481豚 ブラックエン家

「逃げろよ、サー・ギャリバー」

 けれどあの男にはどうしてか――逃げるなんて発想はないようだ。依然として、俺を幽霊や怪物のように思っているんだろうが、その場に留まって俺を見つめている。


「……ごほっ、おご! ゴホッご! ぐええええ!」

 奴が息を整えている間、俺は無造作に転がっていた椅子を持ち、そこへ座った。


 周りには安らかな顔で命を散らした若いサーキスタの騎士たちが見える。

 その姿はただ眠っているようにしか見えず、今にも起き上がってきそうだ。酷い殺され方をしたと聞いていたが、この国の医者たちが彼らに対してどれだけ手を尽くしたかが分かるってもんだよ。

「おご! ごほっ、ぐええええ!」

 この地に眠る彼らはきっと愛されていたんだろう、誰からも敬愛されていたんだろう。将来のサーキスタを担うべき有望な騎士だったに違いない。

 それが、死んだ。死んでしまった。


「…………ぜえ、ぜえ」

 だからこそ、根が深いんだけどな……。

 彼らを殺された家族の怒りは犯人を見つけ、制裁を与えるまでは決して消えないだろう。それは彼らが犯人と断罪したドストル帝国の少女を逃した俺にも向けられる。

 そう思えば、俺が五体満足でここに眠らされていたことに若干の疑問が残った。


「ぜええ、ぜええ…………おい……」

 湖の騎士の攻撃を受けた後、俺は八つ裂きにされても可笑しくなかった――。

 少なくとも、彼ら騎士と同じ場所に安置される必要はなかったはずだ。確かに俺はダリスの大貴族だけど……もしかするとサーキスタの誰かが、俺の名誉を守ってくれた?


「…………おい! お前は! 狂人スロウ・デニングだろ! なぜ、俺を殺さない!? 俺を逃せば、大勢の仲間を連れてくるぞ!」

 こちらの雰囲気が大きく変化したことを感じ取ったのか、奴が言った。

 その言葉には抑えきれない怒りすら感じ取れた。奴は杖を握って、ブルブルと震えている。今度は怒りの感情で顔が赤い。

「俺は騎士だぞ! 由緒正しき、ブラックエンに連なる者だ! 確かに大貴族デニングとは比べものにならないが……領地を持ち、俺を慕う民だって少ないがいるのだ! 敵の情けは受け、逃げ帰ったとあっちゃ俺の名誉は失墜する!」

 

 こいつ……まさか俺と戦う気か? 力量の差がわかっていないのか?

「舐めるなよ、スロウ・デニング! 俺の姿を、この部屋に眠る戦友たちが見ているんだ! 友の前で俺だけが逃げるわけにはいかないッ!」


 でも本気のようだ。あいつの身体に纏わりつく水の精霊が見える。勝ち目のない戦いに挑む奴の心情に、大勢の精霊が共感している。


 あいつ自身も、これが生死を分かつ大勝負だと気づいている。いや、勝てないとも重々承知の上だろう。スロウ・デニングの名前は軽くない。幼少の時、風の神童と呼ばれていたあの頃でさえ――俺の実力は並の騎士を凌駕していた。


「俺の名はギャリバー。トリバー・ブラックエンの血を受け継ぐ息子だ! リーガル魔法学園を十八で卒業し、二十二の時にエデン王から直々に騎士の叙勲を受けた! その時に誓った! この杖は、サーキスタに敵対する者を穿つために――」


「――ブラックエンの人間ってさ、食料事情が乏しくて蛙ばっかり食べているって噂を聞いたことがあるぞ。お前の膨らんだ頬を見ていると、あながち間違っていないらしいな」

「……なんたる侮辱か! 許さんぞ!」


 それはサーキスタの下級貴族、ブラックエン家の人間を揶揄する言葉だ。あいつはこちらの想定通り、顔が怒りで真っ赤になってゆく。水の精霊がこちらに敵意を向けていた。


「スロウ・デニング! 貴様の言葉は、俺の祖先を最大に侮辱する言葉だ! ブラックエン家の紋章に描かれたカエルの意味は、共に生きる友情の証に他ならない! 断じてブラックエンの人間はカエルを食さないッ!」

 ああ、知っているさ。

 ブワッと精霊の数が増して、精霊が冷たさを帯びていく。

 

 こいつは良い奴なのだろう。精霊の反応から、この男が精霊から好かれていることがよく分かる。精霊ってのは気まぐれだが、好む相手には大きな力を貸すもんだ。


氷の長刃で喉を掻っ切るアイス・カットスロー!!」

 

 杖が振られ、男の詠唱が形を成した。

 直後、俺の顔面目がけて弾ける氷の刃が伸ばされる。おっ、こいつは魔力が上手に練られた良い魔法だ。クルッシュ魔法学園では教えてくれない人を殺す魔法で、発動までに余計な無駄もない。シューヤなら大丈夫だろうが、ビジョンだったら今の攻撃で殺されている。


 俺は紙一重で攻撃を避けると、奴の魔法は背後の壁に大きくめり込んだ。




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