第3話 城下町の料亭

 王宮を囲うように造られた城下町は、緑豊かで活気に溢れた街である。この街が戦場となる前に終戦協定が結ばれたため、帝国との戦争に敗れ属国となった今でも、街の美しさは健在であった。

 しかし帝国兵が常駐するようになってから、人々は彼らの横暴に怯える日を送っている。彼らに敵わない立場であることから、王国騎士団の機能が麻痺していることも大きい。

 しかしただ一人、帝国兵に物怖じせず、毅然と対応できる騎士が今も居るのだという。


 かつて最期まで王国の未来のために戦い続けたと言われている、アイラックス将軍。その血を引く娘が、敗戦国となった今でも父に代わり、帝国兵の狼藉に抗していたらしい。

 今は帝国の要請に応じて剣の出稽古に赴いているが――王国に帰ってくる日も近いのだという。


 そのアイラックスの娘から手解きを受けた王女ダイアンも、萎縮している騎士団に代わり街の治安維持に力を注いでいるのだ。

 敗戦により生じる責任に追い詰められた国王は大病を患い、王妃はその心労によりこの世を去った。ダイアンにとって騎士の一人として戦うことは、妻を失い床に伏せた父を励ます意味もあったのである。

 ――そう。彼女もまた、アイラックスの背中を見て育った一人なのだ。


 本来ならば王族が選ぶべき道ではなかっただろう。しかし若い彼女に他の道程を探すことは出来ず、それを教える者も現れなかったのだ。

 帝国兵を恐れない。そんな人間自体が、希少だったのだから。


「そうだったんですか……。ジブンとしては、そんな大したことをしたつもりはなかったんですけどね」

「それが大したことなんだよ。ハンナが連れ去られそうになった時はどうなることかと思ったが……君が時間を稼いでくれたおかげで、姫様が駆け付けて来て下さった。君には本当に感謝してるよ」


 ――あの後、地面に突き刺さっていた男は町民の尽力により無事に引っこ抜かれ、今は看板娘を助けるために立ち向かってくれたお礼として、ルーケンが経営する料亭で食事を摂っている。

 従業員用ベッドで一泊サービスという、豪華なおまけ付きで。


 ルーケンは鼻頭を覆う包帯を撫でながら、大量のメニューを平らげていく男を微笑ましげに見つめていた。……どこか、遠くを見ているような目で。


 そんな彼の表情を不思議に思いつつ、男は咀嚼していたパンを飲み込むと、静かに口を開く。


「……ダイアン姫かぁ。あんなにお若いのに、国民のことをそこまでして守ろうとするなんて……凄いですよね」

「ああ全くだ。欲に目が眩んで殺戮に手を染めた帝国勇者には、爪の垢を煎じて飲ませてやりたいよ」

「……ええ、まぁ、そうですね。全くその通りです」


 自慢げに語るルーケンに対し、男の表情は固い。気まずい話題に触れてしまったかのように、その視線はあらぬ方向へ泳いでいる。


「しかし、よく食べるねぇ君は。やはりあんなに激しく動ける体となると、それくらい食べなきゃ持たないものなのかな」

「あ、す、すみません。遠慮も知らずにこんなにたくさん……」

「いいんだいいんだ、気にしなくて。年頃の男はたらふく食ってなくちゃな」


 ルーケンはそんな男の様子に気づかぬまま、気さくに話を続けている。すでに夜の帳が下り、営業は終了している時間帯だが、そんなことはお構いなしのようだ。


 ――本来ならば、あのような動きは武人を基準にしても「激しく動ける」で片付くレベルではないのだが……戦士の世界に疎い民間人である彼らは、「そういうもの」で納得してしまっているらしい。

 一部始終を見ていた町の通行人も、曲芸のようなものとして男のジャンプを見ていたのである。


「ところで君……ええと……」

「ダタッツです」

「そうそう、ダタッツ君。随分珍しい名前だけど、どこから来たんだい? 見たところ、ハンナに近い年頃のように見えるが……」

「……とにかく、遠いところからですよ。歳は十九歳です」

「十九歳。そうか、十九歳か……」


 その数字を聞き、ルーケンは腕を組んで黙り込んでしまう。ダタッツと名乗る男は、何事かとその顔色を伺っていた。


「あの、どうかしました?」

「いやなに。前の戦争で死んだ息子が、生きていれば今頃それくらいの年になってたんだよ。昔から札付きの悪ガキだったんだが、情には熱い奴でな。帝国が許せないって一心だけで、俺の言うことも聞かないで少年兵に志願したんだ」

「……」

「孤児のハンナにとっちゃ、頼れる兄貴分でもあった。俺には一言も話さなかったが――多分、ハンナがいるこの街を守りたかったんだろうな」


 あのウェイトレスの少女――ハンナが、ルーケンの料亭に拾われた孤児であることを、ダタッツは既に彼から聞き及んでいた。


 死んだルーケンの息子とハンナは、兄妹のように育ってきたのだろう。戦争がなければ、帝国勇者がいなければ、それは今でも続いていたのかも知れない。


 店の床を掃除をしながら、痛みに耐えるような面持ちで下を見つめる、残された彼女の姿がそれを物語っている。


 だからこそ彼は、帝国兵達に泣きついてでもハンナを救おうとしたのだろう。妻を早くに亡くし息子も失った今、自分の家族は彼女しかいないのだから。


「だから、俺は心から感謝してるんだ。その息子の想いごと、この街を守ってくれている姫様には」

「……そうだったんですか」

「……ハッハハ、辛気臭い話になってしまったな。ところで、この先の宿はどうするつもりなんだ? 当てのない旅を続けてる……とは聞いてるが」

「あまり長く滞在する予定はないんで、適当に野宿で済ませるつもりです」

「なら、当分はここに泊まるといい。宿泊費と食費は、仕事の手伝いへの報酬として出してやる」


 空気を変えるためか、ルーケンは話題を変え――意外な提案をする。その内容に、ダタッツは思わず目を丸くしていた。


「えぇ!? い、いや、そんなの悪いですよ!」

「なぁに。ハンナ目当ての客が増えてきて、人手が足りなくなってきたことだしな。君のような男なら、ハンナも気に入るだろう」


 遠慮する彼に対し、ルーケンは乗り気で話を進めている。すると、その言葉に反応して――


「ちょ、ちょっとルーケンさんっ! 誤解されるようなこと言わないでよっ!」


 ――店の掃除をしていたハンナ本人が、顔を真っ赤にして割り込んで来るのだった。


「なんだハンナ。『すっごくいい人なんだから泊めてあげようよ』って言ってきたのはお前だろうが」

「そ、それはそうだけど! 私は別にそういうつもりで言ったわけじゃないんだから!」

「ほう? そういうつもりとはどういうつもりのことを言うのかな?」

「……もう! ルーケンさんのばかっ!」

「ハッハハハ!」


 ぷりぷりと頬を膨らませる彼女の様子を楽しみながら、ルーケンは声を上げて笑っている。彼のからかいに機嫌を悪くしたのか、ハンナはジトっと目を細めてダタッツの方を見遣った。


「……泊めてあげるのは本当だけど。えっちなことはダメだからね」

「あの、ジブンはなにも……」

「あと……その。あの時、助けようとしてくれて、本当にありがとうね。ダタッツさんの気持ち、嬉しかったから」


 ただ、やはり感謝の想いの方が優っていたのだろう。彼への礼を一通り口にして、彼女は恥ずかしがるように退散していく。

 すると。


「あ……あっ!?」

「――夜分に、失礼します」


 ハンナは逃げた先の扉から、毅然とした面持ちで現れた来客に驚愕するのだった。

 営業時間を過ぎたあとになって来たことに驚いているわけではない。その来客が……ダイアン姫であることが問題なのだ。


 昼間と変わらない緑の軽鎧と、煌びやかな剣と盾。その装備に身を固めた彼女は、物々しい表情で料亭の中に足を踏み入れて行く。

 突然現れたこの国の王女に、三人は思わず目を見張るのだった。


 慌てて両膝を着くルーケンとハンナに釣られるように、ダタッツも騎士の如く片膝を床に付け、剣を床に突き立てる。


「ひひひ、姫様!? なぜこのようなところまで……!」

「……よかった。痛みはもう引いているようですね。わたくしの魔法がよく効いているようで、何よりですわ」

「は、はい。姫様のお力添えのおかげで、この通りでございます。私共のような下々のために、なんとお礼を申し上げればよいのか……」

「下々、などではありません。あなた達という国民一人一人が、わたくし達の宝。王女として、その宝を守るために力を尽くすのは当然の責務です」

「は、ははっ! 身に余る光栄ですっ!」

「ありがとうございます、ダイアン姫っ!」


 古の勇者が魔王を打ち倒し、今日に至るまでの数百年。帝国は領土拡大のため、幾度となく戦争を繰り返し……戦いのための兵器として、「魔王を討つため」に神から齎されたとされる「魔法」を行使してきた。

 そのため、帝国の行いに怒った神の手により魔法の力は人類から失われ――人類最後の希望である「勇者召喚」の儀式を除く全ての魔法が、神の世界へ返納されたと伝えられている。


 だが、勇者の伴として魔王に挑んだ僧侶が操っていた「回復魔法」のみは、その僧侶の血筋に残されていた。

 異世界から召喚された勇者と共に戦い抜いた、その僧侶こそが――この王国の始祖なのだ。


 伝説に語られる僧侶の血統を持つこの国の王族が、勇者召喚の儀式を行える帝国の皇族に並ぶ「魔法使い」であることは有名であり、大陸全土にも広く知られているのである。


 ダイアン姫はその美貌ゆえ、数多くの求婚者を集めている人物であるが――諸外国の貴族や王族が彼女を求める理由は、美しさだけではないのだ。


(この世界に残った、数少ない魔法使い……か)


 噂でしか知らなかった、唯一無二の存在を見上げ――ダタッツは彼女が背負っているものの重さを、垣間見るのだった。

 そして振り子のように何度も頭を下げるルーケンとハンナを見習い、彼は深々と頭を垂れた。


 そんな彼を静かに見つめるダイアン姫は――スゥッと目を細め、静かな足取りで彼の傍へと歩み寄る。


「……頭をお上げください、旅のお方。お名前を伺っても?」

「……ダタッツ、と申します」


 姫の言葉に応じて顔を上げるダタッツは、彼女の蒼い瞳と視線を交わす。

 一方、ダイアン姫は片膝を着いているダタッツの姿を、品定めするかのような目で見つめていた。


 胸に当てられた拳。垂直に突き立てられた銅の剣。整然とした佇まいの片膝立ち。

 そのみずぼらしい旅人とは掛け離れた一面を、彼女は暫し凝視していたのだ。


「ダタッツ様……ですか。この度は帝国兵の横暴からわたくしの至宝を守って頂き、誠にありがとうございます。頭から石畳に落ちたと伺っておりますが、お怪我の方はいかがでしょうか」

「えぇ、これくらいなら全然平気です。頑丈さだけには自信がありますから」

「そうですか……。ご無事なようで、本当に何よりです」

「ははっ、ありがとうございます。――しかしダイアン姫。どうしてこちらへ……? それにも、こんな夜更けに……」

「ダ、ダタッツ君!」


 そんな彼女に対し、ダタッツは王女がこんな夜更けに尋ねてきた理由を問うていた。その発言を慌てて咎めるルーケンを掌で制し、ダイアン姫はゆっくりと口を開く。


「よいのです。確かに、夜の見回りまで王女のわたくしが務めているというのは、旅のお方からご覧になれば不自然でしょうし」

「夜の見回り、でありますか……」

「はい。騎士団の方も、日頃から巡回や訓練はされておられるのですが……どうも、帝国軍の駐屯兵と接触するのを避けてばかりいるようで。今彼らが問題を起こした場合、諌められるのはわたくしだけ、という状態なのです」

「噂では、あのアイラックス将軍の御息女もたいそう勇敢なお方であると……」

「……ええ。ヴィクトリアはわたくしの剣の師匠でもありました。今は帝国まで出稽古に赴いていますが、じきにこちらへ帰って来ることでしょう」


 遠い場所を見つめるように、ダイアン姫はダタッツから視線を外す。

 ――つまり。王国の騎士団が萎縮している今、帝国軍の乱暴を抑えることが出来るのは彼女と、ヴィクトリアと呼ばれる女騎士だけなのだ。

 ダイアン姫自身もそれを深く承知しているからこそ、夜の見回りから抜けられないのだろう。


「そうだったのですか……それであなた様が、お一人でこんな夜更けまで。――おいたわしや」

「いいえ。わたくしはあくまで、王女という立場にものを言わせているに過ぎません。真に実力で彼らを抑えているのは、実質的にはヴィクトリア一人なのです」

「なんと……」

「そこで……あなた方に今後のことを忠告するべく、今宵こちらへ参ったのです」

「忠告、ですと?」

「はい」


 そこで一度言葉を切り――ダイアン姫は薄い桜色の唇を、きゅっと結ぶ。その眼差しは沈痛な色を湛え、この料亭にいる三人を見回していた。


「……この辺りを巡回している帝国兵には、法はおろか人としての矜持すら守らない人間が数多く居ます。昼の件で、あなた方が目を付けられてしまった可能性もあるでしょう」

「……!」

「わたくしも乱暴などさせないよう、今以上に目を光らせるつもりですが――あなた方も、どうかお気を付けて。特にダタッツ様は、明確に帝国兵と対峙してしまわれたようですから……」

「――わかりました。ダイアン姫も、どうか無理をなさらないよう……」

「ありがとうございます」


 帝国兵の横暴について警告しているダイアン姫の表情は、身を斬られたかのように痛ましい。

 自分一人では、守りたいものも守れない。ご安心ください、と言い切ることもできない。気を付けてと、忠告することしかできない。

 その悔しさが、彼女の顔色から滲み出ているようだった。


 それを察してか、ダタッツは労うように言葉を掛けて頭を下げる。彼の礼を見つめていたダイアン姫は、その言葉を受けてようやく元の凛々しい表情に立ち戻るのだった。


「十日後には、またババルオ様主催の親善試合が行われます。わたくしがそれに勝利した時は――もう一度、ここに立ち寄らせて頂きますね。次は、食客として」

「しょ、食客だなんて滅相もない! このような場所に姫様が来られなくとも……!」

「城の食事は毒味を繰り返しているせいで、いつも冷え切っているんです。その点、こちらの料亭からはいつも温かい食事の香りがして……。特に昼間、巡回している時に鼻腔を擽る肉の匂いがたまらないんです。いけませんか?」

「そそ、それは……!」


 気丈な面持ちに復活したダイアン姫は、跪くルーケンに対して穏やかに微笑み――彼に冷や汗をかかせている。

 その姿を横目に見ながら、ダタッツはこっそりとハンナに耳打ちしていた。


(あの、親善試合とは一体……?)

(定期的に、ババルオっていう醜い帝国貴族がダイアン姫の剣技が見たいって、自分の部下と戦わせてるのよ。毎回、ダイアン姫が快勝してるんだけどね)

(なるほど。やはり、物凄くお強いのですね。ダイアン姫は)

(うん! 向こうも弱っちいのばっかりだから、実質的にはダイアン姫のカッコイイところが観れる演武みたいなものよ)


 定期的に行われる親善試合。その主催者と思しき男の名を聞き、ダタッツは眉を潜める。


(……ところで、そのババルオとは?)

(戦後、城下町に屋敷を建てて居着いた好色ブサイク貴族よ。なんでも、王国の様子を監視する役割で来てるんだって。一応管理されてる立場だから、ダイアン姫も親善試合は断れないのよ……)

(そうだったんですか……本当に、大変なのですね)

(うん。――でも、ダイアン姫にかかればどんな敵も楽勝よ。今までもそうだったんだから!)


 溢れんばかりの自信を込めて、ハンナは小声で姫君の勝利を宣言し――ダタッツに向けてウインクする。

 その頃にはダイアン姫とルーケンの話にも決着がついており、結局彼女が親善試合の後に料亭まで来客することとなっていた。


「では……わたくしも、そろそろ城に戻ります。あまりに遅いと、父も心配しますから……」

「ええ。おやすみなさいませ、ダイアン姫」

「姫様、おやすみなさいませ!」

「おっ……おやすみなさいませっ!」


 踵を返して立ち去って行くダイアン姫。

 その背を三人は、膝をついたまま見送るのだった。

 しばらく続いていた緊張の一時は、彼女の姿と足音が消えた時――終わりを迎える。


「ぶっ……はぁあ〜! まさかこんな時間に姫様が訪ねて来るなんてなぁ……!」

「もう私、心臓が止まるかと思っちゃった!」

「しかしダタッツ君、姫様を前にしてよく物怖じしなかったなぁ。だけど、もう少し慎ましくしてなきゃいかんぞ」

「は……はぁ、すみません。どうしても気になって仕方がなかったので……」

「全く……まぁ、この国の現状をよく知らんのなら無理もないか」

「帝国兵を怖がらない上に、ダイアン姫にいきなり質問しちゃうなんて。ダタッツさん、ホントにただの旅人なの?」

「見ての通り、ただの旅人です」


 緊迫感から解き放たれた瞬間、ルーケン達は溜め込んだ息を吐き出す勢いで、互いに言葉を交わし合う。

 そんな中、興奮している二人を尻目に、ダタッツはダイアン姫が去った後の扉を静かに見つめていた。


 一方、その頃のダイアン姫は。


(ダタッツ様のあの佇まい……それに、あの剣の立て方……。あれは騎士が高位の貴族や王族に接する際に使う、最も丁寧な礼法の一つですわ)


 夜道を徘徊する帝国兵達に睨みを利かせながら、王宮への帰路についていた。自分の胸と臀部に向けられる、帝国兵達の劣情の視線には気付かないまま。


(……少なくとも、傭兵稼業で身につくものではありませんね。恐らくは元騎士か、騎士の家系の出身か……)


 彼女の白い足が石畳を踏む度に、ダイアン姫の栗色の髪がふわりと揺れる。その艶やかな香りは、風に乗って城下町の街道へと流れていた。


 騎士の礼法。その基本形は万国共通であるが、国ごとに細部が異なる場合が多い。騎士の礼法にお国柄が出る、と言ってもいいだろう。

 ゆえに最も丁寧で原型に近い礼法を習得している騎士は少なく、今では王族と接する機会を持つ上流騎士くらいしか把握できていないのが現状なのだ。


 その「原型に近い礼法」を、ダタッツは完璧にこなしていた。彼の実態を思案するダイアン姫は指先を唇に当て、さらに考え込む。

 王宮の目前まで来ても、それは続いていた。


(しかし、我が国にはあの人を除いて、黒髪の騎士などいない……。帝国出身の元騎士だとするなら、この街の駐屯兵を恐れなかったことにも説明が付きますが……)


 門番の敬礼にすら気付かないまま、彼女は王宮の中へと進んで行き――とうとう、国王が眠る寝室前に辿り着く。

 就寝前に病床に伏した父の元へ向かうのが、日課になっているのだ。無意識でも、そこに足を運んでしまう程に。


(上流騎士が身分を捨てて……あるいは隠して、なぜこの国に……? 権威はおろか碌な武器も携えないで、勝者の立場にある人間が、なぜ……?)


 その入り口となる扉に手を当てたところで……ダイアン姫は、一旦思考を断ち切る。

 父と会う最中に余計な考え事をしていてはいけない、という理性が働いたのだ。


(……ただ何にせよヴィクトリアが居ない今、この街に駐屯している帝国側が強引な手段に出ても、わたくし一人では民を守り切ることができない……。せめて味方であって欲しいと、祈る他ありません)


 帝国の侵略が原因で母を失った身である彼女にとって、帝国出身の疑いがある人間を頼るのは、本意ではない。しかし、個人の感情で敵をいたずらに増やすわけにはいかない。今は、その考えの方が強いのだ。

 それに、例え憎い帝国の人間だったとしても。民を守る一助となってくれる可能性が、ほんのわずかでも有るのならば、自分はそこに縋るしかないのである。

 栄えある帝国騎士の身分を捨てて、敗戦国の王国に寝返るメリットが皆無であるとしても。彼の身の上を、全く知らない状況であるとしても……。


「失礼します……お父様」

「……おお、ダイアンか。聞いたぞ、今日も民のために……よく、働いてくれたようだ、な……ご、ごほっ!」

「あ、あまり力を入れて喋ってはなりません! ほんの少し、ご挨拶をさせて頂くだけですから……!」

「す、すまん……世話をかける」

「いえ……これくらいしか、わたくしには……」

「ダイアン……」


 目の前で苦しむ父に……帝国に蹂躙される民がいない、平和な王国の姿を見せるには。誰であろうと、助けを乞うていくしかないのだ。

 父の幸せ。それがダイアン姫が望む、ただ一つの願いなのだから。


(お願い……誰か。誰でもいいから。お父様を……わたくし達を、助けて……!)


 ……一方。王宮から少し離れた場所にある、豪勢な屋敷では――


「ババルオ様、またしてもダイアン姫が我らに邪魔立てしたようですぞ」

「ほう、またか。随分とまぁ、気丈な小娘だな。――だからこそ、堕としがいもあるというものだが」


 ――二人の醜悪な男が、薄暗い一室の中で会談していた。


 ババルオと呼ばれる、肥え太った髭面の男は、帝国製の煌びやかな装束に身を包んでいるが……その装束が泣き出しかねないほどの醜い顔の持ち主でもあった。

 鼻は豚のように低く丸く、唇はでっぷりと太く前面に突き出ており、贅肉のあまり首は胴体とほぼ一体化してしまっている。繋がった太眉の下にある細い目は、窓から伺える王宮に向かっていた。


「今頃、ダイアン姫は夜の湯浴みに向かっているのだろうな。くく、もうじきその肢体を儂が洗ってやるようになるのかと思うと、興奮が収まらんわい」

「ええ……全くですな。して、いかがされますか? 女を引っ掛けようとしては邪魔されてばかりで、兵達も苛立っているようですが」

「敗戦国の小娘とはいえ、れっきとした王族の一人だからな。皇帝陛下がお気に召しているアイラックス将軍の娘もいることだし、今まで簡単に手出しはできなかった――が、それも終わりだ」


 強大な帝国を相手に五年以上も善戦した名将として、アイラックスの名は帝国にも轟いている。敵ながら見事な手腕であるとして、戦後に皇帝がアイラックスの奮戦を讃えたのは有名な話であった。

 そういった背景もあり、属国という形になった王国の人間に対しても、帝国人は敬意を持って接するように――と、帝国軍上層部からの勧告も行われたのだが……末端の帝国兵には、そんな意識はほとんどないのが実状である。

 だが、それでも件の勧告がなければ、王国は帝国兵の略奪が横行する無法地帯となっていただろう。王国が正真正銘の属国となっていたなら、帝国兵達はダイアン姫にすら襲い掛かっていた。


 王国の監視を任されている上流貴族であるババルオは、戦後間も無く帝国兵達を統括する立場となり、六年以上に渡りこの屋敷に居座り続けている。

 彼が自らその任務に志願し、この城下町に居着いている理由の一つは、ダイアン姫にあった。


「アイラックスの娘がおらぬ今なら、小娘一人を堕とすことなど容易い。儂の妻として――奴隷として、たっぷりと仕込んでやるわい」

「……親善試合の準備は万全。楽しみですなぁ、ババルオ様」

「親善試合で『不覚を取り』、傷付いた姫君を『不思議な薬』で献身的に治療した儂に、美しき姫は『心を奪われ』めでたく結婚。アイラックスの娘が帰る頃には、儂は新国王となっている。……そしてあの娘も妾として、次代の王族を身籠ることになる」


 隠すことなく獣欲を滾らせた瞳で、ババルオは王宮を射抜く。野望を語る彼の膨らんだ口元は、歪に吊り上がっていた。


 アイラックスの娘――ヴィクトリアは帝国人を非常に毛嫌いしている。

 それは帝国が父の仇である以上、当然のことなのだが……王国に居座り、敗戦国の街となった城下町を牛耳るババルオに対する嫌悪感は、一際強かったのだ。


 しかし、その憎しみが込められた視線を浴びせられていたババルオは怒るどころか――興奮すらしていた。

 この強気な娘を屈服させて、自分の為すがままにすれば、どれほど満たされるか。皇帝さえ賞賛した、王国の誇りであるアイラックスの娘を我が物にすれば、どれほどの征服感が得られるのか。

 その期待が、ババルオの衝動をさらに駆り立てていたのだ。


「そうなれば、この国の生殺与奪の全てはババルオ様のもの。もはや、誰にも止められませんな」

「そうとも。だいたい儂は、属国に成り下がった王国如きに気を遣わなくちゃならん今の状況が、何より気に食わんのだ。何が敬意だ……敗者はどれほど立派に戦おうが、負けたからには敗者に過ぎんのだぞ!」


 すると、彼は厭らしい嗤いから一転し――憤怒の形相で机を殴りつけた。その衝撃で、部屋を照らすロウソクの炎が大きく揺れる。


「仰る通りですな。勝者が敗者から何もかも奪い尽くすのは、当然のことでしょうに」

「全くだ! 数千年、それこそ『魔王』を倒すために『勇者』が召喚された伝説が始まる以前から、長きに渡って帝国はそうして栄えてきたというのに! 何が敬意だ、何が見事な奮戦だ!」

「ええ、ええ、その通りですとも。そのためにも今回の計画で、ダイアン姫を必ず手中に収めましょうぞ」

「無論だ! そのためにわざわざ姫君の油断を誘うため、貧弱な傭兵ばかりを充てがって来たのだからな。アンジャルノン、ぬかるなよ」

「承知しております」


 その炎による明かりの中に――ババルオとは違う、もう一つの人影が現れる。

 ババルオとは桁違いの体格を持つ、大男の影が。


「このアンジャルノン、ババルオ様のため――必ずや、計画を成功させてご覧に入れましょうぞ」

「よし。……成功の暁には、おこぼれに預からせてやろう。好きな方を選ぶがいい」

「それは楽しみですな……」


 夜の屋敷に、下卑た男達の嗤いが響き渡る。その悪しき闇を知る者は、誰もいない……。

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