473豚 水の刃

 俺はあいつが壁に立てかけている杖に見覚えがあった。

 杖そのものじゃなくて紋章の方だ。

 あれは褪せた茶色の紋地に描かれている……濃灰色の石の上に乗る蛙。


 曰く付きの貴族だな。

 本当にブラックエン家の紋章を中央サーキスタで見ることになるとは。 


 サーキスタの中央貴族からは見下され下に見られている貴族。代々、ブラックエンの人間は……手グセが悪く、人から信用されないと聞いていたが――。

  

「サーキスタ王族の人間はと高らかに唄うが、ブラックエン家の家訓はのだッ! 今のエデン王に何かを与えられた記憶はないが、俺の名を高める絶好の機会ッ!」


 家名と本人の信頼は、貴族社会で同一視されるものだ。

 本人の働きが家の名誉を上げ、家の格が本人に自尊心を与える。貴族社会とはそういうもので……勿論、そうであればサーキスタで大罪を犯した俺の存在が、世界的にデニングの名前を下げたことは間違いないだろう。


 ダリスにだって、名前を口にすることも憚れる曰く付きの貴族は大勢いるが……。


「名誉を高め……そして……そして……俺はアリシア王女へ……求婚するのだ」


 げ――あいつ。アリシアのシンパかよ……。





「――フハハ、昂ってきたぞ! しみったれた生活とはおさらばして、未来を変えてやるのだ!」


 だけど、俺もそうだった。

 今のあいつのように覚悟を持って、世界の未来を変えた。


「これはブラックエン家の人間がサーキスタ王族へ忠誠を表明する機会でもある!」


 俺の行動で世界の行く末に歪みが起きたことは百の承知。俺の知らないどこかで死ぬべき人間が生きて、生きねばならぬ人間が死んでいる事だろう。

 でも俺の腕は二本しかないし、俺は誰も彼も救える完璧な人間じゃない。


 


「サーキスタにブラックエンの男ありと家名を上げる機会を下さったのだ! そうと決まれば景気づけに、もう一杯!」


 たから俺が心に決めた決断は単純明快。

 なんとしても、帝国と南方の戦争を回避するってこと、そこに全力を掛けた。


「寝ずの番を終えたら、俺も街に繰り出すよう隊長にかけ合おう! あの娘の首を、ドストル帝国に送り届けてやる!」 


 ―—そんなことすれば、俺が地獄に叩き込んでやるよ。


 ていうか俺が未来を変えていなければ……夢に溺れて威勢の良い声をあげているお前だって死んでるに決まってるんだぞ?


 お前らは残念なことに……勝手に憎んでるあの子が何者か知らないだろう。

 俺たちとは隔絶した国力を持つあの国で、彼女ファナ・ドストルは極めて大きな役目を持つ少女だ。ファナ・ドストルは正当なる帝国後継者の一人であり、闇の大精霊が最も寵愛を注ぐ一人に他ならない。

 

 

 それがドストル帝国の中で、王の後継者として生まれた子供として正常であることが、どれだけ異常かお前にはわからないだろう。ブラックエンの人間。


「うう〜。ひっぐ、酒が頭に回っていけねえ。ああ! もう空じゃねえかっ! くそ! もう二瓶はくすねてくるんだったな!」


 ドストル帝国の紋章は、ブラックエン家の弱々しい蛙とは大違い。

 あいつらを冠するは、砂漠を表す黄色の紋地に、三つの頭を持つ巨大な獅子の紋章だ。

 

 あの恐ろしい紋章を冠するドストル帝国では、南方で大国に数えられる騎士国家ダリスやサーキスタの国力だって、帝国の一地方に劣る程。


「帝国がなんだ! サーキスタで好き勝手させねえ!!」


 お前たちがどれだけドストル帝国のことを知っているというのか。

 ただひとつ言える事実は、仕事の最中に酔っ払って今にも眠りかけているお前がドストル帝国を相手に功をあげるなんて到底、無理だよ。


「くああ! 俺にもっと仕事を与えてくれたら! 寝ずの番なんて……! 立候補するんじゃなかった!」


 確かに有能な人間であれば、死体安置所の管理ではなく、町中でファなドスロルの捜索にあたっているだろうさ。勿論、それは湖の騎士エクスが彼女を逃してくれたという前提が必要だが、あのブラックエン家の男の言葉から湖の騎士は俺との約束を守ってくれたと理解する。

 ファナ・ドストルはあの場から逃げ出し、俺は生き返った。


 “ファナ・ドストルを見逃してくれればデート1回。追加で俺を殺したように見せかけてくれればデート2回! どうだっ!“


 “俺の従者に俺が生きていることを伝え、アリシアを守り抜けば3回超えて4回だ! さらに騎士としての誇りを最後まで忘れなければ、俺がお前の夢に全面協力してやる”


 湖の騎士サー・エクスは俺が要求した五つの約束のうち、少なくとも二つは守ってくれたことになる。それだけでも――十分を超えてお釣りが来るってもんだ。

 これ以上、サーキスタ至高の騎士を当てにしたらバチがあたる。


 それに……調


「うう、ねみいや。ひっぐ……良い夢が見れそうだ……寝ちゃいけないんだけど……神々が俺を眠りの底へ誘っている」


 ――水の刃ブレード

 無詠唱の魔法で三十センチ程の刃渡りを持つ凶器を生み出し、俺は立ち上がった。


 十分、暗闇に目が慣れている。今の俺の目は、あのブラックエン家の縮れ焦茶色の髪の毛だって、さらなる酒を求めてピクピク動く指先の動きも。

 さらに、騎士としてあるまきじ失態。

 強いアルコールで、あいつの赤くなった血色の良い顔色もよく見えた。


「うおおお…………追い詰めたぞ……ドストルの……娘……」 


 酔い潰れた男へ一歩一歩近づく。

 一体、俺がいるこの場所はどこなのか。街中にしては静かすぎて、さっきから違和感を感じていた。

 この男に聞き出さねばならぬことが山ほどあったが、息を潜める必要はないだろう。


 どんな夢を見ているのか知らないが、口角が上がり気分が良さそうだ。

 そりゃあそうだろうさ。床に散らばった酒瓶の数、そして室内に漂う酒の香り。


「高貴な……高貴な……ドストルの娘……直接の恨みはないが…………死んでもらうぞ…………いや、殺しては…………ダメだった……か?」


 夢の中で、現実には感じられない全能感でも感じているのか。


「エデン王のもとへ……連れて行かなければ…………うひひ……手柄は全て……俺のものだ…………」


 だけど申し訳ない。先に謝っておくよ、ギャリバー・ブラックエン。


 俺は水の刃ブレードを男の首筋に近づけて、その哀れな男の耳元に小さな声で……だけど、はっきり聞こえるだろう声色で語りかけた。


 その声色には当然、をたっぷりと含ませておかなければ。


「寝ずの番を忘れたのか? ――半人前の騎士サー・ギャリバー殿」


 お前たちサーキスタよりも格式高き騎士国家ダリスにおいて。

 大貴族デニングの家に生まれついた者として、遥か格下の家ブラックエンを見下す冷たい感情を。

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