第10話

 鍋が終わり、佐野先輩がそのまま寝ている時に、大平先輩が本題を話した。

「実は今後弘樹がサークルをやるときに、メンバーを紹介して他のサークルに入れようかと思ってな。今日は解散祝いもあったが、弘樹のサークル加入祝いでもあったんだ」

「新サークルの加入って」

「もちろん1人で立ち上げたいならメンバーには言っておくから安心してくれ、けれど経験があったとは言え、いきなり1人でサークルを立ち上げるのも厳しいだろうと思ってな。安心しろ、新規メンバーは弘樹もよく知ってる人たちだ。アーネンベルネの伊達さん達のサークルだよ」

 その人たちはよくイベントで会う知り合いで本を交換しに行くことが多かった。

「同じ視点というか理念を持ってるサークルだし、趣味も合うだろ?メンバーのこと話したら喜んでたぞ。わしらの次に仲のいい人らだし、面倒みもいいからすぐに馴染むとはずだ。年も同じくらいだし、弘樹さえよければだが…」

 そう言い終える前に、俺は理奈のサークルの事と原稿のことを話した。

 そして美大のことも話すと、大平先輩は少しだけ驚いていた。

「絵の才能はあると思っていたが、そこまであったとは思わなかったぞ」

「俺も最近のことなので未だに信じがたいんですが、美大の人たちにここまでされると信じるしかなくなりました。でも迷っています」

 大平先輩はビールをいっぱい飲んで、こう言った。

「そうだな、確かにどちらか迷うかもしれないが。その漫画に賭けてみてもいいんじゃないか?弱いのはおそらく理奈ちゃんの言うように話だけかもしれない。完売したら続けてみる。1冊でも売れ残ったら美大と考えてみるのもいいかもしれない」

「いくらなんでもそれは極端ですよ」

 それでは美大に行く確率のほうが高い。

「それじゃ美大にいくだろって?確かにそうかもしれないが漫画は思った以上に厳しい世界だ。これくらい簡単にやり遂げないとこの先辛いだけだと思うぞ?」

 そう言って大平先輩は次のビールのタブを開けた。

「わしらだってコミケで見てきたじゃないか、プロの漫画家が同人をしていて完売していく姿や、同人を続けていた人が完売してから漫画雑誌の編集に声をかけられて、そのままプロになったサークルの人を」

 確かにコミケの中でそういう人は見てきたし、知り合いにもいた。

 大平先輩はビールを飲んで、次の言葉を続けた。

「彼らは完売する本を出し続けたからプロになれた。それぐらいやらなければプロの道は開けなかったし、同人も続けられなかったよ。もちろん社会人になってから始めた人もいるな」

「そうですよ、同人は社会人になってからでも」

「だが、長く続けることはできても赤字が多かったな」

 確かにその通りだった。

「プロになれば、いやプロの人たちの視点を同じにすれば同人は続けられるし、プロの漫画の世界でやっていけるかも知れない。そのためには、今の本の完売くらい出来なければプロにも慣れず、わしらのように卒業して他の仕事を探すことになるぞ」

 その言葉で俺は重くずっしりとしたものが心に乗っかった。

 プロの厳しい世界を言葉だけだが、感じられた気がした。

「だから完売くらいの気持ちでないと漫画は厳しいぞ。次のコミケで結果を見て、しっかりと自分の進路を決めたほうがいい。最後までサークルに付き合ってくれたから言うよ。

この次のコミケの原稿を自分の力で頑張れ」

 それを最後に大平先輩はトイレにった。

 袋に残ったつまみを食べて、俺は考えていた。

 今度のコミケで本が1冊だけ残るなら、美大に行こうと俺は思った。

 それはあまりに無謀な賭けにも思えた。

 トイレから戻った大平先輩はそのまま寝る、と言って寝てしまった。

 俺は2人が寝たあとに原稿を描くことにした。

 この日は眠れずにただ原稿だけを描いていた。


 ※


 大平先輩が佐野先輩を昼頃に起こして、家に帰っていった後も俺は作業を続けていた。

「悔いのない漫画を描けよ」

 そう言って大平先輩は佐野先輩を支えて帰っていった。

 車の音が窓から聞こえたが、俺は原稿の最後の仕上げに入った。

 そして、スカイプに早めだが、原稿が完成したので理奈に読んでもらうためにスカイプに入り、データを送った。

 返事はなかった。

 完成したあとで、今までの疲れが体にきたので、俺はパソコンをつけたまま布団に入って寝ることにした。

 その日は半日近く寝ていた。

 起きた時には夜になっており、その時にパソコンにスカイプのチャット通知が来ていた。

「弘樹さん、原稿ありがとうございます。1万5千円の印刷費を渡して言ってくれた言葉の通りに完成できましたね。この前はあんな酷いことを言ってすみません。よければ今度の日曜日に気分転換にS市のアミューズメントパークに行きませんか?」

 チャットを読んでみると、デートのお誘いだった。

 俺は行くことをメールで送り、初めてのデートに緊張していた。

 その一方で、今日渡した原稿が果たして完売する内容か心配にもなって、複雑な気持ちだった。

 原稿が終わり、あとはコミケの日を待つばかりとなったので、俺はとりあえず美術の参考書を読んで寝ることにした。

 どこかで漫画家になれなかった時の保険のことを考えていたからかもしれない。

 もし売れなくて美大に入った場合は、この美術の勉強自体が意味のないものになるかもしれない。

 この日は深夜まで起きて、目覚ましを早めにセットして布団に入って寝た。


 ※


「今日はやけに機嫌がいいわね」

 学校帰りに彰美に呼ばれて、俺は教室に残っていた。

 放課後なのでもう誰もいない。

 部活動もグラウンドが使えないので、体育館のバレー部だけが練習に出ている。

 窓を見ると夕日が昇り、夕日の日差しが銀世界の雪にオレンジ色を混ぜている。

「それより用事ってなんかあるのかよ?」

 呼ばれた理由もわからなかったので、俺は彰美に聞くことにした。

「そんなことよりイベントの原稿は終わったの?」

「ん?ああ、終わったよ。イベントは来週の土曜日だし、それまで暇でね」

「それなら今度の日曜に付き合いなさいよ」

 彰美は少し顔を赤くして、そんなことを言った。

 だが、その日は理奈との約束があった。

「悪い、その日はダメなんだ」

「なんで?」

「理奈とデートする日なんだ」

 その言葉で彰美は黙ってしまった。

 俺は冗談半分で聞いてみた。

「もしかしてさ、お前って…まさかそんなことはないけど、俺のこと」

 そこで笑いに変われば安いものだと思ったが、彰美は俺を真っ直ぐに見ていた。

 その視線がそれを伝えていた。

 彰美は俺のことが好きだった、ということが嫌でも伝わった。

「嘘だろ?いつから?」

「小学生の頃からだよ、覚えてる?公園の砂場でいったこと」

 つい最近夢に出てきたような気がする、あれは過去の出来事だと今頃になって俺は気がついた。

「そんな前からだったんだ」

「だけど、あんたもう恋人出来ちゃったんだ。あーあ、残念だな。もっと早く言ってれば良かったよ。でも不思議、ちっとも悲しくないんだよね」

 彰美はそう言いながらこっちを見ずに、顔を背けた。

 泣いていることは明らかだった。

 そんなにまで俺のことが好きだったとは、気がつかなかったし、そんな素振りも今まで見せなかった。

「あんた鈍感だから言わなきゃわからないでしょうけど、誰がただの幼馴染みってだけで時々家に来ると思ってるの?好きだからだよ!」

「………」

 そんなにも思って、俺の家に来てくれたのか?

 俺は最後まで気が付くことはなかった。

 とんだ鈍感だなと思いつつも、もう終わってしまったことだと思うと虚しくなった。

 俺は黙って聞くしかなかった。

「あんたは美大行かないと思ってた。だけど、振られたんなら、もうあたしがあんたと同じ大学行く意味なくなっちゃったね」

「えっ?」

「推薦の大学行くわ。あんたといると、あたしいつまでもこのこと思い出すからさ」

「……そっか、悪い」

「謝るな!馬鹿っ!」

 そう言って彰美は俺に抱きつき、胸をポカポカと叩いた。

「俺理奈さん大事にするよ」

「約束だよ?振られてもあたし来ないからね、あんたなんか忘れてるし、後悔させてやるからね」

 結局彰美は、俺といつまでも近くに居たかっただけなんだなっと俺は思った。

 この日から彰美は俺の家に来なくなったし、話すこともなくなった。

 その時俺は彼女を振った意味を知り、理奈さんとの約束の日曜日までしばらく何もする気が起きなかった。

 たまに部屋に来る美琴が、俺の心の癒しになった。

「彰美おねいちゃん来なくなったねー」

 何気ない美琴のその一言が残酷にも俺の心に刺さった。


 ※


 日曜になり、この日は理奈とS市の駅前の大きなビルの中にあるアミューズメントパークに行く日になった。

 服装はいつものカジュアルの服になったが、いつもの服装とは言え緊張する。

 今日のメールを見ると11時頃に来るとのことだが、下見もしたかったので俺は10時半に駅に着いて、先に近くの丼物店でマグロ丼を食べていた。

 理由は彼女の前でお腹の音を立てるのが、なんとなく恥ずかしいからだ。

 インターネットでここのマグロ丼はかなり美味しいというレビューも多かったので、理奈さんには内緒で食べていた。

 確かに食感もよく、味も申し分ない美味しいマグロ丼だった。

 会計を済ませた頃には11時5分前になっていたので、待ち合わせ場所の駅に戻った。

 そこで同じくカジュアルな服を着た理奈さんが駅の銅像の前で待っていた。

 まだ冷える時期なので二人共カジュアルな服とは言え、厚着で来ていた。

「あ、弘樹さん。こんにちは。遅くなりましたか?」

 理奈さんがこちらに気づき、話しかける。

「いや、ちょうどいい時間だったよ。そろそろ駅が混む頃だし、行こうか?」

「は、はい。それじゃあ、アミューズメントパークはここのビルの6階にあるので行きましょう。楽しみにしてたんです。面白いアトラクションが多いって聞いたので」

 そう言って、俺たちはこの前の仲直りデートを楽しむことにした。

 ビルの内部にあるアミューズメントパークは内部の中ならではの独特の乗り物があり、それは新鮮で楽しかった。

 13時頃になり、アミューズメントパーク内のカフェテリアで食事を取ることにした。

乗り物を1通り楽しんだ理奈さんはご機嫌だった。

「面白かったですねー、さっきのアトラクション」

「まさかシューティングがあんなに白熱するとは思わなかったね」

 俺たちはアトラクション後の会話を楽しみ、メロンソーダ2つとサンドイッチを食べてゆっくりしていた。

「弘樹さん原稿おつかれさまでした」

「え、なんだい突然?別に大したことじゃないよ」

「あとは私たちのサークルで売るだけとはいえ、結果が楽しみですね」

 理奈さんは昨日の大平先輩のことを知らない。

 俺は決心して言うことにした。

「実はそのことで話があるんだ」

「別にいいですよ、どうぞどうぞ」

 俺は大平先輩の言う完売しなければ美大に行く話をした。

 理奈さんはどう思っているんだろう?

 やっぱり怒るのだろうか?

「そんなことですか?大丈夫ですよ、うちのサークルなら完売しますよ」

 以外にも理奈の反応はあっさりとした感じだった。

「うち壁サークルなんでお客はきますよ」

 その一言は初耳だった。

「えっ!壁サークルだったの?」

「はい、言ってませんでしたっけ?」

 知らなかった。意外な事実だった。

「そんなに大きなサークルだとは思わなかったよ、てっきり同じ島中サークルとばかり思っていた」

 壁サークルとはコミケでのイベントで売り上げる本の部数が他と飛び抜けて売れているサークルのことで、並ぶ人数も多いことから外側に配置される大手サークルのことである。

 島中サークルとは一般的なサークルで会場の中心に配置されることから、島中サークルと呼ばれている。売上は壁に比べると歴然としていて、ほとんど売れない。

 つまり理奈さんのサークルにはお客がたくさん来るのだ。

 宣伝効果は言うまでもなく、高いだろう。

 俺の本も手に取ってもらえる確率が高い。

「安心してください。今までいろんなことがありましたけど、コミケは成功しますから、今は乗りたい乗り物がいっぱいあるので楽しみましょう」

 そういった彼女の目は明るさがにじみ出ていた。

 それに励まされるように、俺は彼女とのデートを楽しむことにした。

「それならあれに乗ろう。人気があるやつなんだけど、今の時間なら空いているしさ」

「あ、いいですね。じゃあ食べ終わったら乗りましょうか」

 彼女は優しかった。

 デート中は話があったし、運動神経は悪いがそこも可愛かった。

 意外と甘えるところもあって、彼女の乗りたい物を中心に回ったし、気づけば2人で手を握っていた。

 コミケのことや進路のことがなければきっとお似合いのカップルだったんだろう。

 俺はそんなことを思っていた。

 彼女はそんな俺を知ってか知らずか、顔を見て笑顔で答えてくれた。

 俺たちはデートを楽しみ、2人でそのまま電車で俺の家に着いた。

「俺、君のことが好きなんだと思う。今日のことは忘れないよ。遠くに行っても忘れない」

 家のドアの前についたときは、俺は彼女にそんな言葉を投げていた。

「まだそんな弱気なこと言ってるー。ダメですよ」

「悪い」

「私も好きですよ」

「えっ?」

「そうだ、自信がつくやり方を今から教えますね」

 そして彼女からこれで大丈夫ですと言って、口づけをされた。

「コミケの成功の前祝いです。受け取ってくださいね」

 初めてのキスだった。

「初めて本を手に取った時から、あなたを好きになっていたかもしれません」

 そういって、彼女は笑った。キスの後の告白だった。

 あまりに不意なことだったので、驚いたが、見つめると彼女はそのまま恥ずかしがって階段を下りていった。

 俺は理奈と特別な関係になったことを改めて自覚した。

 来週はコミケだ。

 どういう結果になるか分からないが、その日は長い1日になると俺は確信していた。

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