512豚 覚悟

「君。その男を、サーキスタのために殺してくれないか?」

 ロッソ公の顔は冷静そのものだ。一才の冗談もその言葉の中には含まれていなかった。余りにもあっさりと言うもんだから、逆に俺が動揺してしまうぐらいに。


 ロッソ公――黒い鎧に金の細工を施し、青白いマントを肩から垂らしている。顔に張り付いた厳しい表情が、ガガーリンへの敵意を現していた。


「わかった」

 何がわかった、なのか。ロッソ公はこれから何かを語るのかと思ったら、違った。

「君が出来ないのならば、私がやろう」


 余りにも迷いのない動きだった。俺たちとロッソ公の間には僅かな距離しかなかった。だけど、その距離がロッソ公がやろうとしていたことにはちょうどよかったのだろう。


「私が殺す」

 ロッソ公は腰に差さる剣を抜いたのだ。陽光に照らされた刀身が青く光っていた。

 大貴族の当主に相応しい業物なのだろう。ロッソ公は俺たちの間に残されていた距離を一瞬で縮め、剣を振り下ろした。

 狙いは真っ過ぐにガガーリンの首だった。



 そこからは、スローモーションの世界だった。

 数秒にも満たない世界で、

 

「ま――待てッ」

 振り下ろされる刃が持つ意味を、ロッソ公の迷わぬ姿勢を見て、ガガーリンが初めて焦っていた。常に余裕を含ませ、決して本心を見せることはない男の声。


 だけど。

 大勢の人間を殺してきた男が、今度は自分の番だと理解したのだ。


「助け――」


 それはガガーリンからの、俺へ向けた言葉だった。

 同じドストル帝国からやってきた者同士の仲間意識でも、信じたのだろうか? だけど俺は帝国の人間ではないし、同じ陣営でもない。

 俺だってロッソ公と同じく、はっきりとガガーリンへの憎しみに満ちている。


「まッ」

 ロッソ公と同じ気持ちだ。この男は生かしておくわけにはいけない。

 ガガーリンがアニメの中で何をやった? こいつの口から出る言葉は何も信じられない。自分が生き残るために仲間を切り捨て、街に火をかけた男だ。こいつの仲間もそうだ。

 こいつの所属する陣営のやり方は――ひどいものだった。


 だけど俺はガガーリンから情報をすくい上げるつもりだった。何故、こいつらが北方から南にやってきたのか。南への手出しを諦めたはずの闇の大精霊はどうなったのか。

 あの気高い闇の大精霊が、約束を反故にするとは思えなかった。

 ならば闇の大精霊は、ドストル帝国の王族連中に殺されてしまったのか。


 勿論、ガガーリンから簡単に情報を引き出せるとも思っていなかったが。


「見苦しい」

 ロッソ公の言葉。サーキスタの大貴族、ロッソ公がガガーリンを殺す。

 正しい選択だ。ロッソ公の行動は何も間違っちゃいない。タイソン公の兵士たちが喚いていた。あいつらにとっては、ガガーリンは味方なのだ。だが、ロッソ公の行動は余りにも迅速だった。タイソンの勢力は、間に合わない。ガガーリンは死ぬ。


 タイソン公の兵士が大勢を占めるこの状況で、ロッソ公は覚悟を決めていた。

 ロッソ公は――ガガーリンを殺した先で自分がどうなると構わない、そう決めている。

 彼の鬼気迫る表情が、そう告げている。

 そんな男を瞼に焼き付けながら、ガガーリンが最後に残した言葉は――。


「リ、リオット・タイソンは、生き、ているッ!」

「そうか」


 そんな戯言でロッソ公が振り下ろす刃は止まらない。この男は、ガガーリンの言葉を欠片も信じていないからだ。

 それでも――それでも俺は違った。

 ガガーリンの言葉なんて俺だって信じていない。


 俺には、僅かな瞬間しか残されていなかった。俺は選ばねばならなかった。



 巨鯨の眠る城ホエール・キャッスルの地下で眠る彼らの姿。ガガーリンの神がかり的な水の魔法。自分が生き残るために、幾つもの切り札を残すガガーリンの性格。ファナ・ドストルを守っていた若手貴族たち。全員が、殺された。本当にそうか? ガガーリンが首謀者だとすれば、全員を殺すのか? 何故、彼らの身体は、巨鯨の眠る城ホエール・キャッスルの地下にあった?


『やあ。君がアリシア様と婚約した……デニング公爵家の怪物? さっきの様子、びっくりしたよ。エデン王の前で、怖い冬楼四家ホワイトバードの人たちに囲まれていたのに、堂々としたものだったね。ん? 僕の顔は覚えておいて損はないよ』

 

 リオット・タイソン――知っている。覚えている。アニメの知識じゃない。俺のスロウ・デニングとしての記憶がリオット・タイソンの生前の姿を覚えている。なぜ、忘れていたか。それは遠すぎる日の記憶だったからだ。俺が真っ暗豚公爵になる前の記憶だからだ。俺とアリシアがまだ小さく、婚約したてばかりだった頃の記憶だ。俺よりも数個、年齢が上の少年。確かにギャリバーが言う通りのいいやつだった。サーキスタの貴族にしては珍しい、いや、大貴族タイソンの子供にしては常識外れの好人物だった。


『僕の名前はリオット、リオット・タイソン。改めてよろしく、スロウ・デニング。同じ大貴族に生まれついた者同士、仲良くやれんじゃないかと思ったんだ。それにしてもどんな手段を使ったんだ? アリシア様のことは、実は僕も狙っていたんだぜ? ……はは、冗談、冗談だ! あんな台風みたいな女の子、僕の手には余るって! まあ、何が言いたいかと言うと、仲良くしようってことだよ。この見るに耐えない権力闘争の世界で、デニング公爵家を継ぐ君とタイソン公爵家を継ぐ僕らが友になるなんて、最高にイカした話じゃないか』

 

 ロッソ公が選んだように、俺も選択した。ガガーリンの頭を掴んでいた手を離す。ガガーリンが身体に驚く程の力を込めた。けれど、地面に這いつくばったような姿勢ではロッソ公が振り下ろした刃からは逃げられない。ガガーリンが最後の表情を見せた。それはアニメの中でシューヤに焼き殺された時と同じ、苦渋に満ちた顔――それが、目を見開いている。


 俺は右の手のひらに爆発的な魔力を込めた。

 ガガーリンの首元へ迫る刃を受け止めるためだ。


「…………」

 冬楼四家ホワイトバードの当主、さすがだよ。

 ただの剣の振り下ろしに見えるが全然違った。

 ロッソ公は幾つもの魔法を剣に込め、大きな魔力の通った一撃だった。


 ――ロッソ公が、じろりと俺を見下した。


「何の真似だ? ガガーリンの味方ではないのだろう」

 わかっている。ああ、わかっているさ。俺の行為はロッソ公を怒らせるものだ。それも異常なほどに。ロッソ公の顔色が俺への怒りを物語っている。だけどロッソ公の怒りだけじゃない。俺はガガーリンの部下を殺している。俺はガガーリンと敵対し、ロッソ公と敵対し、タイソン兵と敵対し、あの舞踏会でサーキスタ全体を敵に回している。


「もう一度、問う。何の真似だ?」

 だけど、俺だって選んだのだ。

 俺の右手がロッソ公の刀身を握りしめている。大量の血が流れ、急速に体から熱が消えていく。よく千切れなかった。自分の右手に褒めてやりたい。

 痛みは感じなかった。痛みなんて、気にする余裕はなかった。


 だって、俺には分かっていた。

 俺の行動に、サーキスタと呼ばれる国の命運がかかっていた。


 エデン国王の信じられぬ行動から始まり、タイソン公の反乱が起きた。

 国が纏まっていればエデン王の目論見が叶う可能性もあっただろう。だが冬楼四家ホワイトバード筆頭のタイソン公爵家が、エデン王を見限った。

 でも、こんなものではない。

 ドストル帝国のやり方は徹底的だ。

 タイソン以外にもサーキスタ大貴族に帝国の手は伸びているのだろう。


 覚悟と共に顔を上げる。

 ロッソ公を真正面に見据えて、俺の正体を覆い隠していた兜に手をかける。

 サーキスタ大貴族の当主にだけ、俺の目元がわかるよう兜の一部を開く。

 たったそれだけでも、聡明なロッソ公なら俺の正体に気づいてくれるだろう。


「…………なぜだ」

 ほら――願いは届いた。


「………………なぜ、君なのだ」 

 腹からしぼり出された声。

 ロッソ公は先ほどのガガーリンとは違う意味で、心の底から動揺していた。

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