Prg-b Page.05

 なんと声をかけていいのかわからなかったというのが本音だった。

惟姫いしんくんが帰ってくるの、待ってるね!」

 初めてのことだらけで混乱の只中ただなかにあるあおい脳裡のうりには、行ってらっしゃい、という挨拶が浮かんでこなかった。

 これまで生きてきて、あまりそういう挨拶を交わしたことがなかったというのも理由の一端でもある。

 惟姫の部屋、玄関の内側からその扉を丁寧に閉め、言われたとおりに鍵をかけて、チェーンロックも掛ける。

ーど、どうしよう……!

 施設から抜け出してまだ七時間と少しだ。なのに、葵が思い切って起こした行動は、まるで想像だにしない方向へと推移していた。

 望むとか望まないとか、そんなことまるで御構い無しに転がっていき、今ここにいる。

ー怪しまれないようにって思ったら、のこのこついてきちゃった……そ、それに……

 考える。

 なぜこうなったのか。

 それに、考えたくもないおぞましい出来事まで起きてしまった。

ーでも、もうダメ。これ以上惟姫くんを巻き込めない。

 いや、起こしてしまった、というべきか。

ーこんなところにいちゃ…

 だがどうする。口を突いて出たことだが、待っている、と、惟姫に宣言してしまった。

 約束を違えたら怪しまれるかもしれない。

 怪しまれたら、警察に通報されるかもしれない。

 ただでさえ、もうきっと探されているに決まっている。

 先に黄昏街を捜索しているであろうとはいえ、あの街は広くない。すぐに地上にも捜索の手が伸びてくるに違いない。

ーで、でも、昨夜のあそこも…

 地上に出たは良かったが、どこに行ったらいいのかわからずにあの公園で考えあぐねていたら、男に目をつけられてしまった。どうも何か目的があったようで、葵を連れて行こうとして拒否をして言い争いになっていたら惟姫が割って入ってきたのだ。そして惟姫は男に昏倒させられてしまった。その男の暴力で、葵は萎縮してしまい、結果。

ーし、仕方ないことなのよ…こ、怖かったんだもん…

 思い出したくもない。

 過ぎてしまったこととはいえ、いや、過ぎてしまったことだからこそ、どうしようもなく怖かった。既に実行してしまい、後悔の対象となることは、後の自分に得も言われない拭いがたい恐怖をもたらす。

 葵は、そんな後悔の渦中にいた。

「と、とりあえず大丈夫」

 口に出して、言い聞かせる。頭の中に思うだけよりも、たとえその場に自分一人であろうと口に出して、耳と骨伝導による自分の声を聞いて意識させる。この方が、自分に対する効果が強いことは、施設によるたびたびの検査で証明されていた。

 今のところ、追手や警察が訪ねてくる気配はない。そんなのものに気配などあるのかどうかわからなかったが、そう言い聞かせる。過剰に安心すると寝首をかかれるかもしれないが、怖がってばかりいても何も良い方には進まない。バランスだ。警戒感と冷静さ。とりあえずまだ大丈夫だが、これから先はわからない。

 身を隠すことを考えると、惟姫の部屋に匿ってもらえればこの上ない幸運だが、迷惑のかかる可能性を考えると、そうもいかない。

 が、動くにしても何もなさすぎる。

 数日は、惟姫のところにいさせてもらうほうが良いのだろうか。

ー学校に行っている間は、好きに使って良いと言ってくれているし、なら、少しの間だけここを使わせてもらって…

 使わせてもらって?どうするのだ。あてなどない。地上に知り合いもいない。

ーわ、私は…

 外に出たかった。それだけなら、もう希望は叶っている。

 地上に来て、葵は何がしたいのか。

ーす、少し眠ろうかな。

 夜中に抜け出してこっち、全然眠れていなかった。

 公園を離れてこの部屋に来て、惟姫はベッドを貸してくれたけれど、まるで眠れなかった。

 覚えている限りで初めての、施設のものではない天井に興奮していたのかもしれない。

 少し深呼吸をして、ベッドに潜り込む。

 そろそろ気温も高くなってきた。

 レースカーテンを引いてベランダへの窓を片面だけ開ける。

 これから暖かくなろうとしているような風が、でもまだ少しだけ涼しい、肌には生ぬるい風が流れ込んでくる。

ー私は…

 天井を見つめて少しだけ逡巡したかと思えば瞬間、葵の意識は眠りに落ちていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る