Prg-c Page.04

 昼休みを過ぎて、午後の授業が始まって惟姫いしんは、ようやくその事を思うに至った。

ー気を失うほど強く殴られて、なぜもう傷がないのか。当たりどころが良かったのかな?

 突然自習になった五限目。最後尾の席で頬杖をつきながらプリントの問題を読むでもなく眺めながら思考して、意識の中で頭を横に勢いよく振る。

ーそんなわけあるか。いくら当たりどころがよくても、そんなの威力にしてはダメージが少ないって程度で、皆無ってことはないはずだし。それに痛みも確かにあった気がするし。

 何しろ、男の拳が建物の影の中から急に現れたと思った瞬間に頬にインパクトしたのだ。炸裂して爆発的に咲いた痛みは、けれどその時を過ぎて思い起こすことしかできなくなった意識には"本当にあったのか?”程度の認識になってしまうほどに、高速で惟姫いしんの意識を奪っていった。そんな威力であったのにもかかわらず、残る痛みも傷もない?

ーあれ、夢だったのかなぁ…いやいや、燕城えんじょうさん、確かに居たし…

 と思ってみる。しかし、帰ったらいないかもしれない。

 実は、学校に来る直前まで夢でも見ていたのかもしれない。

ーでもなぁ…あったかかったよなぁ…

 惟姫が昨夜から今朝までの間に体験した一連のことが夢でなければ、今朝の話だ。一度、公園のベンチで、殴打おうだ炸裂さくれつによる昏倒こんとうから目覚めている。その時、頭上に彼女の顔があった。そして、後頭部には熱があった。

ーなんて現実逃避的に考えてみても、やっぱりあれは夢じゃないよなぁ。

 燕城碧唯えんじょうあおいの存在を認めると、同時に、殴られたことも、そしてその傷が1日と経たずに消えてしまっていることも、現実として認めざるをえなくなる。

ーうーん。そもそも外出しなきゃなぁ…

 後の祭りであることには自覚的でありながら、しかしそう思わずにはいられない。

ー大体にして、エアコンの効きが悪かったのがいけないんだよな。あ、大家さんに連絡しなきゃ。今日も暑いのかなぁ。嫌だなぁ。それがなきゃ昨日の夜コンビニに出かけることもなかったのになぁ。あ、でもそれだと燕城さんとも出会ってないのか。は?出会う?何意識してんだよ自分。まるで運命の出会いみたいな言い方しやがって。これだから…

 そこで、とある疑問に行き当たる。

ーそういえば、燕城さんはなんであんな時間にあんなところにいたんだろう。事情があって、帰りづらいみたいだけど…まあうちにいる分にはいいんだけど…あれ?これってなんか

 と、邪で勝手な解釈が割り込みそうになって

ーいやいやいやいや、そんなことじゃない。困ってる人を助けるんだ。それに、野宿とか危ないし。ネカフェとかも女の子一人じゃ怖いしな。うん。これは人助けだ。

 自宅に燕城がいる時間が長ければいいと、一瞬でもそんなことを考えた自己を、己の内側だけにもかかわらず言い訳気味に肯定する。

ーそれにしても事情ってなんだろう。両親と喧嘩とかしたのかな。え、彼氏と喧嘩とか?いやいやいやいや。それでまた男の家とか。燕城さんはそんなビッチじゃないはずだ。じゃあなんだろう。あんまり丈夫そうな感じじゃないからなぁ。疲れて体調とか崩さないといいけど。眠っててくれればいいな。今朝帰ってからもあまり眠れていなかったみたいだし。

 次々に話はすり替わっていく。

ーま、事情はそのうち話してくれる気になったら聞けるだろうし、そうでなくても元いたところに帰れるようならそれでいっか。その前に連絡先は聞いておこうかなぁ。あ、加陽に紹介しないとね。朝約束しちゃったし。

 プリントに目を落とす。時計と見比べてみて

ーうわ。そろそろ解き始めないといけない感じか。うわー。

 頭を掻く。

ー…あったかかったなぁ。って変態か!…って、あれ?

 今朝、燕城の膝に乗せられていた後頭部を掻いてみて、ぼんやりとした不安に行き当たる。

ーそういえば燕城さん、近所の人が警察に通報してくれたって、言ってたよな。

 惟姫は、まだ16歳だが持てる知識と経験が彼の思考の位置をどんどん不安定な方に押しやっていく。

ーあれ?警察?きたのかな。でも僕らは公園にいた。

 ドミノ倒しの様に連鎖する情報。

ー帰った時間は、確か4時ぐらいだった。とすれば、僕が気を失ってから三、四時間。で、公園にいた。警察が、被害者二人をその場に置いておく?

 ドミノ倒しが加速していく。プリントの文字を読んでいるはずの目。小等教育もきちんと受けてきたつもりの言語野が、しかしその文字を的確に処理してくれない。

ーそれに、身分はどうしたんだろう。僕も学生証持っていなかったし、燕城さんがもし本当に家出だとしたなら、もう両親のところには連絡が入っているはず。そして、深夜に駆けつけた警察が、そんな二人を公園に放置するわけがない。

 ドミノ倒しになる思考と、ゲシュタルト崩壊を起こすプリントの問題群が告げるのは、制止。その思考の連鎖的な勢いと、反射でも読めるような日本語しか並んでいないプリントまで、今の惟姫には何を書いているかわからなかった。

 ドミノをなんとか止めようと思っても、次のドミノに触れて、むしろショートカット。加速してしまう。

ーもしかして…

 もしかしなくても。

ー燕城さんは、今朝のことに関して何か嘘をついている。警察が来たのでなければ、どうやって…

 体の弱そうな臨時同居人の顔が浮かぶ。

ーそして僕を殴った男は、どこに行ったんだ…?

 嫌な予感に冷や汗が出る感覚で、惟姫の背中がじっとりと思考停止を推奨してくる。

 五限目が、残り時間を減らしていく。

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