第6話
教室に入ってきた20代後半の眼鏡をかけた女性が岸さんと一緒に俺のそばまで来た。
「初めまして、弘樹君。私は東京芸術大学の芸術学部で教授をしている。川上です」
「どうも」
俺は挨拶は短めに結果だけを聞くことにした。
「合格したのかどうか聞きたかったんですが、どうでしょうか?」
「審査員全員一致であなたを合格とします」
川上さんはあっさりとその答えを言った。
「さすが弘樹君、ぜひうちの大学に来てくれませんか?もちろん親御さんには、あなたが合格したことを電話しておきました」
隣にいた岸さんが嬉し気にそう言った。
けれど俺の答えは決まっていた。
「すいません、やっぱり俺合格辞退させていただきます」
川上さんがしばらく黙り、そして興味ありげに俺に質問した。
「それは何故かな?これだけの才能を腐らせるなんて君の人生で大損もいいところだと思うわよ。理由聞かせてくれないかしら?」
俺は今まで思っていたことを述べることにした。
「俺は本当は絵より好きなものがあるんです。この絵の世界に入ると、もうそれが出来なくなるんじゃないかと思って試験中も悩んでいました」
岸さんが川上さんの代わりに話した。
「その絵以上に好きな物って何でしょうか?気になりますね」
「それは俺がそれを始めてから今まで3年近く活動していたものです」
俺は2人に先輩に会った事や、コミケの事、入学後に抱えていた不安などを説明した。
2人は静かにそれを聞いていた。
すべてを聞こえた時に、川上さんは腕を組んで困った顔をしていた。
「そうか、そういった理由か、確かにそうなると画家を目指すことはできないだろう」
俺は全てを言い終え、静かにその場で立つ中で、岸さんが川上さんと話していた。
「ですが川上教授、彼の絵の才能は素晴らしい物でした。その理由ですと大学に入ってから空いている時間を使って創作を続ければ、どのみち絵のスキルとして生かされるわけですし、漫画家という道も画家を続けながらでもできるのではないですか?」
「岸君、絵の世界はそんな甘いものでもないだろう。彼に画家以上の熱意のあるものが3年前に現れたんだ。誰にだって変化はあるし、嫌々描いた絵をこれからも描いていって、画家を続けられると思うのかね?」
「それは…」
岸さんは黙り込んでしまった。
川上さんが俺を向いて話を続けた。
とても真剣な目でまっすぐと俺を見ていた。
「絵の代わりにそれをずっと続けていく覚悟はあるんだろう?そうでなければ意味がないと私は考えているし、画家になれずに筆を折る生徒もうちの大学には少なからずいた。君は嫌々でも画家になれるかもしれないが、こういうのは君自身の気持ちの問題だ。画家を選んだからと言って、漫画を選んだからと言って幸せになれるか大成するかは誰にもわからないことだ」
川上さんは話を続ける。
「まして君は絵で評価されても漫画で評価されたことは一度もない。プロになれる保証なんてどこにもないんだ。それでも続けたいと思うのかね?それは趣味の延長でしかないんじゃないのかな?」
言ってみればその通りかもしれない。だが、漫画で色々な楽しみを得た事は事実だし、今後も続けていけば何かを見つけ、それを手に入れることが出来るかもしれない。
俺はそれに魅力を感じていた。
「今は趣味の延長かもしれません。でもそこには今描いている絵以上の生き甲斐みたいなものが、わずかにですが感じられました。これをずっと続けることが俺にとって大切なことだし、大きなものを得られるかもしれないんです」
川上さんはそれを聞いて、少し考えてからこう答えた。
「それなら少し考える時間を与えようじゃないか」
そこにあったのは予想もしない意外な一言だった。
「考える時間ですか?」
「そう、2月まで合格の取り消しはひとまず待とう。今から残った期間でもう一度よく考えて決断しなさい。普通の大学に行って漫画の活動を続けていくか、私たちの大学で画家として進んで行くか、君は今その人生の選択を決めかねている。2月の終わりまでにじっくりと考えて自分で納得のいく答えを持って私に電話しなさい」
川上さんはそういって、ドアの前まで歩いて行った。
そして振り向かずにこう言ってドアを閉めて教室を出て行った。
「ただの見学のつもりが君を勝手に受験させたことはすまないと思っている。だが、そうまでしても欲しい人材だったことは覚えていてくれ。君が少しでも絵画に興味を持てるのなら、我々は全力で君をサポートするし、必ず画家にしてみせると約束する」
俺はただ黙っていた。
岸さんと俺だけが教室に残り、川上さんが出ていった後で今まで黙っていた岸さんが俺に話しかけた。
「もう遅いし、今日は家まで送りますね」
そういって俺は返事を言う前に、岸さんと教室を出て行った。
残されたキャンバスに描かれた絵は、誰にも評価されないまま教室に残されていった。
※
帰りの車内では何を話したかはあまり覚えていないが、家に着いた時にはもう日が沈んでいた。
「これお土産のケーキとおつりです」
そういって岸さんは俺にケーキの入った袋とおつりのお札と小銭をレシートも付けて渡した。
「どうもありがとうございます」
「いいのよ、君が今回の事で納得のいく選択が出来ることを願っているわ」
そういって岸さんは車に乗って、帰っていった。
俺はひまとまず考えるのをやめて、駐車場から本屋の裏口のカギを開けて、母親のいる部屋に入った。
「これ東京のお土産のケーキ。日野さんや美琴と一緒に食べてくれ」
部屋にいた母親にそういって俺は冷蔵庫にケーキを入れた。
「電話で聞いたけど、あんた合格したんだって?」
母からそういうことを言われて、祝福でもされるのかと思ったがそういう様子でもなかった。
「ああ、でも考えてるんだ」
「電話で川上さんから聞いたよ。あんたが決めることだから私は口出ししないよ」
「そう…それじゃ俺部屋に戻るわ」
「あたしも日野ちゃんとそろそろ店番代る時間だからレジに戻らないとね」
そういって母と一緒に店まで階段を下りた。
レジをしている日野さんと母は入れ替わり、日野さんが俺を見て明るく話しかけた。
「弘樹君、とりあえず美大合格おめでとう。やっぱり弘樹君はすごいと思うよ」
「いえ、そんな。まだ行くか決まったわけじゃないので…」
「そうだけど、選べるってことはとても贅沢なことだし、私も選んだ結果こうして第一志望の大学を通えたんだよ。あまり深く考えずに弘樹君のやりたいことを見つけられる大学を選んだ方が良いと私は思うわ」
「ありがとう日野さん。お土産のケーキは冷蔵庫に入れといたから先に美琴と一緒に食べてきても全然いいですから」
「あ、ありとううね。それと美琴ちゃんも喜んでたわ」
「それはよかったです。それじゃあ俺そろそろ部屋に戻ります」
「うん、久しぶりにみんなでゆったりと話をしたいけど、弘樹君も試験で疲れているだろうし、ゆっくり休んで疲れを取ってね」
そういって日野さんは階段を上がっていった。
スカートを履いているんだから、下の男の視線の警戒位はしてほしい。
ピンクのフリル付きを見て、俺はそんなことを思った。
「お兄ちゃん帰ってたんだ」
日野さんが階段を上がってから、数分後に上から美琴が降りてきた。
「おお、ただいま。兄ちゃん東京から帰ってきたぞ」
腰を下ろして視線を美琴に合わせて、俺は美琴を抱き上げた。
「お兄ちゃん、合格おめでとー」
「そうかそうか、ありがとうな。冷蔵庫にケーキがあるから日野さんと一緒に食べてきなさい」
「お兄ちゃんありがとうー。美琴、ケーキ食べてくりゅー」
そういって美琴はまた階段を上がっていった。
俺もそろそろ部屋に戻ろう、そう思い裏口のドアから出て、鍵を閉めて階段を上った。
ドアの鍵を開けて、俺の部屋に着いた頃には疲れが出始めた。
無理もなかった、今日は色々なことがあり緊張も少なからずしていた。
風呂に入り、上がった後はパソコンを付けずにそのまま寝ることにした。
今日は疲れた。
車に乗って東京まで行って、試験を受けて、悩みながら川上さんに言われた進路のことだけだが、それが今後の人生を大きく左右するかもしれないと思うと良く考えなければならなかった。
なんで俺は絵なんだろう?
漫画も同じ絵なのに結局別の扱いにされてしまうのは何故なんだろう?
どうしてその2つに俺は悩まなければならないのだろう?
同じ絵を描く媒体であることに変わりはないのに、それをどちらか選ばなければならない時が、あとすぐの所で決めなければならない。
絵の世界にいくなら協力してくれる人もいる。評価もしてくれた人もいるだろう。
それが楽な道かもしれないが、本当にそこが気に入っているのかはまた別だ。
絵画を描くことは正直に言えば、漫画よりもどちらかと言えば好きでもなかった。
生産量ならおそらく今は絵の方があるだろう。
だが漫画は初めて3年近くと、まだまだ絵に比べれば浅すぎる経験だ。
絵は小学校の頃から描いている、かれこれ10年以上は描いたことになる。
経験の差は漫画と比べると圧倒的に差がある。
だが、漫画は絵を描く事はもちろん、話を作ったり、コマで絵には無いテンポや演出などがあり、とても奥が深いものだった。
それより何より、絵とは違って多くの人に読まれるジャンルだった。
絵のように一部の人たちが見て、買いにくるだけの世界でない。
情熱など色んな人の感情が、コミケには確かに熱気としてあった。
その先にコミケから創作活動を初めて、長く続けた結果プロになった人も少なからずいる。
プロになることが終着ではないし、プロになっても続けるとしたら、今のところはやはり漫画になるだろう。
だが、漫画にはプロになれる保証なんてどこにもないのだ。
どちらにも結局のところ不安があった。
俺は美大に行った方がいいのだろうか?
だとしたら先輩達のように辞め時というものを考えなければならないのだろうか?
それは結局先輩達と同じでしかないのか?
それは違う気もするし、納得できないがそうして譲らなければならないのだろうか?
漫画をきっぱりと止めて、絵に集中する自分を想像してみた。
漫画を売って楽しんでいる姿は想像できても、絵を描いている自分はどれも悲しそうに見えた。
それでも漫画で芽が出ない時は、芽が出る確率の大きい絵の世界でやっていくべきなのだろうか?
何のために?自分自身のために?どうして?
これが世間で言う妥協というやつなのだろうか?
そういった疑問ばかりで気分が悪くなった。
これでは前と何も変わらないじゃないか。
実際にその通りだった。悩みは美大を見てきても変化はない気がした。
それどころか選択を残った1か月で決めなければならないところまで来ていた。
長い物には巻かれろと言う言葉通り、漫画より経験の長い絵を選ぶべきなのだろうか?
それとも他にも向いているものがもしかしたらあるかもしれない、そう思って一般の大
学で色々と見てきて、またじっくりと考えればいいのだろうか?
でもそれは逃避と変わらない気がした。
いつも漫画を描いて逃げてきた問題も多くあるが、今回はその漫画と絵で逃げることも出来ない問題に良い案が浮かばなかった。
結局どちらかを選ばなければならないのに、今はどちらも選べずに俺はそのまま布団の中で眠ってしまった。
なんでこんなことでずっと頭を悩めて、苦しまなければならないのだろうか。
そんな気持ちを残したまま、電気の消えた暗い部屋の中で俺は眠った。
※
冬休みまで今日で残り3日になった。
俺は宿題を一昨日の登校日で全部提出したのでやることは無かった。
ただ1つの昨日からの悩みさえなければ、気楽に過ごせたかもしれない。
去年の今頃は大平先輩と佐野先輩とで原稿を描いていただろう。
完成して入稿して、終わった後はしばらくして打ち上げをしたけど楽しかった。
みんなで完成したものが世の中に出されて、それが終わって打ち上げをしたのあの喜びは刹那的な瞬間ではあったが楽しかったし、笑う事も出来た。
目を覚ましてから、体を布団の中に入れたまま俺はそんなことを天井を見ながら思い出していた。
今日は何も考えずにただボッーとしていたい。
何も動かずに布団の中でじっとしていたいと思うようになった。
絵を描き始めた理由は何だったのだろう?
1人で殻に閉じこもるには絵がインターネットの次に楽だったからだろうか?
最初は多分そんな気がした。
周りからの賞とか才能とかそんな言葉が嫌になって、中学時代ははっきり言って良い思い出もないし、絵を描く以外は面白くもない日々だった。
テストのための予習と復習、試験のための予習と復習、社会に出て立派な社会人とかいう漠然としたもののために予習と復習…聞くだけで嫌になる中学の日々だった。
それが正しい大人の在り方だと中学の頃の教師はいったが、その言葉に俺は失望していた。
それの何が正しいのかとも聞きたくなったし、同時に言うだけ虚しいと言うか悲しい気持ちにもなった。
そこに絵は無かったし。娯楽はない灰色の社会なのだろうとも思えた。
そして世間には俺と同じような気持ちでコミケで参加している人も少なからずいた。
みんな同じような悩みを持っているんだと理解したし、好きだから続けていると言う人の声が多かった。
高校の頃にその声を聞いて、俺の中でその中学教師の言った言葉が霧のように消えて行った。
あの時コミケに行かなければ、大平先輩に会わなければどうなっていただろう?
きっと絵ばかり描いて、一人で閉じこもった画家が出来ていたのだろうか?
そんなことを考えているとインターホンが鳴った。
今日は動きたくもないが、インターホンを鳴らすのは琴美でもなければ、彰美でもないのでおそらく宅配便だろう。
身に覚えのない注文ならキャンセルすればいいので、俺は布団から出ることにした。
「確かに届けました。それでは失礼しました」
宅配員の事務的な対応を聞いて、俺は届けられた小箱を見た。
宛名は確かに俺の名前だが、インターネットショップで今月は何かを買った覚えもないし、ネットマネーも使っていない。
送り主は聞いたことも無い名前だが、女性であることは確かだった。
送り主の名前には林原理奈(はやしばらりな)と書かれていた。
中学の頃に贈り物を届けるほど親しい女性はいなかったし、コミケの知り合いかも知れなかったが、箱を開けずにネットでいつも使っているショップの購入履歴を確認した。
調べてみたが特に何かを買ったわけでもなかった。
メールを確認すると昨日読んでいない分もあって、30通ほどあったので探すことにした。
広告や迷惑メールを削除して、残ったのがこの前のコミケで本を買ってくれた人のメールだった。
そういえばしっかり読んでいないことを思い出し、俺はメールの中身を見ることにした。
その内容はこうだった。
「サークル解散するとは非常に残念です。あとがきでタブレットが欲しいと言っていたので近日中に安物ですが送ります。今度よければ会って話をしてくれませんか?日時を書いてくれれば○○駅でお待ちしています。メールお待ちしております」
そのメールを読んで俺は荷物の正体がわかり、送り主も判明した。
「なんてことだ」
思わず口にしたが、いろいろ考えた。
まずタブレットの返品が聞かないので、料金だけでも返そうと思った。
いや料金というより、この箱に入っているタブレットを返そうと思った。
しかし、もし怖い人だったらどうしようと言う不安もあったが、とにかく返してしまえば大丈夫だろうと思い、俺は明日の午後に時間を決めてメールを送った。
どうすればいいのか解らなかったが、届いた荷物を開けて中身を確認したが、やはり中身は新品のタブレットだった。
明日その送り主の女性にタブレットを返さなくてはいけない。
着替えて外のコンビニに行って、俺はATМでお金を下ろして、万が一のためにお金も用意することにした。
万が一とはやむなくこのタブレットを買い取る時に払う金額だ。
家に帰るころにはメールが届いていた。
外に出て20分ほどしか経っていないが、返信は思ったよりもずっと早かった。
俺はメールを読むことにした。
「ありがとうございます。明日の11時に○○駅のハンバーガー屋の前で待っています」
本当にただのファンなのだろうが、いくら何でもタブレットを送るのは少し困る。
明日はちゃんと理由を説明して、返そうと俺は思った。
とりあえず俺は明日の自分の服装を伝え、それを目印に来てくれと書いて送信した。
自分の同人誌の在庫の箱を開けて、1冊本を取り出して、あとがきを読んでみた。
確かにタブレットをそろそろ買い替えたいと書いてあった。
こういう近況は安易に書くものじゃないと反省した。
結局この日は絵も描けずに、漫画を読んで明日の事ばかり考えていた。
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