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 桓武梓蘭結葵かんむしらゆきは、品川にある黄巾技研こうきんぎけんの地下駐車場の車の中で、待機していた。

 お目当ての部署に連絡を入れたところ、担当者は8時半出勤予定だという。ちょうどいいとばかりに、黄巾技研への依頼の整理とともに、今一度燕城葵えんじょうあおいについての資料を縦読みしつつ思考を巡らせていた。

 この案件は、どうにも怪しい。以前もこんな汚れ仕事をしたことはあるが、それはもう見るからに荒事ですよ、怪しいですよ、と言わんばかりの情報が理路整然とされることなく並んでいたが、今回はそれらとは少し違い、隠匿されていることの方が多く感じる。神支那かみしなという巨大な一族の、恐らくはその一部であろうが、そいつらには燕城葵に関して、隠しておきたいことがあり、それを隠さなければなあらないほど重要な事項として扱っているのだろう。たかだか中学生の少女一人に、一体何をそこまで。顔写真を見ても別段変わったところはない。白髪も、黄昏街の住人たちに於いては珍しくも何ともない、よくある体質の一つだった。

 そんなことを考えていると、予定時刻よりも10分ほど早く、担当者が出社したとの連絡が入った。

 そのまま内線につないでもらい、黄巾技研に協力を申し出たい件があると告げて、準備物のリストも口頭で連絡をすませる。すると担当者が部屋まで到着したらしく電話の相手が途中で交代した。用件を告げると、準備をしておくから研究所フロアまで来て待っていてほしいということだった。

 もともと、この時間短縮を狙っての連絡だったのを、相手は汲んでくれたのだろう。

 資料をダウンロードしたパソコンを持って車を降りロック、そのまま地下入館管理所をIDでパスして入っていく。

 地下2階の駐車場から、さらに地下に降りること2階層。そこが目当ての人間が詰めている施設黄巾技研第六研究課の心臓部である第0研究室ー通称ゼロラボだった。部屋に辿り着くまでにさらに4回もパスの認証が必要で、そのうち3回にはそれぞれ声紋、指紋、網膜認証がセットで付いていた。黄巾技研東京本社の全セキュリティを突破したに等しい階層に、桓武は進んでいた。

 ゼロラボは奇妙なくらい暗い。壁も床も天井も黒く、映画館の上映直前の廊下ような最低限の白色灯の明かりしかない。結構な人数が働いている部署であるとは聞いているが、人通りもそう多くない。皆自分の研究室に閉じこもっているのだろうが、それにしてもまるで無人なのかと思うことすらあるレベルだ。

「お疲れ様です」

 そのゼロラボに入ってすぐ、これはよく見る男性研究員と遭遇する。人の少ないゼロラボにおいて、意図せずよく遭遇する人物というのは稀なので、桓武は覚えていた。そして入室ざまに瞬間だが、視線が胸元をしっかり捉えた。その男性研究員はいつもそうだった。

「お疲れ様です。海咲みさき主任にゼロラボで待つようにと言われたんですが、どちらで待たせて貰うといいでしょう?」

「では、一度あちらの休憩室へどうぞ。主任が戻りましたら、お伝えしておきますので」

「ありがとうございます」

 慇懃いんぎんに礼を言って、その男に踵を向けて歩き去っていく。そうまでする必要もないと思ったが、

ー今度はそっちね。

 ささやかな礼とばかりに背中を向ければ案の定、今度は視線が尻に固定されているように感じた。

ーいつまでも見るだけで、本当に飽きないのかしらね。

 遊びにもならない遊びも、休憩室と称される自販機と喫煙卓がゆったりとしたスペースに配置された間接照明の心地いいスペースに向かうため、廊下を曲がって終了した。

 ゼロラボの施設のワークスペースが硬く冷たい印象だからか、他のどの場所にある休憩室ーレクリエーションスペースは、地下という立地ゆえに窓も景色もないのにもかかわらず、他のどこのものよりも安心感と開放感がある。全部でやわらかい印象のホワイト調の壁に投射される暖色系の間接照明と、天井からの同じ色の緩やかな光量の照明が、半ば強制的にそこにいる者の緊張をほぐしているように感じられる。しかもそこは会社のルーティン上の休憩時間となると、任意で最上階の景色が壁一面のスクリーンに映し出させる仕組みになっていて、桓武もここに詰めているわけではないが何度か見たことがあった。地下8階、地上80階を数えるこの超高層ビルにあって、地下だからこそ、そのお裾分けに与れたということなのか。ゼロラボの人間はその仕事の性質上、他の階層に移動することが極端に少ないと聞いていた。そんな社員のケアなのかもしれない。

 そんなレクリエーションスペースには飲食、衣類、生活用品も含め様々な自販機が立ち並ぶが、桓武は入ってすぐに置いてある手入れのコーヒーを選ぶ。ここの飲料の中で、一番まともで、その場で入れられたものにはかなわないが、据え置かれたポットから飲むものとしては、他と比べて桓武の舌をなかなかに満足させるものだった。

「お待たせ、桓武室長」

 コーヒーにわずかな砂糖を溶かしてから壁際のハイチェアーに座ってパソコンを起動させる。3口程進めた時、後ろから声がかかった。

 桓武の待ち人、ゼロラボ主任の海咲みさきだった。

 黒髪のショートカットに緩やかなパーマをかけてふんわりとした印象を受ける。細いフレームのメガネはデザインよりも効率重視なのだろう、レンズが大きくまん丸だ。背丈は小さく、桓武の胸あたりまでしかない。研究所員らしく身にまとった白によって体型は隠れているが、腰も腕も足も明らかにか細い。おまけに年相応になど決して見えない幼い顔立ちだ。白衣を脱いで外に出てしまえば、学生と間違われる。

「お疲れ様。海咲みさき

「あら、ありがとう桓武」

 気心は知れていると言わんばかりの落ち着いた会話。答えながら桓武のパソコンの隣に持っていたジュラルミンケースを置き、そのハイチェアに半ば飛び乗るように腰をかけて、

「依頼されたもの、持ってきたわよ」

 と言いながらロックを外す。

「使い捨て用の端末一機と、黄昏街の住民を偽装した身分証、あとベレッタ89を2丁。黒が通常弾倉で、シルバーが対マギ弾倉。

両方とも、装填済みのものを除いて予備弾倉が三つずつ。これだけあれば足りるでしょう?」

「ああ。充分だ」

桓武は中身を一瞥したあと、テーブルの上のケースを自分の方にスライドさせて、中身を確認する。

不足はない。

銃もオーバーホール済みのようだった。

「毎度早い仕事、感謝するわ」

朱紅井あかい社長の秘書室室長の頼みよ?ほとんど朱紅井くんの命令みたいなものじゃないの。最優先事項よ。ところで、詳しくは聞かないけれど、処分命令なの?この装備」

「いや違う。捜索命令だ。ただ、相手がマギフォイアなのでな。用心するに越したことはない」

「なるほど。あ、それとこれ」

海咲みさきが、忘れる前に、と言った口調で、ケーフトは別に白衣から二本のアンプルを取り出す。片方は注射器に、片方は飲料用になっている。

闇血あんけつのアンプル?昨日摂取受けたばかりよ?」

「こういう任務だと、時間もかかるし、どこでなにが起こるかわかんないし。個体調整済みであなた専用だけど、実験用の名目だと大量には持ち出せないから。少なくてごめんなさいね」

「…ありがとう」

 実験用。

 それは貴重な闇血を研究者が研究・実験の目的で闇血サンプルを持ち出す際に必要な人生の中でも、比較的用途、使用後申請の審査が甘いものだった。実験には失敗がつきものだ。

 それゆえ、貴重な闇血サンプルといえども、すべての案件において有効活用されたかどうかを確実に測るのは困難。しかし、だからと言って闇血サンプルを濫用らんようから守るべく規制を強めても、研究は進まない。故に折衝作せっしょうさくとして研究用には一定期間内での持ち出し・使用量が定められた。

 汎用闇血はんようあんけつが一番厳密で少量なのに対して、個体調整済闇血は有効な個体数が圧倒的に少なく、ほとんど個人用と言える。そのため、汎用闇血よりは規制は緩和していたが、それでも10日のうちに2本が限界だ。

 正規の手続きでのアンプル持ち出しは、すでに昨日終えていたため、次回はその昨日から起算して14日後だった。

 時間拘束の強い仕事に出向くときには、正規の手続きで受け取れるアンプル本数は3本と、実に頼りないものだった。

「とんでもない。あなたの仕事がうまくいかないと、こちらも困るしね」

「そうだな」

 二人の会話には、どこか単純な仕事仲間とは違う雰囲気があった。

「私も一杯コーヒー、付き合っていい?」

「ああ。まずは学校から当たろうと思っていてな。登校時間を避けるとなると、授業が始まるまでまだ時間もある」

「あら、本職はいいの?」

「事務所か?どうせ今日は昼過ぎまでは誰もいないしな」

「そっか。ありがと。ここのところ、徹夜続きでさー。息吐いきつすきもなくって」

 海咲みさきは手近なカップ式自動販売機に近づいてメニューをタップ、すると清算するまでもなく商品の準備が始まる。

「ところでさぁ、梓蘭結葵しらゆき

「なによ」

「朱紅井くん、元気?」

 商品の出来上がりを告げるブザーが響いた。

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