525豚 <<リオット・タイソン>>
リオット・タイソンの視野は色を失い、ぼやけている。騎乗してからは、微かな振動にさえ気を取られ、意識は虚ろだ。
胸には、長い眠りと共に蝕まれた苦痛が漂っている。体の中に広がる疲労感や痛み。しかし、彼はその苦しみを隠し、強い意志で前に進もうとしていた。
倒れそうな身体を支える力は――責務、ただそれだけの力しかない。
「……」
騎乗する己に向かい、誰かが自分に向けて何かを言っている。
耳を澄まさねば、その声を言葉にして読み取ることすら出来なかった。それ程までにリオット・タイソンの心身は弱っていた。
満身創痍なんて言葉では片付けられない。
「……!」
彼らが、今の自分に求める言葉は想像がつく。求められるがままに、振る舞う術は何よりも得意だった。だからこそ、リオットは重苦しい不調を隠したまま、先頭に立ち続ける。
微かな意識の中で、リオットは軍を進めた。
大貴族タイソンが統治する広大な領地――森の中は青々と茂った樹木に覆われ、その幹は巨大で迫力に満ちている。繁みやつる草が地面を覆い、小さな花たちは色鮮やかに咲いていた。
けれど今のリオットに、懐かしい光景に目を細める余裕はない。
馬に騎乗し、リオットの体が微妙に揺れ動く。その姿勢は真っ直ぐで正確であるが、微かなふらつきが感じられる。風が彼の髪をなびかせながら、顔に触れた。
額に浮かびそうになる汗を、顔に現れる疲労の色を、表情に滲み出る苦悩を、漏れ出しかける苦しげな息遣いをやっとの思いで制止する。
リオットは険しい顔のまま、部隊を引き連れ、森の中を進みゆく。
向かう先はヒュージャック。祖父であり、長年タイソン家の当主を務めた男が向かう先に、自分もまた歩みを進めている。
――倒れている場合では、ないだろう……!
リオットはそう、自分自身に言い聞かせ、不調に打ち勝つための力を引き出そうとしていた。
このような形での、ヒュージャックに対する国境越境など望んではいなかった。
そして自分の存在が、祖父が持つ権力をさらに超えた超越的な大規模軍事作戦を行う理由になるなんて、信じられない事実だった。
タイソン家当主の行動が、サーキスタと南方諸国家との開戦に繋がっても何も文句が言えない状況に、追い込まれている。
歴史的な愚行であり、悪い夢であればいい
誰か冗談だと言ってくれと願わずにはいられない状況であった。少なくともリオットは、このような形でのヒュージャック侵攻を望んではいなかった――。
「っ」
騎乗馬の足がぬかるみにはまり、リオットの身体がふらついた。
痩せ我慢の限界はとっくに超えている。それでも――歴史ある名家タイソンの名が、この世から失われる瀬戸際に立っているのだと思えば、無理を通さねばならぬ。
「おい。見ちゃいられないな、リオット」
しかしリオットの身体が地面に倒れることはなかった。
強い魔法の力が、リオットの身体を支えていた。それは風による魔法だ。纏わりつく風の気配は、リオットがこれまで感じたことがない程優しいもの。
確かに行軍の中で、ぐらつく身体を支えられている感覚は常にあったが――。
「こんな場所で、俺たちの大将に倒れられたらまずいんだよ。なあ、そうだろ」
栗色の軍馬に乗る何者かが、そうリオットに声をかける。いつの間にか、部隊の先頭を進むリオットの隣にまでやってきた何者かは、正体を隠すために兜を身につけていた。
「絶対に倒れるなよリオット。どれだけ苦しくても、蘇った英雄を演じ続けろ。お前が倒れれば、この国は終わりだ。そう言っただろ」
リオットは顔を上げて、隣にやってきた彼に向かって目を細める。
それは満身創痍のリオットに出来る最大の、そして無言の抗議だった。
「帝国に狙われたサーキスタを救える人間はリオット、お前しかいない。そうも言ったよな」
騎乗するリオットの隣で異様な存在感を発揮する何者かは、兜の下で笑っているようだ。
「一言だって、泣き言なんて許さないからな」
彼の正体はあのスロウ・デニング――あの強国ダリスに生まれ、リオットと同じく大貴族に生まれつき、将来を渇望された麒麟児がそこにいた。
――そうだ。リオットは、同意したのだ。
長い眠りより蘇った直後、襲いかかる現実を前にして絶望しながらも、リオットは目の前に立つロッソ公と彼の前で誓ったのだ。
この国に巣食う帝国の先兵を、駆逐してやると。
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