92豚 風の神童は帰還する②
さっきまで、自分達は怯えていたはずだ。
黒龍のあの火炎で一思いに楽にしてくれと考える程に命を諦めていたというのに。
夢でも見ているんじゃないだろうか、大聖堂に逃げ込んだ者達は一同思う。
モンスターが逃げ惑う。
炎が包み込んだ。水が襲い掛かった。風が切り刻んだ。土が覆い尽くした。光が彼らの目を焼き、闇が彼らの心を震わせた。
六大魔法の見本市ともいうべき、この世のものとは思えない光景に言葉も出ない。
シャーロットは彼の元に駆け寄ろうとするが、新しく構築された風の結界が彼女を阻んだ。
その結界は何人も通さないという結界の本質のみを追求して作られたもの。
風の大精霊アルトアンジュの魔力をふんだんに注ぎ込んだ、シルバ特製の単純すぎるが故に強力な結界。
風の神童は自分の声がシャーロットのみならず大聖堂内にも響いていることを理解し呼び名を変えた。
「―――ブレイディ。そこを動かないでくれ」
彼の声は拡張され、大聖堂の中にいる者一人一人に届けられた。
ブレイディって誰だ?
皆が思った。
シャーロットだけがその意味を理解した。
ブレイディ。
それは自分が持っているあの子の名前だ。
「守ると誓った君を怖がらせた。まさかあんな化け物が来るとは思わなかったんだ」
化け物という言葉にピクリと反応した空の王者。
男の子が黒龍の放ったブレスに焼かれそうになった。
誰もが焼かれると思い、悲鳴が上がった。
しかし。
突然現れた剣士が炎のブレスを風の突風で薙ぎ払った。
男の子を守るように、輝く剣を構える者がいた。
剣士は剣を振るう。
風が舞い散る、炎と共に燃え上がる。
「これからもきっと、君は沢山の危険に巻き込まれるんだろうね」
男の子の前方で背後で幻想的な光景が出現する
大聖堂に籠る誰もが言葉を無くし、その男の子を見つめた。
「ブレイディ、俺は君の正体を知っているんだ」
シルバが頷き、シャーロットは顔をこわばらせた。
結界の外では、男の子が空に佇む黒龍に向かって杖を向けていた。
モンスターが倒されていく。
火が、水が、土が、風が、光が、闇が。
モンスターが倒されていく。
まるで物語の一部分を切り取って具現化したかのような魅惑的な情景。
「ずっと昔から、知っているんだ」
大聖堂の中では、多くの女子生徒が泣いていた。
泣きながらその男の子の声を聞いていた。
涙の理由は震え、恐怖とは魔逆のもの。
サイクロプスが男の子を守る風の剣士に向かい突進した。
オークキングが風の剣士の背後に音も無く迫った。
「俺は一人で君を守ることを選んだ。君も一人で抱え込む道を選んだ」
剣士は振り向きざまに、そこまで近づいていたオークキングを十字に抉った。
オークキングは切りつけざまに放出された風の放出によって叫び声を上げながら星の彼方に吹っ飛んでいった。
風の剣士はあれま、と舌を出し、まだ風の調整がよく分からねえなと呟いた。
背を向けた剣士を好機と見たサイクロプスの右腕と輝く剣が交錯し、吹き飛ばされたサイクロプスの顔が今、何が起きたと困惑で歪んだ。
「だけど、そんな関係も今日で終わりさ」
サイクロプスは猛烈な勢いで校舎の壁を突き破り、中にのめり込んだ。
その校舎の最上階からこっそり様子を伺っていたシューヤとメイドの顔が恐怖で歪みそうになるが、直後、追いかけるように校舎の中へ入ってきた剣士の姿に二人はほっと息を吐いた。
突然現れた二人から漲る力。
味方だと思わせる暖かさ。
モンスターの大群が男の子に襲い掛かる。
けれど空から降り注ぐ雷がモンスターを一網打尽に焼き尽くした。
そして、校舎の中へ入り込んだサイクロプスは二度と出てくることは無かった。
代わりに出てきたのは血まみれの剣士だった。
「うわああ!! あいつを倒したのか!
「す、すげええッ! え、なああれッ!!?
「おい誰か目の良い奴いないか! 何者だあの剣士!」
男の子達は剣士を見つめ、感嘆の声を上げている。
平民と貴族の垣根も無い。
興奮した誰かの声に続き、湧き上がった声援。
黒髪の男が輝く剣を引っ提げて、男の子の前に立った。
もはや立ち上がっているモンスター達は一体もいなかった。
風の剣士は
「あれはシルバだ! 見たことがある!」
「黒髪に、ちょっとだけ長い前髪! それにあのだるそうな顔! まじもんのシルバだあれ!」
「成り上がりの平民騎士! あいつがカリーナ姫の
ロコモコは悔しそうに唸った。
そして、女の子達が見ているのは凄腕の魔法使い。
「ねえ誰!? あの人! 何年生の人だろう!?」
「知らないわよ! やめてちょっと押さないでよ!」
誰も見たことが無い横顔だった。
クールでキザっぽいがそこに嫌味は無く、鋭い目つきで戦場を睨む姿は絵画に描かれていても不思議じゃない。
あんなに端正な顔をした子が学園にいるなんて知らなかった。
いつの間にか大勢の女子生徒達は我先に大聖堂の入り口に駆け寄り、泣くこともやめてその男の子を見つめていた。
うっとりと、彼の詠唱に酔いしれた。
まるで自分に届けられているかのように思った。
本当は風の精霊達がシャーロットがどの子か分からずに一人一人に彼の声を届けていたからなのだが。
脈々と風の大精霊アルトアンジュの適当さは風の精霊にも受け継がれていた。
「見たところあのサイクロプスがモンスターのボス。なら、これで他のモンスターも大人しくなるだろうな」
男の子は黒龍に背を向けて、大聖堂の入り口に佇む彼女を見つめていた。
ビジョンはあんぐりと口を開けて、負けた、ていうか、え? あれが、スロウ様と目を瞬いた。
だが、彼は何故か平民の制服を着ている。
きっと彼があの
「さて、もう昔の童話に縛られるのは終わりにしよう」
その時、黒龍が二人に向かって火炎を吐いた。
余りに膨大な熱。
一瞬、火炎に黒龍の巨大な姿が覆い隠される。
何事も溶かす筈の火炎だが、大聖堂の中からは悲鳴は上がらなかった。
剣士が付与剣の一振りによって溢れ出る風撃で炎を相殺したからだ。
空を炎がかき消され、黒龍が空に姿を見せた。
「黒龍セクメトの伝説を塗り替える。新しい物語を始めるのは―――」
けれど大聖堂に籠る者達はもう何も心配なんてしていなかった。
ただ、その魅力的すぎる男の子を見つめていた。
「―――この俺なのさ」
そう言って、名前も分からない男の子は黒龍に向かって歩いていった。
その男の子が何物なのか、生徒の中でその時気付いたのはビジョンの推察通り、たった数人しかいなかった。
● ●
黒龍セクメトは大空より突然現れた二人を見つめた。
そして、あのデニングの血を引く者が語った言葉を思いだした。
(……小さい方の君がそうなのか、あのデニングの末裔が言っていた子は……成程、君の血こそが精霊を呼び集め、精霊達は競うように君のご機嫌をうかがっている。君の血が欲しいからこその無詠唱―――)
それにあの剣士も面白い。
あの剣は明らかに風の大精霊の加護を帯びている。
(……ということは君たちは―――)
黒龍はグロッキー状態になっている風の大精霊を見つける。
モンスターと精霊は相性が悪い。
しかし、黒龍は千年を超える魔の結晶。
彼は既に自然と一体化しつつあったため、集中すれば風の大精霊ぐらい力の強い存在を感じることが出来た。
気付いたのは今であったが。
(…………そうか)
黒龍は理解した。
シャーロットが頑なに外に出てこなかった理由を。
(困ったな。邪魔者は僕の方だったのか……。つまり、君は守られていたのか……。デニングの血を引く者に……)
黒龍セクメトは小さく火炎を吐いた。
(……そういうことかシャーリー。あの子に栄誉を。あの子に力を。彼女を守る者は何者なのか。そのための僕、か)
やっぱり、君は変わらないなと苦笑ついでに火を吐いた。
(僕も年を取り、生きているのが不思議なぐらいさ……だけどこれでゆっくりと眠れそうだ。でもねシャーリー。ただでドラゴンスレイヤーの栄誉をあの子に渡すわけにはいかないな)
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