61豚 大聖堂

(ちょっと前までは人間が嫌いだった筈なんだけどにゃあ)


 太った黒いデブ猫もまたスロウ・デニングと同じように痩せ始めていた。

 風の大精霊アルトアンジュは大聖堂の屋根の上に寝そべり、大勢のモンスターと戦う人間の子供達を見つめていた。

 近くにはアルトアンジュと同じように屋根の上で水色に光る杖を持ったモロゾフ学園長の姿もある。

 生徒を安心させるような優しい声とは裏腹に、険しい顔で結界の維持に力を注いでいた。


(この爺さん。思ったよりも健闘しているにゃあ)


 モロゾフ学園長に対する風の大精霊アルトアンジュの感想だった。

 アルトアンジュは広場から空に向かって飛翔型モンスターに次から次へと魔法をぶっ放す生徒達の姿を一しきり眺め終わると、スロウ・デニングが向かった街道の先を見つめた。


(……スロウ。お前は人間の世界では風の神童と呼ばれてるみたいだけど……それは違うにゃあ。お前は何にでもなれるにゃあ。ただにゃあと出合うのが一番目だっただけだにゃあ。だからこそお前は全属性エレメンタルマスター。精霊に愛されし人間なのにゃあ)


 アルトアンジュはゆっくりと昔を思い出す。

 ふわあっと欠伸をして、己の契約者の姿を思い浮かべる。 


(早く帰ってくるにゃあ。シャーロットがお前を待ってるにゃあ)



 ●  ●  ●



 薄い水色を帯びた透明の膜が巨大な大聖堂をすっぽりと覆っている。

 人間が出入りすることは自由だがモンスターがその膜に触れると強い痛みを発するようで、結界内に入ろうとする彼らにとっては厄介極まりない結界だった。


 大量の雨粒が流れ、轟轟と吹く風にも透明の膜は動じない。

 モロゾフ学園長が学園に関わるようになって数十年、溜まりに溜めた魔力を一本の杖にひたすら込めた。

 魔力を溜めることが出来る、魔道大国ミネルヴァでしか流通していない大変貴重な杖。

 

『なあに結界内は安全じゃ! モンスターは決して入ってくることが出来ぬ! 水の魔法に通じる者は負傷者の治療に当たってほしい! 名誉の負傷じゃ!』


 大聖堂には学園に関わる者達が揃っていた。

 身を寄せ合い、身体を震わせていた。

 大聖堂の壁面に幾つも設置された巨大な窓から、モンスターが飛び交う悪夢のような空の様子がありありと見えた。

 誰もが恐ろしい外の光景を見ないようにして、王室騎士団の到着を今か今かと待っていた


「大丈夫ですわシャーロットさん! モロゾフ学園長はあの魔道大国ミネルヴァで昔修行したこともあるって聞いたことがありますわ! ただのモンスターにこの結界は絶対に破れませんわ!」

「そ、そうですね……アリシア様」

「そう! 絶対に大丈夫なのですわ!」


 シャーロットの隣にはアリシアがいた。

 アリシアはシャーロットを励ましながら、二人は大聖堂内の長椅子に隣り合うようにして座っていた。

 二人が立っているのを見た男子生徒が席を譲ってくれたのだ。

 口を真一文字に結び、耳を塞ぎ世界を拒絶する者。

 故郷にいる家族の名前を呼ぶ者。

 手を握り締めあってお互いの存在を確認し合う者。

 大聖堂内の最奥、壇上に置かれた聖女リリアの像に救いの祈りを捧げる姿も大勢見られた。

 外に出て空を見上げれば、おぞましいモンスターの大群が飛び交う姿が見えるだけ。

 力無き者にとっては、大聖堂の外はもはや死の世界へと変わっていた。


「……」

「それにしてもシューヤはどこに行ったんですの?」


 シャーロットは気が気ではなかった。

 モンスターも恐ろしいけれど、頭を占めるのは違うこと。 

 彼女の主からの伝言がシャーロットには気になって気になって仕方が無かった。

 自分の故郷、皇国ヒュージャックにはちょうど今の時期、白百合が咲く。

 それも自分の生まれた場所、お城の庭園には他国にも噂される程の見事な白百合の庭園が存在する。

 小さい頃に見たお城から見た庭園の景色が、シャーロットにとっては一番思い入れのある光景だった。

 どうしても伝言と思い出の景色が一致してしまう。


「……そんな筈はないよね」


 スロウ様はどうして私の故郷なんて、それも白百合なんて言葉を使ったのだろう。

 考えれば考える程に分からない。

 もしかして、スロウ様は私のことを知っているの?

 とめどない考えが頭に浮かんでは消えていく。

 近いうちに私の素性についてスロウ様に話そうと思っていた。

 だって、主従関係は一心同体であるべきなんだ。

 お昼に聞いた話はとっても共感したし、私も彼らの話のようにスロウ様と喧嘩をするぐらいもっと仲良くなりたい。

 それにスロウ様はお昼の時に私に―――。

 ――― 一人自問自答を繰り返していたシャーロットは気付かなかった。


「アリシア様、シャーロットさん。僕も外に行ってきます、見ているだけなんて出来ません」


 人を押しのけてビジョン・グレイトロードは大聖堂の外を目指した。

 大聖堂前の広場では壮絶な戦いが行われている。

 幸いにもまだ死者は出ていないけれど、いつまでもこのままなんて都合の良い話はあるわけないのだ。


「やっぱりあいつの友人ですわね、勇気がありますわ」


 力があっても勇気を出せず大聖堂に逃げ込んだ者達も、外で必死になって戦う先輩達の姿を見て、続々と彼らを援護するために外に出ていった。

 迷いの森に住まうモンスターは生徒でも対応出来る弱いモンスターばかりということも理由の一つだった。 


「豚のスロウはきっとヨーレムの町に辿り着きますわ。だから心配する必要なんてありませんわ」

 

 アリシアが自分を元気付かせるように言った言葉。

 その小さな独り言に誰かが反応した。


「スロウ? スロウ・デニング!? まさかあの豚公爵が街道超えをッ!?」

「え? ヨーレムの町に向かったのって豚公爵なの!?」

 

 さあ、南方四大同盟の一角、王室騎士ロイヤルナイツが有名な騎士国家ダリスの学び舎に地獄がやってる。


 絶望に泣き、学園の生徒が咽び無く地獄の夜がやってくる。

 だが、地獄の夜は紛れも無く―――。

 ―――風の神童の帰還に相応しい幕開けに他ならないのだ

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