭環境に耐えかねて――という理由でいなくなる、ってのもよくある話ですよ。あぁ、別に息子さんのことを言っているわけではありませんが」


 報道陣は冷淡な口調で、母を責め立てるような言葉を並べて行く。そんな追及にさらされ続けている彼女の横顔は、無惨なほどに痩せこけていた。


(母さん……!)


 それを目にすれば、母がいかに苦労してきたかが容易にわかる。わかってしまう。

 とにかく、終わりにしなければ。一刻も早く母の元へ帰り、無事を報告しなければ。

 そう焦る竜正は、後ろから報道陣に囲まれた母を救おうと、一気に駆け出して行く――が。


「大丈夫です。あの子は強くて優しい子ですから。……いつかきっと、元気に帰ってくる。私は、そう信じています」


「……ッ!」


 にっこりと笑顔を浮かべて、報道陣にそう宣言する彼女の姿を前に、踏みとどまってしまった。


 勢いを失った竜正の疾走は、やがて歩みとなり……棒立ちとなり。最後は、両膝を地に着ける結果となっていた。


 母は……信じている。自分が、あの日と変わらないままの、「優しい子」であると、信じている。

 自分のためだけに多くの命を奪った帝国勇者の、自分が――「優しい子」だと。


(ち、違う。違うんだ。違ったんだ。母さん、俺は優しくなんか……優しくなんかなかったんだ……!)


 気がつけば、竜正は己の頭を両手で抱え、うずくまっていた。あれほど帰りたかった世界なのに。あれほど会いたかった母が、目の前にいるのに。

 今はただ、その暖かさが。優しさが。痛い。


(……! あ、ああ……!)


 ふと、竜正は己の両手を視界に映し――戦慄する。

 彼の両手からは……血が溢れていた。自分の血ではない。


 自分が殺めた人々の返り血が、濁流となり、この手に溢れている。

 あの、アイラックスの血も――きっと。


(だめだ……帰れない! ここには帰れない! 俺は、俺は母さんが知ってる竜正じゃないんだ……ただの、冷たい人殺しなんだ!)


 その赤い幻覚に、竜正の心は打ち砕かれていた。住む世界を変えても、剣を捨てても、一生罪からは逃れられない。

 あの戦いの日々は、死ぬ瞬間まで竜正の記憶につきまとうのだ――と。


(ごめん……母さん。俺、何も守れなかった。あの世界の人々も、フィオナの笑顔も、母さんの幸せも……)


 自分という人間は、こうなってしまった。それはもう、変えようのない事実。


(だから……俺は……)


 竜正は瞳から光を失ったまま、静かに立ち上がる。そして――


「……竜正?」


 ――息子の悲しむ声を、聞いたような気がして。

 母が振り返った時には。


「どうしました、伊達さん?」

「あ……いえ、なにも……」


 竜正は再び、この世界から姿を消していた。


 ――心の底から、願ったからだ。


 この世界から。自分を。消してくれと。


「タツマサ、そなた……!」

「勇者様……!?」


 そうして、竜正は再び――遥か遠い世界へと、舞い戻ったのである。


 世界と世界を繋ぐ扉である、光の渦が消える寸前。二度と現れるはずのない少年が、この世界へ姿を現した。


「なぜ……なぜ戻って来られたのです!? 母の元へ帰ることが、あなたの願いではなかったのですか!」

「……フィオナ。俺は、もう……帰れない。帰る場所が……もう、ないんだ」

「な、なんですって……!?」


 その現象に、フィオナは目を見開き、驚愕する。少年が望み続けていたはずの、故郷への帰還。それを投げ捨ててしまった彼の行動が、信じられなかったのだ。

 だが、竜正の荒んだ瞳を見つめる皇帝は、その理由に勘付いていた。長く故郷を離れ過ぎたせいで死んだことにされていたか。拠り所としていた居場所を、他人に奪われたか。

 そうして居場所を失ったから、彼はここへ戻らざるを得なかったのだと。――もはやこの子には、帰る家すらもないのだ、と。


「皇帝陛下。俺、王国に行きます。……まだ、戦いは終わっていないのでしょう?」

「……うむ。しかしだな、もはや貴殿が出向く程の規模の戦いは――」

「――これ以上、この世界から目を背けていたら。俺が奪ってきた命が全て、本当に無駄になってしまう。……そんな、気がするんです」

「タツマサ……」


 皇帝がそう悟る頃には――少年は瞳から希望の色を失ったまま、憑かれたように立ち上がる。

 ――そして、彼は再び旅立って行く。未だ憎しみと悲しみが渦巻く、王国の戦地へ。


 勇者の剣を、携えて。

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