第2話 姫騎士ダイアン
六年前。一つの大陸が広がるこの世界では、「勝敗が始めから見えている」戦争が起きていた。
大陸の大部分を統治する、絶対的な国力を誇る帝国。小国ながらも、豊かな土地に恵まれた王国。
戦になれば、どちらが勝つか。考えるまでもないだろう。
資源に溢れた王国の領土を狙う帝国に対し、王国軍が強硬に反発したがために発展した、この武力衝突。
王国は半年も持たないだろう。誰もが、そう予見していた。
だが。帝国は絶対有利と見られていたこの戦争で、思わぬ苦戦を強いられたのである。
仁知勇を備えた王国の英雄、アイラックス将軍。
彼の存在を中枢に持つ王国軍は勇猛果敢に戦い、帝国軍を幾度となく退けていたのだ。
開戦から五年。アイラックスにより侵攻を食い止められていた帝国軍は、周辺諸国に隙を見せる事態を懸念するようになっていた。
そして――それを受けた時の皇帝は、ある決断を下す。
それは遥か昔、全世界を恐怖に陥れた「魔王」から人類を救うため、異世界から遣わされた「勇者」を召喚する儀式を行うことであった。
人類を救うために舞い降りるはずの「勇者」を、人間同士の戦争に使う。
その責を一身に背負う覚悟で、皇帝は儀式を決行し――勇者となる男を、この世界に呼び込んでしまったのだ。
以来、戦況は本来の形成へと引き戻されることになる。
さしものアイラックスも真の超人である勇者には敵わず、敗走を繰り返し――最後には討ち取られてしまうのだった。
これにより王国軍は瓦解し、敢え無く降伏。一人の将軍により覆された戦況は、一人の勇者により押し潰されてしまったのだ。
――戦後、王国は帝国の属国となり、終戦から六年が過ぎた現在でも、ほとんどの国土が帝国の統治下に置かれている。
それでも王国の民は、最期まで国のために戦い続けていたアイラックスを、英雄として讃え続けていた。
一方、勇者はこの戦争における帝国の英雄となったが、王国では「初めて人類に牙を剥いた悪夢の勇者」であるとされ、彼を召喚した帝国に対する皮肉として「帝国勇者」と呼ばれるようになった。
だが、その頃には既に勇者も帝国から姿を消しており――その行方を知る者はいなかった。
帝国側は勇者に失踪された事実を隠蔽するため、最後の戦闘で戦死したと公表したが――彼の死を疑う者は少なくなかった。
しかし確固とした生存の証が見つかることもなく、いたずらに時間ばかりが過ぎていくうちに……やがて、生きているという噂は立ち消えになっていった。
そんな激動の時代から、六年。
「やっ……! は、離してくださいっ!」
「いいじゃねーかよ、つれねぇな。王国人たるもの、帝国人の言うことには従っておくもんだぜ」
「そーそー。負けた奴には拒否権なんてねーのさ」
帝国の支配下に置かれた、王国の城下町では――当たり前に繰り返される横暴が、今日も民を苦しめている。
昼下がりの街道にある、小さな料亭。その入り口で、一人の少女を数人の男達が包囲していた。
均整の取れたプロポーションに、栗色のセミロング。翡翠色の瞳に、程よく日に焼けた健康的な柔肌。
そして、十七歳という年齢の割には幼く――愛嬌に溢れた顔立ちと、素朴な印象を与えるそばかす。その全身を彩るように包むウェイトレスの服。
そんな彼女に対し、男達は全員が鋼鉄で固められた兵士の鎧を纏っている。さらに彼らが被る、鬼の如き双角を備えた鉄兜が、陽の光を浴びて怪しい輝きを放っていた。
武装した兵士達が丸腰の女性を囲うというのは、本来ならば極めて異質な光景であるが――この街においては、その限りではない。
駐在している帝国兵が、王国人の女性に手を出す事案など、今に始まったことではないのだ。
昼下がりの街道とあれば、人通りも少なくない。事実、彼らのやり取りを遠巻きに眺めている人達は大勢いる。
だが、観衆の中に少女を助けようとする人間はいない。
帝国兵に逆らえば、何をされるかわからない。それは誰かが警告するまでもなく、一つの常識としてこの街に浸透しているのだ。
「き、騎士団の方を呼びますよ!」
「呼べばいいじゃねーか、俺達に勝てるんならな」
「例のアイラックスの娘とやらは、出稽古で城下町にはいねーんだろ? あいつがいねぇ腰抜けの騎士団が来るってんなら、こっちも誠心誠意を込めてぶちのめしてやるさ」
「……!」
少女は声を高らかに上げ、視線で周囲に助けを求めるが――通行人は困惑して顔を見合わせるばかり。
そうしている間にも、帝国兵達は無遠慮に少女の身体に触れて行く。自分の肌を這うように撫でる男達の手に、彼女の表情は凍りつくように青ざめていた。
「ん? 呼ばねーのかい、嬢ちゃん。なら、合意の上ってことだな」
「どうせなら詰所までエスコートしてやろうぜ。あいつらも溜まってるらしいしな」
「そりゃいい。嬢ちゃんならきっとモテモテだよ」
「……た、助けて……!」
「ハハ、怖がるこたぁねーよ。みんな優しくしてくれるって」
彼女が怯えていることを知ってかしらずか、帝国兵達は少女の両脇を固めて移動を始める。それに逆らうことも許されないまま、少女は引きずられるように足を動かしていた。
「お、お待ちください帝国の方々!」
「あん?」
「そそ、その娘は私共の店で小さな頃から働いている大事な看板娘なんです! どうか、どうか乱暴なことは……!」
「……っほぉ〜……! 泣かせるねぇ、いい娘じゃねぇか嬢ちゃん。だったらなおさら、俺達で日頃の苦労を労ってあげなくちゃなぁ」
「そ、そんな!」
そんな時。
帝国兵達に縋り付くように、店のオーナーらしき初老の男性が制止に入る。
だが、彼の言葉を真摯に受け止めるような人間達なら、そもそも女性を強引に連れ帰るような真似はしない。
「お願いします、その娘は私達にとっては家族なんです! お代ならお返ししますから、どうかその娘だけは……!」
「――あぁもう、うるせぇな! グダグダ抜かすとこの女だけじゃ済まなくなるぞ!」
「うがっ……!」
「キャアッ! ルーケンさんっ!」
懸命に食い下がる男性の鼻頭に、剣の柄が減り込む。痛烈な一撃を受けた彼は膝から崩れ落ち、帝国兵の一人から罵声を浴びせられた。
その光景を目の当たりにした少女は、我に返ると短い悲鳴を上げ、すぐさま彼のそばに駆け寄ろうとした――が、他の帝国兵達に両脇を固められていては、身動きなど取れるはずもない。
ルーケンと呼ばれた男性は、なおも少女を助けようとするが――彼の覚束ない足取りでは、もう帝国兵達を追うことはできないだろう。
そうしている間にも、少女は帝国兵の男達に連れ去られようとしていた。
街の人々はその様子を見送りながら、やがて申し訳なさそうに目を伏せて、この場を離れていく。帝国兵にだけは、目を付けられないように。
それが、敗戦国の民が生き延びる術なのだから。
――だが。
「ちょっと待った!」
その理から外れた男が一人。
帝国兵達の前に現れた。
「あ? なんだお前」
「女の子に乱暴したり! 人に怪我させたり! そんなことをしてるあんた達を、見過ごすわけには行かないな! さぁ、彼女を離せッ!」
「……はぁ?」
身の程を知らない――としか思えぬ男の言葉に、帝国兵達は唖然としている。
それにより、数秒程度の沈黙が流れ――
「ぶっ……はははは! なにお前! 正義の味方気取りか!? しかもその格好で!?」
「イカれた奴がいるもんだな、王国には!」
「や、やべぇ! 笑い死にしそう!」
――爆笑に次ぐ爆笑。絶え間ない笑い声が、城下町の往来に轟いていた。
王国の騎士団ですら、怯えてまともに取り合えない帝国兵を前に、この台詞を吐けば笑われて当然なのだが……当の本人はきょとんとしている。
「あ、あのな! ジブン、結構真面目に言ってるんだけど……!」
「ひひひ、わかった、わかったからもうこれ以上笑わせんなって。聞かなかったことにしといてやるからよ」
「イイ歳こいてダセェ格好してんじゃねーよ、ギャハハハ!」
「騎士団ごっこはそろそろ卒業しろよ、親が泣くぞ!」
そんな彼の傍らを素通りしつつ、男達は下品な笑い声を上げて往来を進んでいく。一方、少女は現れた男を虚ろな瞳で見つめていた。
彼らが笑う理由には、男の格好も含まれている。
ボロボロに擦り切れた青い服。くたびれた赤いマフラー。傷だらけの木製の盾に、刃こぼれだらけの銅の剣。
下級貴族に雇われた傭兵でも、もう少しマシに武装しているだろう。物乞いがありあわせの物で剣士ごっこに興じているような姿であれば、笑われるのも当然である。相手が強大な帝国兵であるなら、なおさらだ。
黒曜石の色を湛える艶やかな髪や、逞しい身体つきに整った目鼻立ちというまともな特徴を、丸ごと帳消しにするみずぼらしさなのだから。
「ちょっ! ちょっと待てってば! まだ話は終わっちゃいないぞ!」
しかし、そんなことを気にする素振りは全く見せず――彼は声を上げて帝国兵達を説得しようとしていた。
ルーケンが殴り倒された後だというのに、恐れを知らずに正面に回る男。そんな彼を一瞥した帝国兵の一人は、兜の奥から目の前の障害を睨みつける。
「……おい、グズ野郎。見逃してやるって言ってんのに、何してやがる」
「だから! 彼女を離せって――」
「あっそう――じゃあ死ね」
ドスを利かせた声で脅しても動かない男を前に、帝国兵は苛立ちを募らせ……一振りの剣を、腰の鞘から引き抜いた。
その様子を目撃した民衆から、悲鳴が上がる。緑と青空に包まれた王国の街が、血に塗れることになると察したのだ。
帝国兵に、躊躇はない。
「おらよっ!」
「――ッ!」
彼は瞬く間に剣を上段に構えると、鉄槌の如く振り下ろすのだった。白く煌びやかな刀身が、地面を打ち砕いて行く。
――だが、血は流れていない。
その地面は未だ、石畳の色のままだ。
「んなっ!?」
「なんだ、ありゃあ!?」
帝国兵達は、揃って驚嘆し――上空を見上げる。
そこには、彼らが予想だにしなかった景色があった。
「……フッ」
彼らが見上げた先には、斬られるはずだった男の姿がある。彼は斬撃を浴びる直前、帝国兵達が驚愕するほどの高さまで跳び上がっていたのだ。
人間業ではない。さらにその瞳は、度胸だけの愚か者とは違う――戦士としての凛々しさを漂わせている。
「なんなんだ、あいつはッ!?」
剣を振り下ろした帝国兵は目を剥き、彼と視線を交わす。先刻とは掛け離れた雰囲気を見せる、得体の知れない相手――その存在を前に、彼は柄を握る手に汗を滲ませた。
宙を舞う男は、そうして警戒する帝国兵達に不敵な笑みを浮かべ――幾度となく空中で身体を回転させながら、地面へと降りて行く。
その余裕綽々な態度が、帝国兵達の緊張をさらに煽っていた。
しかし。
「お、おい……! なんであんな奴が王国なんかにいるんだ! あんな体術、帝国の精鋭部隊の演武でも見たことないぞ!」
「わからねぇ……! まさか、王国軍が秘密裏に養成していた暗殺部隊じゃ――」
動揺を隠しきれず、帝国兵達が声を荒げた瞬間。
「ふいっち!」
事故は、起きた。
「――は?」
不遜に口元を緩めながら、優雅に空中で回転していた男は――華麗に着地するものと思いきや、頭から地面に突き刺さってしまったのだ。
石畳さえ貫通する勢いで、彼の上半身は無惨に埋没し――空気に触れている下半身だけが、ヒクヒクと痙攣していた。
一応生きてはいるようだが、抜け出して来る気配はない。過程はどうあれ今の状況を鑑みるなら、結果的には帝国兵達の勝利と言えるだろう。
だが、彼らはあまりの事態に空いた口が塞がらず、一つの疑問に思考回路の全てを支配されてしまっていた。
結局こいつは何だったのか、と。
「そこのあなた達! 何をしているのですか!」
その時。
涼風のように艶やかな声が、街道に響き渡る。
「げっ!?」
「まずい、あのお転婆姫か!」
それを耳にした帝国兵達は我に返ると、焦りを滲ませた表情で互いの顔を見合わせる。既に地面に突き刺さった男のことなど、眼中にはない。
「仕方ねぇ、ずらかるか!」
「……クソッ、敗戦国の癖に偉そうにしやがって。いつか絶対、ヒィヒィ啼かせてやるからな……!」
帝国兵達は短いやり取りの中で撤退することを選択し、足早にその場から逃走していく。その判断に滞りがないことから、この事態には慣れていることが伺えた。
あっさりと少女を手放した彼らは、全く間に姿を消してしまう。
彼女が顔を上げる頃には足音すらなくなっており、現場には石畳に突き立てられた男の下半身のみが残されていた。
「くっ……! あの帝国兵達、どこへ……!」
「……!?」
すると、少女の眼前に――帝国兵達が退く原因となった声の主が駆け付けてきた。
「あ、あ、あの……!」
「……遅くなってしまい、申し訳ありません。――お怪我はありませんか?」
透き通るような白い肌。太陽の輝きを浴び、眩い煌めきを放つ栗色のショートボブ。蒼く済んだ瞳に、芸術の如く整い尽くされた目鼻立ち。
加えて十五、六歳前後の体格でありながら、その身体のラインは完成形に近しい女性らしさを備えている。新緑の色を湛えた軽鎧とミニスカートの上からでも、そのなだらかなラインが伺えた。
さらに彼女の左腕には、一角獣の紋章で彩られた盾が装備されており、その腰には同様に一角獣の角を象った剣が提げられている。
そんな彼女の凛々しい戦乙女の姿に、少女はすっかり目を奪われていた。慈しむような微笑みを浮かべて手を差し伸べるその姿に、少女は年上でありながら完膚なきまでに魅了されてしまっている。
「そ、そんな……! 私なんかには、もったいないお言葉です! ダイアン姫!」
「いえ。戦に敗れた身とはいえ、わたくしも民を統べる王族の一人。苦しんでいる民のために力を尽くすのは、当然の責務です。それより……!」
「……そ、そうだ! ルーケンさんっ!」
ダイアン姫と呼ばれた美少女は、腰を抜かしてしまった彼女の手を取り、ゆっくりと立ち上がらせる。次いで、鼻血を出しながらも壁に手をつき、なんとか立ち上がっていたルーケンのそばに歩み寄った。
「これはひどい……。ただちにわたくしが治療しましょう。ベッドの用意、お願いできますか?」
「は、はい! すぐに!」
「……も、申し訳、ありません姫様……。あなた様のお手を、煩わせてしまうとは……」
「あまり喋っては傷に障ります。あとはわたくしにお任せください」
ダイアン姫はルーケンの手を取り、真摯な眼差しで励ますように声を掛ける。彼はその手の温もりに触れ、頬に涙を伝わせていた。
その光景を目の当たりにしていた街の人々は、この国の王女の勇姿に釘付けとなり――自然と拍手を送るようになっていた。
そして、彼女がルーケンを見つめながら、腰にした剣を空へ掲げる瞬間……そこから新緑の光が迸り、ルーケンの全身を包み込んで行く。すると、歪んでいたルーケンの鼻頭が、次第に元の形に戻っていく様が伺えた。
この世界で彼女だけが使える、「回復魔法」の効果だ。この場でなければ決して見ることの出来ない光景に、人々の視線が集中していく。
事件が解決したわけじゃない。
それでも、最悪の事態だけは回避することは出来た。それだけは間違いないだろう。
「ところで……一つ、気になることがあるのですが」
「は、はい。なんでしょうダイアン姫」
しかし、この優しさと勇気に溢れた王女には、一つの気掛かりがあった。
「あれは一体、なんなのでしょう……?」
「え、え〜っと……」
石畳に突き刺さった、得体の知れない下半身のことである。
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