480豚 殺さないのか

「ひ、ひいいいいいい……なんで笑ってる…………狂人め…………見るな、俺を見るなあ………………おい、やめろ…………やめろくれ……」

 俺は奴の首を力を入れず、左手で掴み上げた。

 男の体温は火傷をするかと思うぐらい熱かった。男は恐怖で濁った目で俺を見ている。

 ――見ているか、父上。

 今の俺は正しい教育を受けた公爵家デニングの人間として振る舞っているぞ。


「……やめ、やめてくれ…………頼む…………」

 敵国の兵士など虫けらのように扱い、情報を引き出すためなら何だってやる公爵家デニングの人間。

「……誰にも言わない…………お前が死んでなかったこと……誰にも言わない…………だから……殺さないで……頼む……」

 今のサーキスタは将来、ダリスの敵国となるべき可能性が高く、公爵家デニングの人間が敵地に潜入したら拷問をすることだって躊躇わないだろう。戦時の中で俺の兄姉たちなら、あの誰からも慕われる俺の姉サンサだってそうするに違いない。


「俺は何も見なかったことに………………うそじゃない……信じてくれ……」

 今の俺は無表情に男を見下しているんだろう。この男に恐怖を与えて、自分に従わせようとしている。

 男の俺を見る姿は……まるで過去の自分を見る大勢の人たちの姿だ。

「死にたくない……」


 ――真っ暗豚公爵は、こういうことが誰よりも得意だった。

 ――ドストル帝国との戦いにおいて誰よりも暗躍し、たった一人で帝国へ打撃を与え続けた真っ暗豚公爵は誰からも理解されず、けれどシャーロットを守るという本懐は達成した。

 最終的に故郷を追放されたけれど、あいつはそれで満足だった。


「……た…………助けて……」

 今の俺はこれから、当時の真っ黒豚公爵に近しいことをやろうとしている。この男の心を折って、知る限りの正確な知識を抜き取るのだ。貴族階級にいるだろう男が持つ情報を知り、自分の利になるよう操らねばならない。

「慈悲を…………」

 ――サーキスタは、ドストル帝国の手が掛かっている。エデン王本人か、エデン王に近しい誰かが帝国の人間と繋がっていることに疑いはない。


 ああいう自らの手を汚さないやり方は、帝国の好むストーリーだからな。

 

「お願い、します…………慈悲を……」

 呼吸を行う首の気管を締め上げ、救いを求める男をはっきりと目にする。この男はサーキスタの兵士を、魔法使いを大勢倒した俺、スロウ・デニングに慈愛を求めていた。

 より死の感覚をはっきりと味わえば、俺がこれから探ろうとしている行いこそが世界のためとそそのかせば、男は俺の都合の良い手駒となるだろう。

「じ……じ、ひを……」


 ――俺はもう一度、世界を救おうとしている。

 一度目の救世は、ただシャーロットと一緒にいることが楽しかった。それに俺の頭の中には世界を救うための道のりがはっきりと描かれていた。苦労はしたさ。苦労だらけだったけど、こうすれば世界は救われるって全能感が俺を突き動かしていた。


「わかさ……ま……」

 だけど、これから何が起こるか。

 サーキスタの裏側で何が起きているか俺は何も知らないのだ。最短経路でドストル帝国の企みを暴くには……俺は真っ暗豚公爵のようにこの男を利用すべきだ、そんな黒い考えが最も冴えているように思えたのだ。事実、そうだろう。でも――。


「悪かった」

 そう思うと――笑えてきた。馬鹿らしい。シャーロットが今の俺を見たら、何て言うだろう。きっとシャーロットは悲しそうに目を伏せてそれでも俺は悪くないとか、庇ってくれるのかもしれない。きっとそうだろう。シャーロットはいつだって俺の味方だからな。


 だけど、これはダメだ。こいつの自由意志を俺は奪おうとしている。それはなんていうか……今の俺にはひどく、カッコ悪いものに思えてしまったんだ。


「サー・ギャリバー。あんたはただ、そうだな」

 そう呟いて俺は奴の首を掴む手を離した。


「運の悪かった男。そうだよ、あんたは何も悪くない」

 奴の足首に絡みついている魔法も一緒に解除する。奴はゴホゴホと咳をしながら、首を押さえた。汗が滲む顔で、俺を見た。

「…………」

 絶望の表情は変わらず、媚びるように俺の様子を窺っている。


「逃げていい。俺の気が変わらないうちに、消えてくれ」

 奴も自身と俺の力の差を分かっているんだろう。これから何をされるのか、心配で堪らないんだろう。だからか、奴は動かずに俺の動きを見つめ続ける。

 さっきの俺の言葉、聞こえなかったのか……? ならもう一度、言ってやろう。


「逃げろよ、サー・ギャリバー」

 けれどあの男にはどうしてか――逃げるなんて発想はないようだ。依然として、俺を幽霊や怪物のように思っているんだろうが、その場に留まって俺を見つめている。

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