第26話 父の面影
辛くもアイラックスを退けはしたが、目に見える勇者の疲弊を目撃した兵達は、楽観できる現状ではないことを悟っていた。
伝説の勇者を戦線に投入して、ようやく辛勝。その結果は、前線に立つ兵達に緊張を走らせる。
――しかし、留まるわけには行かない。休息の時間をあちらに与えていては、膠着状態を打破することなどできない。
一日も早く戦争を終わらせるには、前に進むより他はないのだ。
母の元へ帰るため。少年は剣を取り、身を引きずるように戦いに明け暮れて行く。
誰かの幸せを犠牲にする。その重圧を、剣の呪いに塗りつぶされながら。
(俺は……俺は……)
だが。幾多の戦いを乗り越え、王国の中枢――城下町へ近づく頃には。重ね過ぎた罪の記憶は、呪いで誤魔化せない程にまで積み重なっていた。
自分に斬られた人間が、絶命する瞬間。苦悶の表情。零した涙。一人一人の全てが、脳裏に焼き付いて行く。
なまじ良心を胸に残しているせいで、その記憶は深く竜正を追い詰めていた。
彼がもし、ただ「操られている」だけだったならば。剣のせいに出来たならば。心が壊れかける程には、至らなかったかも知れない。
(何人殺せば、戦いは終わる? 何人殺せば、母さんのところへ帰れる? 何人殺せば、俺は……)
だが、勇者の剣にそこまでの力はない。この妖刀はただ、所有者が元々持っている攻撃性――殺意を、引き出しているに過ぎないのだ。
それを本能で感じ取っているからこそ、竜正は思い知らされているのである。自分は、自分の意思で人を斬っているのだと。
――もしも、そばにいたバルスレイが、思い悩む竜正の胸中を察していたなら。勇者の剣の邪気に、気づいていたなら。
救われる道も、あったかも知れない。
だが。終戦から六年が過ぎるまで、そのもしもはとうとう訪れなかったのだ。
王宮を中心に据える城下町を背に、最後の防衛戦に臨む王国軍との決戦。
その時も彼は――独り、心を蝕む呪いに、苦しんでいたのである。
「この戦いで、五年に渡る戦乱に終止符を打つ! 大陸に大平を齎し、永遠の平和を築き上げるため――行くぞ、帝国の勇士達よ!」
「我が王国の命運は、この一戦に懸っている! 散って行った真の英雄達の想いに、我らは応えねばならん! 一人たりとも、この先へ通すなッ!」
双方の将の叫びに、兵達は怒号で応え――戦士達の咆哮が、大空へと響き渡る。
血で血を洗う彼らの死闘は、最終局面を迎えようとしていた。
かつては美しい深緑に彩られていた平原は、兵達に踏み荒らされ荒野と化し。深く広がっていた森は、火矢により炎の海と成り果てた。
そして、赤く染まる大地の中で。竜正は赤いマフラーを靡かせながら――憑かれたように戦い続けている。
「……!」
「……来たか、勇者」
やがて、激戦のさなか。兵達の剣戟を背に、竜正は戦乱の渦中で帝国兵を蹴散らすアイラックスと遭遇する。
馬上から、迫る雑兵を大剣で一掃していくその姿は、有無を言わせぬ絶対的な「武力」を物語っていた。足の負傷をものともしないその勢いは、周囲を圧倒し続けている。
再びあいまみえる、帝国の勇者と王国の英雄。その双方が持つ力を、本能で察したのか。
両軍の兵達は戦いを続けながら、導かれるようにその場から離れていく。竜正とアイラックスを、円で囲うように。
「……君には、引き寄せられるものがある。同じ髪の色だから、勇者だから……ではない。上手くは言えないが……暖かい何かを、私は君に感じている」
「……」
「だからこそ、冷徹な眼で剣を振るう今の君には、違和感を感じてならない。まるで、負の感情だけを引き出されているかのような……そんな、不自然さがある」
「だとしたら、何だというんだ」
「――その原因が何かはわからない。だがもし、君が帝国に脅されて戦っていることが原因だと仮定するならば……私はやはり、君と戦わずに済む道を探そうと思う」
アイラックスは、気づいていたのだ。竜正が抱える闇の存在に。
だが、それが剣の呪いによるものとまでは知らぬ彼は、竜正に渦巻く負のオーラの原因が帝国の圧力によるものだと判断していた。
無論、戦争へ参加していること自体は紛れもなく竜正自身の意志である。だが、勇者の剣が齎す呪いの力がなければ、こうも簡単に人を斬ることは出来なかっただろう。
当たらずも、遠からず。そんなアイラックスの判断を前に、竜正は唇を噛み締める。いっそまるきり見当違いな答えを出してくれた方が、少しは楽になれたかも知れなかったのに。
「私には君と同じ年頃の娘がいる。あの子が笑顔で暮らせる世界を守るためにも、私はこうして戦っているのだ。――大人として、騎士として。私は、次代を担う子供達を守りたい。……その中には、きっと君もいるはずだ」
「……いるわけがないだろう。俺はもう何人も、人を殺している。俺自身の意志で俺のためだけに、何人も。そんな奴が、そこにいるはずがない。絶対に」
「違う。――君は、好んで人を殺せる人間ではない。そんな人間が、辛そうな顔で剣を握れるものか」
「……!」
自身の声を拒み続ける竜正に、アイラックスは真摯な眼差しを注ぎ――馬上から飛び降りる。螺剣風で貫かれた足で着地しながら、表情一つ変えない彼の姿に、竜正は思わず目を奪われてしまった。
「強者こそが正義と信じて疑わぬ、帝国の思想に凝り固まってしまえば……君はその胸に残された温もりも失ってしまう。子供が子供を殺す、そんな時代を作ってしまう。私は――君も、救いたいんだ」
「……バカなことを言うな! 俺を救う前にやることがあるだろう! 俺を倒さなきゃ、あなたの家族も危ないんだ! 子供だからとか、そんなこと関係ない! 俺は俺のために戦って来たんだ、あなたもあなたのために戦え!」
「――やはり、人を斬る悪魔の勇者には向かないな。君は」
声を荒げ、アイラックスを睨みつける竜正。そんな彼の険しい表情を、静かに見つめる王国最強の戦士は――静かに大剣を振り上げる。
「ならば望み通り、私も私が望むままに戦わせてもらおう。私のためにも――『勇者』としての君を打ち倒し、君をその『役目』から解き放つ」
「減らず口を叩くんじゃないッ!」
腰から抜刀しつつ、竜正は感情のままに斬りかかって行く。そんな彼を迎え撃つかのように、アイラックスも空へ掲げた大剣を――杭を打つかのように振り下ろした。
竜正は紙一重でそれをかわし、高速抜刀からの一閃でアイラックスを仕留めに掛かるが――
「うぐあッ!?」
「……
――強力な一撃が生む衝撃波により、周囲へ打ち出された大量の石つぶてが、竜正の全身に命中した。
なまじ紙一重でかわしてしまったがために、彼は至近距離でその猛攻を浴びてしまったのだ。小さな身体の隅々に伝わる衝撃と激痛に、少年は苦悶の声を漏らして転倒する。
「あ、ぐ……!」
「一閃に込められた力を以て、いかなる敵も粉砕する。元より小回りが利かぬなら、その一撃が生む力で、あらゆる状況を覆す。それが、王国式闘剣術の極意だ。大振りの得物だろうと、付け入る隙は与えん」
「だっ……たら!」
初撃をかわしたとしても、その威力が生む波動が行く手を阻む。小手先の技術でかいくぐれる剣術ではないのだ。
石つぶてを全身に浴び、兜を破壊された竜正は、額から流れる血を拳で拭い去り――剣の切っ先をアイラックスへ向ける。
次いで――矢を引き絞るかのように、剣を握る手を腰付近まで引き付けた。……帝国式投剣術の、体勢である。
「――できるかな。弐之断不要は鉄球さえ容易に打ち返す、比類なき攻撃力を持つ剣技だ。いかに君の投剣術が優れていようと、撃ち落とされれば意味はない」
「いいさ。――撃ち落とせやしない!」
「そうか……たいした自信だ」
竜正の剣先は、アイラックスの大剣へと向かっている。眉間を狙えば一瞬だが、そこへ撃ち込んだとしても、彼は確実に捉えてしまうだろう。
いかに強力な投剣術といえど、横からの切り払いで弾かれれば意味はない。側面からの衝撃に弱い投剣術の狙いを読まれるということは、命中率の半減を意味している。
……ゆえに、弾くために必要な武器そのものの破壊を狙う方が、勝率が高くなるのだ。
「……」
その確率と螺剣風に懸ける竜正の頬を、冷や汗が撫でる。一方、そんな彼の緊迫した表情を前に、アイラックスも目の色を変えた。
(何か策があるのか……あるいは、覚悟を決めたか。何にせよ、あの剣を捉えることができなくば、私に勝機はない。こちらはただ、全力で迎え撃つのみだ)
竜正の出方を伺いつつ、大剣を握る手に力を込める。風が吹き抜け、足元の砂が空へさらわれても、その身はびくともしない。
双方が石像のように固まったまま、時間ばかりが過ぎて行く。互いに睨み合う中、兵士達だけは絶えず戦いに明け暮れていた。
まるで、その空間だけが時空から切り離されているかのように。
螺剣風か。弐之断不要か。
雌雄を決する一瞬が近づく中、竜正の脳裏に――ふと、母の姿が過る。
この戦いを越えた先にあるものを、想像したからだ。
(母さんは……受け入れてくれるだろうか。血に汚れた俺の手を――握ってくれるだろうか)
未来を夢想した先に待ち受ける、不安。そんなものを抱えて戦えば、足元を掬われるとわかっていても……考えずにはいられなかった。
(いや……考えるのは、やめだ。帰れる日が来れば、きっと答えは見つかるはず。戦争が終わらなくちゃ、帰ることも出来ないんだ。――今はただ、戦おう。戦って、帰ろう。今はたぶん、それでいい)
そうして、自分なりに折り合いを付けるまでは。
(迷いは――振り切れたか)
そんな彼の様子を静かに見つめていたアイラックスは、竜正の眼の色を見て、戦うことへの最後の迷いが失われたことを悟る。
剣を捨てられなかった少年の決断に胸を痛めながらも、それを決して表情には出さず――彼はゆっくりと大剣を握る手に力を込める。
少年自身が引き返す道を断ち切った以上、もはや戦いを回避する術はない。
武力を以て、傷と罪に塗れた少年の戦いを終わらせる。それが、アイラックスの決断であった。
「これで――最後だ」
そして。
彼の呟きを、合図とするかのように。
「――ぁああぁああぁあッ!」
「――おぉおおぉおおぉおッ!」
互いの足元から、破裂するように砂埃が吹き上がる。
螺剣風が巻き起こす竜巻が。弐之断不要が生む風圧が。地面の砂を舞い上げて行く。
弓矢を凌駕する早さと、槍を超える鋭さで、勇者の剣は螺旋を描いてアイラックスの大剣へ向かっていく。
(狙いは――私の剣か!)
眉間でも心臓でもない。
人体の急所からは明らかに外れた狙いに、意表を突かれたアイラックスは、弐之断不要を放つタイミングを僅かに外してしまった。
本来ならば確実に螺剣風を撃ち落とせる瞬間を外され――大剣の一閃に重量の勢いが乗る前に、螺剣風の一撃が巨大な刀身に命中してしまう。
「う……ぬ!」
体重が前方に乗る前に、後方へ大剣を弾かれたアイラックスの重心は、一気に後ろへと引っ張られて行く。その衝撃を受け、仰け反るアイラックスは完全に無防備となってしまった。
「はぁあぁあああッ!」
その一瞬に、勝機を望み。
竜正は痛みを押し殺し雄叫びを上げ、アイラックス目掛けて突進していく。螺剣風の反動で跳ね返り、空高く舞う勇者の剣を、「左手」でキャッチしながら。
だが、すでにアイラックスも迎撃の体勢に入ろうとしている。一瞬で柄を握り直し、弐之断不要の構えを取る彼の瞳には、自分に急接近してくる竜正の姿が映されていた。
螺剣風で右腕を痛めた竜正には、もう左手しか残されていない。だが、不慣れな左手での飛剣風では、正確な狙いなど不可能。
だから竜正は、博打に出ているのだ。ゼロ距離射程の飛剣風で、勝利を掴むために。
「ぬっ、う――あぁああぁあぁッ!」
「く……ぉぉおぉおぉああぁあッ!」
けたたましい叫びと共に、アイラックスの大剣が振り下ろされて行く。同時に、竜正は左の腰に勇者の剣を引き付け――飛剣風を放つ。
だが――その刀身に纏わりつく二角獣の幻影からは……まるで憑き物が落ちていくかのように、一本の角が霧散しつつあった。
そして。
二角獣が……一角獣に成り果てる時。
双方の決死の一撃は、互いを打ち倒してしまう。
しかし。
相討ちにも見えるその一瞬で、勝敗は決していたのだ。
「う……う」
竜正は地に倒れ伏したまま動けず、左肩を痙攣させながら苦悶の声をあげている。だが、その身に大剣で切り裂かれた痕はない。
一方。仰向けに倒れ、空を見上げるアイラックスの胸には――勇者の剣が、墓標のように突き立てられていた。
――あの一瞬。
竜正は、弐之断不要より先に飛剣風をアイラックスの胸へ叩き込んでいた。しかし、その直後に弐之断不要を放とうとしたアイラックスの腕が、上段から竜正の左肩を打ち抜いていたのだ。
圧倒的に体格で勝るアイラックスの拳を、小さな身体に受けてしまえば、もうまともに動くことはできない。
「……!」
両腕がまともに動かない状態のまま、竜正は身をよじり前方を見遣り――ようやく、決着が付いていることを悟るのだった。
そして――この結末を見届けた兵達は、確信する。帝国の勝利を。王国の敗北を。
「勝った……勇者様が勝ったぞ! 我が帝国が勝ったんだ! もはや恐れるものなどないッ!」
「アイラックス将軍が……そんな……!」
帝国軍は歓喜の声を上げ、王国軍は悲嘆と共に剣を落とす。降伏の意思を問うまでもなく、この戦には決着が付いていた。
アイラックスの敗北を目撃した瞬間、王国軍の兵達は、崩れ落ちるように戦意を失っていたのだから。
「タツマサ……」
決闘の行く末を見つめ、バルスレイも安堵の声を漏らす。その瞳には、命を賭して戦場を駆け抜け、ついに戦争を終結へ導いた少年の姿が映されていた。
――だが。
「我が帝国に歯向かった愚か者どもが、死を以て償え!」
「俺のダチの仇だ、死ねぇ!」
戦いは終わっているのに。剣を振るう音も人々の悲鳴も、途絶えてはいない。
この長い戦乱で、幾つもの大切なものを失ってきた帝国兵達は……士気を失い、戦えなくなった王国兵を猛襲したのだ。
白旗など上げさせない。徹底的に皆殺しにしてやる。
そんなどす黒い憎しみが、この戦場――否、戦場だった荒野に蔓延していた。
今、この場で繰り広げられているのは戦いではない。一方的な――蹂躙である。
「やめろ、やめぬか! 剣を収めよ、もう戦いは終わったのだぞ!」
その憎悪が生む負の力は、バルスレイの叫びを以ってしても抑えることは叶わなかった。帝国兵は次々と王国兵を嬲り殺しにしていく。
さらに女性兵は、鎧を脱がされ辱めを受けていた。長い遠征と戦いで疲れ果てた帝国兵達には、もはや真っ当な理性など残されていないのだ。
「やめ、ろ……やめろ……!」
喋ることも叶わぬまま、悲痛な面持ちでその光景を見つめるアイラックス。そんな彼の視線を辿ることで、竜正はようやく状況を理解するのだった。
だが、無理を重ねた身体は言うことを聞かず、竜正は立ち上がることもできずにいた。
それでもなお、彼は戦いを止めようとしていた。――そう。血に飢えた狂戦士だったはずの彼が、この惨劇を止めようとしていたのだ。
勇者の剣でも抑え切れないほどに罪悪感が溢れてきた頃に、剣が手元から離れたことで、本来の自我が強く前面に出るようになったためだ。
今の彼は、極めて素の「伊達竜正」に近い状態にある。
「やめろ、やめろ、やめろ! やめるん、だぁあぁあぁああッ!」
竜正はひたすら叫び、帝国兵達を止めようとする。が、帝国兵達はまるで聞く耳を持たず、無力と化した王国兵を次々と蹂躙していった。
(やめろ……もう、やめてくれ……!)
自分と共に戦い、同じ釜の飯を食い、背を預け合って生きてきた仲間達が、暴虐の限りを尽くしている事実。そんな彼らを止められない無力感。
その全てが一つになり、竜正の心を飲み込んで行く――。
(お願いだ……どうか……もう……!)
――それは、勇者の剣が増幅しうる負の感情の一つ。
「……やめてくれぇえぇえぇええッ!」
人が「悲しみ」と名付けたその感情は、持ち主の心を通して勇者の剣へと繋がっていく。
『……カナシイカ。カナシイカ。オマエノセイデモ、カナシイカ』
勇者の剣は、そんな彼の心を抉りながら。彼の胸中を、「現象」へと変えていく。
竜正の胸に募る痛みは、勇者の剣の刀身から放たれる暗雲となり、この荒野を覆い尽くしてしまった。
心の闇というものを象徴するかのような禍々しさを持つ、その雲は……瞬く間に空へ広がり、全ての兵士がその悍ましさを感じ取る。
人間の本能に訴えかける、その異様な空気は――理性を失いかけた帝国兵達ですら、手を止めるほどの圧力を持っていた。
「……あ、あぁ」
竜正はその光景と空を見上げ、悟る。
これは、自分が生んだ雲。自分が抱えてきた闇と、罪の全てなのだと。
――自分という人間は、これほどまでに醜いのだと。
目に見える形でそれを思い知らされた少年は、やっとの思いで身を起こしても、立ち上がることが出来ずにいた。自分の罪深さを、我に返った今になって、知ってしまったのだから。
「――我が軍の勇者が、敵将アイラックスを討ち取った! この戦いは我々の勝利である! 双方、武器を収めよ! これ以上、この地をいたずらに血で汚すことは許さんッ!」
一方、バルスレイはこの現象により兵達の勢いが削がれたことを感じ取り、すぐさま怒号を上げる。その声は暗雲に気を取られていた帝国兵達の耳に突き刺さり、彼らの意識を現実へと引き戻した。
「……」
そんな彼らを一瞥しつつ、竜正は倒れたまま動かないアイラックスへと視線を移す。微かに胸が上下に動いていることから、まだ生きていることが伺えた。
自分を救うと。血に汚れた自分を救うと言った、彼。
ふと、そんな彼の言葉を思い起こした竜正は、ふらつきながらも立ち上がると……身を引きずるように、彼のそばへと歩み寄って行く。
そして、彼の顔が見えたところで、力尽きたように両膝を着いた時――彼が、笑っていることに気づいた。
「……や、はりな」
「え……」
優しい眼差し。温もりに溢れた笑顔。
そんなものが罪を重ねた自分に――それも、こんな場所で。向けられるなんて。
ありえない。これは夢だ、きっと夢だ。
父さんが、こんな俺を……愛してくれるなんて、嘘だ。
――そう、心の中で叫ぶ竜正に、アイラックスはまるで我が子に注ぐような眼差しを送っている。
自分の命を対価に、息子を守った竜正の父と――全く同じ笑顔で。
「君は、悪魔などでは、ない。血が流れることを悲しむ気持ちがある、人間だ……。ルークはああ言ったが……やはり、君は……違う」
「……」
アイラックスは己の血に染められた手を、震えながら竜正へと伸ばして行く。その指先は、知らぬ間に頬を撫でていた少年の涙を、優しく拭っていた。
「君が悪魔ならば。悪の勇者だと言うならば……涙など、流せまい。彼らを、止めることもできまい。君は紛れもな、く……」
「……!」
それが、最後の力だったのだろうか。
彼は言い終えることなく、手を下ろし――生気を失った瞳は、暗雲が消えた虚空を見つめ続けていた。
もう、胸は動いていない。荒い呼吸も聞こえない。
あの時と、同じだった。
自分を守るために死んでいった父の、最期と。
「……ぁ、あ」
声にならない声を漏らし、竜正はアイラックスの瞼を静かに閉じる。その見開かれた瞳からは、悲しみの感情がとめどなく溢れていた。
(この世界でも……この世界でも、俺は、父さんを……!)
父を殺し。母を独りにさせて。母の元へ帰るために戦っていたかと思えば、もう一度父を殺していた。
父と同じ愛情を、敵であるはずの自分に注いでくれた、この人を。
(俺は、俺は……!)
その結末が。優しい父の死に顔が。
崩壊寸前だった竜正の心に、とどめを刺す。
「……あ、ぁ、あぁあ、あぁああぁあぁああぁああッ!」
この世の悲しみ全てを、声として吐き出すかのように。アイラックスの骸のそばで、竜正は悲鳴を上げ、のたうちまわる。
それに気づいたバルスレイが駆けつけ、懸命に正気を取り戻そうと呼び掛け続けたが――彼は血を吐いて気を失う瞬間まで、延々と泣き叫んでいた。
父とアイラックスの笑顔を、決して消えない記憶として、己の心に刻みながら。
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