第7話 姫騎士の敗北

 宙を舞い、円を描くように動き回る漆黒の鉄球。その得物を操るアンジャルノンの瞳は、どす黒い欲望を滲ませ、ダイアン姫を貫いていた。

 逆らうことを許さない圧倒的な力。向き合う者を圧殺するその迫力に、ダイアン姫の心が震え上がる。


(わたくしは、恐れない! 恐れてはいけない!)


 だが、まだ折れてはいない。最後の砦――理性は、まだ生きている。

 自身を狙い、弧を描いて襲い来る鉄球の一撃をかわし――彼女の凛とした眼差しが、眼前の仇敵を射抜く。


 次いで、彼女の身体が弾き出されるように、アンジャルノン目掛けて突進していく。その踏み込みの速さに、赤い巨漢が目を剥く瞬間――


「やぁあッ!」

「ぬ……!?」


 ――彼女の滑らかな曲線を描く肢体が、床の上を滑るように……アンジャルノンの股下を潜り抜けるのだった。

 鉄球をかわしてからの、流れるようなスライディング。一切の無駄を許さないその立ち回りは、見るものを魅了するほどの鮮やかさを放っていた。


「とあッ!」


 その流れは、まだ止まらない。

 アンジャルノンの背後に回ったダイアン姫は、背を向けた体勢のまま飛び上がる。その姿勢から後方に体を回転させ――太陽を背に、巨人の頭上へ舞うのだった。


「捉えたッ!」

「ぐ!?」


 そして、アンジャルノンがダイアン姫を捕捉する頃には。彼女は両膝で彼の頭を挟み、王家の剣を逆手に構えていた。

 反撃の一切を許さない、体格差を利用した速攻。アンジャルノンがそのスピードを捉えるより速く、彼女の剣が真紅の兜に突き立てられるのだった。


「……!」


 悲鳴を上げる暇もなく痛烈な一撃を浴び、赤い巨漢は足元をふらつかせる。兜には幾つもの亀裂が走り、その奥にある生身の頭は振動に脳を揺さぶられていた。


「はっ!」


 その反応に確かな手応えを覚えたダイアン姫は、短い叫びと共にアンジャルノンの胸板を蹴り、反動を利用して間合いを取る。

 残心を取る彼女の視線の先では、アンジャルノンの巨体が膝から崩れ落ちようとしていた。


「や……やった!」

「姫様が勝った……勝ったんだ!」

「やったぁぁああ! 姫様ぁあああ!」


 ダイアン姫の勝利を象徴するような、その光景を目の当たりにして――民衆は高らかに歓声を上げる。

 悪辣な巨漢を打ち倒す正義の美少女という、圧倒的なカタルシスを生むこの瞬間に、観客は熱く沸き立っていた。


「ルーケンさん! やった、やったよぉお!」

「当たり前だろ、姫様は無敵さ! 一対一で帝国の兵になんざ、絶対負けやしねぇ!」


 ハンナやルーケンも、涙を貯めて狂喜している。未だに渋い顔で試合を観ているダタッツを、尻目に。


(やった……! 手応えは確かにあった! これなら後は、「あの技」でとどめを刺せば……!)


 一方。片膝をついて俯き、震えているアンジャルノンを前に、ダイアン姫は強く拳を握り締めていた。

 確実に決まった一撃。怯んだ敵。それだけの現実が目の前にあるなら。

 希望を持っても、いいのかも知れない。恐れなくても、いいのかも知れない。


 そんな期待が、彼女の胸を満し――


「やってくれたな」


 ――アンジャルノンの俯いていた顔が持ち上がり、憤怒の貌が伺えた瞬間。


 赤く、巨大な拳が唸りを上げて。

 姫騎士の体に減り込むのだった。


「……が……!?」

「敗戦国の小娘が調子に乗りやがって。ひん剥く前に、ここでお仕置きだ」


 今までとは違う、低くくぐもった声で、アンジャルノンは毒を吐く。内に隠していた黒い感情を、剥き出しにして。


 痛みに叫ぶことさえ許さない、高速の鉄拳。その、巨漢の質量にものを言わせた一発を受けて――ダイアン姫の体が、激しく吹き飛ばされるのだった。

 闘技舞台の床を抉り、転がって行く姫騎士の痛ましい姿を目撃し、沸き立っていた観衆が凍り付く。


 正義が悪を打ち倒す、勧善懲悪の劇となっていたはずの試合が。強者のみが勝つ真の闘いとなる瞬間であった。


「う、ぐ……!」


 全身を打ち付けられたダイアン姫は、呻き声を上げて己の体を抱き締める。咄嗟の反射で急所への命中は避けた彼女だったが、両者のパワー差はそんな工夫さえ吹き飛ばすほどに大きい。

 今の一発だけで、すでに彼女のダメージは戦闘続行に支障を来すレベルに達していたのだ。


「く、う……!」

「ほぉ、まだ立てるか。……無理はしない方がいいぞ。どうせ『可愛がる』なら傷などない綺麗なカラダがいいからな」


 ふらつきながらも立ち上がるダイアン姫に、アンジャルノンは一転して品性に欠けた言葉を浴びせる。

 だが、今の彼女にはそれに反応する余力さえ残されてはいなかった。苦悶の表情を民に隠すことも出来ず、ただ立ち上がることにのみ意識を集中させている。

 それが、彼女の限界なのだ。これほどのダメージでさえなければ、回復魔法を行使することも出来たはずだが――もう、彼女にはその余力すらない。


「ル、ルーケン……さん……」

「おっ、おい! 騎士団はどうしたんだよ! やめさせろよ、こんな試合!」


 ダイアン姫のそんな姿を見て、観客も長い夢から覚めつつあった。血の気を失った表情で試合を見つめるハンナの肩を抱き、ルーケンは声を荒げて騎士団を呼ぶ。

 だが、この場に王国騎士団の人間はいない。ババルオの権勢に屈し、帝国兵を恐れている彼らが、ここに来れるはずはないのだ。

 帝国兵を恐れないことで知られるダイアン姫と、彼女を信奉する民衆を除けば、このババルオ邸は魔境なのだから。


「……」

「諦めろ。こうなることは始めから決まっていたのだ。お前は、ただ甘い夢に酔っていたに過ぎん」


 突き付けられた現実が、傷付いたダイアン姫の胸に突き刺さって行く。王家の剣を杖にようやく立ち上がった彼女だったが、すでにその心は折れかけていた。


(……全て、計画されていたことだったのですね。わたくしが、今日まで勝ち残って来たことも、全て……!)


 恐れていた可能性の群れが、自分を喰らい尽くそうと襲い掛かってくる。その感覚に、彼女の両膝が嗤うように震えていた。

 民のために耐えぬこうとしていた矜恃さえ崩れ、熱い雫が頬を伝って行く。自分という人間を形作っていたもの全てが、音を立てて瓦解していくのがわかる。


(弄んで、蹂躙して、支配して……! この国は、民は、お父様は、わたくしは……そんなことのために……!)


 そんな中。

 悔しさという、ただ一つの「怒り」に由来する感情が、彼女の胸を染め上げた時。


 悲しみの全てをぶつけ、訴えるように。

 今まで培ってきた剣術の基礎さえ捨てた、がむしゃらな剣技で。


 ダイアン姫は、王家の剣を振り上げ――アンジャルノンへ向かっていく。

 勝てないとしても、せめて一矢だけは報いたい。それだけの願いが、彼女を突き動かしていた。


 だが。


「往生際の悪いッ!」

「あうっ……!」


 それさえも、紅の巨人は道理を覆す「力」を以て踏み躙るのだった。

 裏拳の一撃を浴びたダイアン姫は真横に転がっていき、擦り傷だらけの姿で闘技舞台の上へ横たわる。命中の瞬間、舞台の周辺では痛ましい光景を目の当たりにした観衆の悲鳴が上がっていた。


 倒れ伏したダイアン姫は、身を震わせるばかりで動き出す気配を見せない。最後の力を振り絞った一矢さえ容易く跳ね返されてしまったことで、挫けまいと抗い続けてきた心が、とうとう折られてしまったのだ。

 もう、彼女は立ち上がることはできない。全ての支えを、崩されてしまったのだから。


「……わ、たく、しは……」


 彼女の視線の先では、床に突き刺さった王家の剣が輝いていた。失意の底に沈み行く彼女を、見下ろすかのように。

 その視界がぼやけ、景色が歪んだ時。彼女はようやく、自分が泣いていることに気付くのだった。


「なんの、ために……!」


 夢も希望も平和もない未来。力無き者が受ける屈辱の洗礼。

 逃れようのない事実だけが、彼女の目の前に残された。


 

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