第5話

 夢を見ていた。

 なぜ夢だと解るのかは、これがいつか見た昔の公園だったからだ。

 今は取り壊されてしまったジャングルジムに近くの砂場、色が剥がれ落ちていない頃の像の鼻を模した滑り台にまだ座ることが出来た小さなブランコに低めの鉄棒が並んでいた。

 俺が小学生くらいの時の夢なのだろうか?

 曖昧な風景にしっかりと残っている公園のシンボル見ながら、俺は周りを見渡す。

 2人の子供が公園の砂場にいた。

 1人は昔の頃の俺だった。そして見ている今の俺が見えていないのか、反応が無かった。

これが夢だから仕方ないと言えば仕方ないが、昔の俺は砂場にランドセルを置いて、もう1人の女の子に話しかけている。

 もう1人の女の子は小学生の頃の写真で見た時の彰美そっくりだった。おそらく本人だと思う。

 そんな2人の話声が遠くにいるのに聞こえた。

 何故聞えたかと言えば、それはもう夢だからだろう。そこに現実性はない。

 子供の頃の俺が楽しそうに彰美に言った。

「僕は将来絵描きになるんだ。先生も絵が上手いって褒めてくれたもん」

 それに対して子供の頃の彰美が答える。

「私弘樹君が大人になったら弘樹君とずっと一緒にいたいから、絵をたくさん描いてよ。

そしたら彰美はすごくうれしいの」

 それを聞いて、俺はおぼろげだが、昔そんなことを言ったような気がしたのを思い出した。

 夢の中の話だが、昔言ったことがある言葉に覚えがあった。

「じゃあ僕一番の絵描きになって、彰美ちゃん幸せにしてあげるよ」

「うん、彰美ずっと待ってるよ」

 それを聞き終わる前に視界が白くなっていく、気づけば俺は夢から覚めて、暗い部屋の中に戻された。


 ※


 時計を見ると時間は深夜の4時を指していた。

 もう一度寝るには遅い時間でもあり、絵を描く気分にもなれなかったので俺は学習机に座り、パソコンに被せた黒布を取って、スリープモードを解除してネットサーフィンをすることにした。

 ネットサーフィンをしていると、メールが来ていることに気が付いた。

 この前返信した1冊だけ買ってくれたお客さんからのメールだった。

 しかし俺はそのメールを読む気にもなれず、内容もどうせ残念だとか、そういうメール内容なのだろうと思い、メールを開くのをやめた。

 そして東京芸術大学のホームページを開いて、明日迷わない様に色々と調べた。

 調べると言っても明日は車で岸さんが迎えに来るという事なので、別段道順も交通アクセスも必要ないのだが、絵を描く気にもなれず他にすることも無いので少しだけ覗いてみることにした。

 絵だけでなく音楽にもトップレベルの人があつまる大学で、展示会場や演奏会場もあることを見ながら大きな大学だと改めて知った。

 ここに入学して学生生活をおくる自分が想像できずにいた。

 本当にここに入っていいのだろうかと改めて考えてみるが、どのみち明日行ってみて回らなければ解らない事なので、考えるのはやめにした。

 入るとしたら学部は美術学部に入ることになるのだろうか?

 美術研究学部とどう違うのかあいまいな説明に明日聞かないと解らないだろうと俺は思い、他のホームページに移り、ネットサーフィンを続けた。

 コーヒーを飲んで、朝までネットサーフィンを続けたが、体は眠くはならずに気が付けば無料のデジタル漫画を読んでいた。

 芸術大学の作品もネット上で見てきたが、俺にはとても微妙な気持ちだけが浮かんでいた。


 ※


 朝を迎え、午前10時に来る予定だった岸さんの車が10分早く、家の裏口の駐車場に着いていた。

 親に呼び出され、困ったときようにと1万円札を2枚も渡されそんなことは無いからと言い聞かせ、岸さんの車に乗った。

 行く前に日野さんから笑顔で見送られた。

「今日は弘樹君の人生最良の日になるんじゃないかな?」

 日野さんがそんなこと言うのは初めてだったので、俺はちょっと意外だった。

「そんなことないですよ。今日はたぶん見学だけだろうし、あっ、そうだ東京土産とか買ってきますね」

 日野さんはそんなのはいいから自分のことだけ考えてっと言って、仕事中なので本屋に戻った。

 日野さんには東京の有名なケーキでも買ってきてあげようと思い、岸さんにお土産を買うために寄るところがあってもいいですか、と聞いた。

「大丈夫よ、弘樹君。よければ銀座でおいしいケーキ屋があるから、そこでお土産にケーキを買ってきてあげると喜ぶと思うわ」

 美琴は今日は小学校の3学期初めの日なので、もう家にもいなかった。

 美琴にも同じケーキを買ってきてあげようと思い、両親に見送られて、俺は岸さんの車に乗った。

「どんな選択でもお前のやりたいことをしてきなさい。熱意があれば誰に見せても恥ずかしくない努力と結果がつてくるからな」

 朝岸さんの車が着く2時間前に会社に行く前の親父はそれだけ言って、仕事にいった。

 余談だが、うちは本屋は母親に経営を任せて、日野さんとシフトを組みながら運営している。

 親父は普通のサラリーマンで中間管理職で厳しい性格で多くは語らない威厳のある親父だった。

 そういった事情で見送りに来たのは店を少しだけ空けた日野さんだけだった。

 母親の伝言を日野さんは俺に伝えたが、内容は今日は頑張りなさいよ、の一言だけだ。

 そうして埼玉から東京に向かって、俺は岸さんの車に乗って東京芸術大学へ向かった。

 助手席に乗りながら俺は着くまで岸さんと車内で話しながら、高速道路のコンクリートで覆われた変わらない道路の風景を見ていた。

「青井君は東京に行くのは初めてかしら?」

「ええ、まぁ、どんなところかはわかりませんが人が多いとは聞いています」

「そうね、うちの大学も学生の数は全学部合わせてかなり多いわよ。大学に着いたら人の多さに驚くんじゃないかしら」

「それは楽しみです。あの…」

「何かしら?」

 俺は大学に行く前に聞きたいこともあったので、今のうちに質問をすることにした。

「今日俺は大学で見学以外に何かする予定とかはあるんですか?」

 俺も見学以外聞かされていなかったので、今更というか我ながら抜けている気もするがそれが気になっていた。

 岸さんは運転に集中しながら、淡々とスケジュールを説明した。

「実はまだ話していなかったけど、あなたは特別推薦で絵のテストをしてもらうことになってるの」

「テストですか?」

「私たちの大学の少し早い入試ね。何枚か絵を描いてもらって何人かの美術の先生方が審査して合否を決めるのよ」

 そんな特別待遇が自分の回りで動いているとは思わなかった。

 岸さんは運転をしながら話を続ける。

「願書というか特別推薦入試の書類を試験を受ける前に書いてもらうことになるけど、書いた後は、試験開始として昼までにこちらの用意した絵とオリジナルであなたが思いついた絵を描いてくれて構わないわ」

 高速道路を出て、一般道路に入り岸さんは話を、一息ついてから続けた。

 俺はそのことをただ静かに聞いていた。

「それから簡単な筆記試験があるけど、これは特に重視しているわけではないし、簡単な小論文もあるわね。絵を描いた後で良いから必ず受けてね」

 それは一般入試とほとんど変わらないような気さえもした。

「特別扱いだからと言っても一応形式として試験は受けてくれないと騒ぐ人もいるのよ。もちろん特別推薦だから合格すれば学費は免除しますし、寮もこちらで用意します。当面の大学生活はこちらでほとんど資金をサポートするわ」

 そこだけ聞くと特別推薦にしては破格の待遇だと思った。

「どうしてそこまでして俺に大学が肩入れするんですか?」

「学園長や多くの教授があなたに一目置いているからよ。それだけの才能があなたにあると言ってもいいわ。それを腐らせるのはあまりに勿体ないし、業界に大きく発展するかもしれないから、みんなあなたに期待しているのよ」

「期待に応えられないかもしれませんよ」

「大丈夫、あなたならできるわよ」

 そう言い終えた頃には、細かな試験説明と対策を教えられて、東京芸術大学が見えてきた。

 ホームページで見るのとは違って迫力もあったし、また想像以上に大きかった。

 まだここに通えるわけでも、合格が決まったわけでもないが学生生活を簡単に想像していた。

 駐車場に車を止めて、車を降りて岸さんに案内され、そのまま大きな一つの教室にたどり着いた。

 周りには石膏で出来たギリシアの男性と女性がの半身の像があったり、大きなキャンバスがひときわ目立っていた。

 机には書類が置かれていて、俺の名前が机に貼られていた。

「着いたばかりで悪いんだけど、さっそくそこの書類に名前と住所を書いてほしいの。テスト用紙もそこに入っているから、好きなときに始めてくれていいわ。お茶持ってくるわね」

 そういって岸さんは部屋を出た。

 俺はとりあえず、椅子に座って広い教室を見渡しながら落ち着いた頃合いを見て、書類に置かれているボールペンを取って書類を書き始めた。

 部屋のドアから岸さんが入って来て、お茶と印鑑の朱肉を持ってきた。

「印鑑は持ってきてないでしょうし、拇印でいいからそこに押しておいてね。全部書き終ったら、そこにある白いキャンバスにあの石膏人形を見て、そのまま描いてね」

「時間はどれくらいあるんですか?」

 岸さんは少し考えて、こう答えた。

「今はお昼だから、そうねー。夕方ごろにまた来るからそれまでに全部終えてくれるとありがたいわ」

 だいたい4,5時間と考えると十分時間はあった。

 岸さんは説明を続けた。

「キャンバスに置いてある画材は好きなだけ使っていいから納得がいくまで描いてね。その間に私はお土産を買ってくるわ」

「何から何までありがとうございます」

 そういって俺は1万円札を渡し、お茶を受け取った。

「教室は貸し切りだし、飲み物は教室を出た近くの自販機にあるから、ゆっくり試験を受けてきてね」

 その言葉を最後に岸さんは部屋を出た。

 俺は誰もいない教室で先に筆記試験と小論文から取り組み、集中力を高めることにした。

 今は何も考えず、とりあえず試験を受けて合否が決まった後で考えよう。

 そう思って、俺はお茶を飲んだあとでゆっくりと試験問題の用紙に置いてあるHBサイズの鉛筆で試験を受けた。


 ※


 2時間が経った頃には筆記試験と書類が終わり、確認をした後で、俺はキャンバスのある椅子に座った。

 岸さんに言われていた2体の石膏のデッサンを始めることにした。

 時間に余裕があればもう1枚オリジナルの絵を描いても良い、と試験用紙のプリントに描かれていたので残り2、3時間で描けるだけ描いてみようと思った。

 石膏人形は陰影もそれほど強くなく、置いてある画材で十分に描けるので無心になって作業に没頭した。

 外の風景は今頃夕方になっているのだろうか?

 窓のない白く広い清潔な絵の教室の中で、そんなことを思いながら課題の石膏人形2体の絵が終わった。

 時間は?

 そう思って、時計を見たがまだ1時間ほど残っていた。

 一応試験という事でスマートフォンの電源は切って、岸さんに車の中で渡していたのでこの時計が正確であればあと1時間はあるという事になる。

 プリントに風景のある街並みでもよい、と描かれていたので俺はそれを課題として2枚目の絵を描くことにした。

 写真も教室にあったので、俺はそれをベースにイメージして絵を描くことにした。

 それから1時間ほど経過して、教室のドアからノックが聞こえた。

 岸さんが戻って来て、プリントを回収しに来たようだ。

「試験中失礼するわね。課題のイラストも試験問題も終わっているようね。流石だわ」

「そんな十分時間があったですし、そのおかげですよ」

 そういいながら同人誌の事を少しだけ考えていた。

 絵が上手ければ漫画だって上手いはずだ、そう思いながらもやはり違っていることを俺はどこかで知っていた気がした。

 絵の技術はあくまで絵の技術だ。そこに漫画の技術はない。

 確かに優れた絵を描く技術があれば、コマのキャラクターや背景に表紙だって見栄えのいい作品が出来るかもしれない。

 だけどそれが面白い作品になるとは到底思えない。

 というより今までのコミケの経験がそれを証明している気がした。

 売れていない漫画に価値はないと誰かが言ったことを思い出した。

 商業主義っていうやつだろう、その同人作家はそんなことを言っていた。

 それからかもしれない俺が売り上げを気にし始めて、楽しみというかコミケの見方が少しだけ変化していったのは。

 そんなことを描いている内に何故か思い出していた。

「うん、これだけ良い絵が描けるのなら、審査員の先生方もきっとあなたの入学を快く受け入れてくれるはずだわ。描き途中の絵はまだ描くなら、先に終わったプリントと課題の絵を持っていくけど、いいかしら?」

 岸さんがそういうと、返事が少し遅れたが俺はそれに答えた。

「あ、どうぞ。もうすこしだけ時間を下さい。今描いている絵もあと1時間あればある程度は仕上がりますので…」

「いいわ。先に先生方に見せに行くわね。1時間したら審査した先生の1人がここにくるからそれまで自由に描いていていいわ」

 そう言って岸さんは絵と書類を持って、教室を出ていった。

 残った俺は引き続き絵を描きながら、考えていた。

 昔のコミケでどこかの同人作家が言ってたいたことを思いだしながら、売り上げの事を考えていた。

 その同人作家はこう言っていた。

 コミケには何千部も売る作家がいて、その中にプロになれない作家もいる。

 俺こと青井弘樹は別にプロになる気もなかったが、その同人作家はそれなりに売れていた。

 まったく売れない作品や見てもらえない作品なんて、この世に無いものと同じだ、と。

 普通なら隣に売れている人がいれば、自分の作品に何が足りないかとか危機感を抱くはずだ。

 売れることは才能であり、何の魅力のない才能も無い作品は、これから努力をしても無駄だとその同人作家は言っていた。

 大平先輩が気にするなとはいったが、やはり腹が立つ出来事だった。

 売れている人は努力していると思うか?売れていない人は努力していないと思うか?

 才能がなければ努力なんてものは何の価値もない、時間の無駄だとその同人作家は言っていた。

 佐野先輩はその同人作家のセリフに言葉こそ出してはいないが、内心腹が立っていた。

 それから数日後に、佐野先輩があの同人作家のセリフの後でこう言っていた。

「誰にもわからない、誰にだって才能が眠っていることも開花される時期も誰にもわからない。努力だってその可能性を見いだせる1つなんだから」

 そう言っていた。

 佐野先輩はその後も俺や大平先輩に対してこう言った

「売り上げが全てなんかじゃない。少なくてもその人に感動を共有できたら、それはこの世に存在できる大きな光なんだ。人の心を動かす大きな価値ある作品だ」

 そういっていたことを俺は思い出していた。

「あんな意地の悪い同人作家の言う事なんて真に受けないほうがいい。わしらはこれからだし、たとえ1人でも感動すればそれは素晴らしい事だと思うぞ。売り上げでプロになるだけが漫画の道だったら、それは少し悲しいとわしは思う。それが原因で同人誌をやめて何もしなくなることの方がすっと価値のない人生だとわしは思うよ」

 大平先輩のあの時の言葉が忘れられなかった。

 大平先輩はその同人作家をこうも言った。

「あの人は売上とかそういうのを見てしまって、そればかり考える悲しい人になったんだよ。同人の世界は少なからずそういう人も出てしまうが悪気があって言ったわけじゃ無い

さ」

 その言葉がどこか寛容だったのを思い出していた。

 なぜ試験中に、いや試験が終わった後でこんな事を思い出したのだろうか?

 あの時は大平先輩の言うとおりだと思う自分がいたが、心のどこかではその同人作家の言ったこと、売れなければ価値はないと言うことが正しいのかもしれないと思う自分が確かにいた。

 だから1冊しか売れなかった時に、そうあの日のコミケで俺は内心苦しかったのかもしれない。

 なら今描いているこの絵はどうなんだろう?

 これは一部の審査のために描いている絵だ。

 商業としての経験を培う絵に過ぎない。

 仮に俺が絵の世界でプロとしてやっていくとして、そこに自分の望んだ感動の共有とか喜びがはたして見つかるのだろうか?

 俺の絵で本当に心が動かされる人がいるのなら、彰美の言う通り漫画を辞めて絵に専念していく方が俺にとって良い人生になるのだろうか?

 果たしてそれが本当に正しいのだろうか?

 なんだか間違っているような気がした。充実感というか完成した後の喜びが、コミケで本を作って多くの人に見てもらって売るのとか違う、感動が薄くなるような気さえもした。

 芸術は高尚だ、崇高だと世間は言っているが、いったい絵の何が高尚で、絵の何が崇高なのだろうか?

 漫画だって絵と同じような線の集合体なのに、高尚だ、崇高だと言われたことは無い。

 でも、漫画には楽しみで買いに来る読者の人の感想や喜びがあった。

 今描いている絵にはあるのだろうか?

 確かに審査員の人が見て褒めるだろう。そして将来絵を描いて美術館に展示されたり、画商として絵を資本家の人や事業家の人たち相手に売ることもあるだろう。

 その中で絵を見ていて楽しいと言う感想は来るのだろうか?

 いまいち想像がつかなかった。イメージも湧きにくいが、漫画ならそれが容易に浮かんだ。

 たとえ漫画の才能が3流だとしても、3流と知りつつも続けていくか?

 それとも漫画と比べると少し熱の覚める絵の世界だが、1流の資質があると言われて、その世界でやっていくべきか?

 俺ならどうする?

 そんなことを思っていたなかで、俺はため息をついた。

「俺も思った以上に不器用かもしれない」

 ふいにそんな言葉がでた。

 言葉では理解できないものが漫画にあったのかもしれない。

 そんな選択の中で何も解決はしていないままだが、課題の絵は完成した。

 時間はちょうど4時を指していた。

 ドアが開き、審査していた女性の先生が岸さんと一緒に入ってくる。

 俺の答えは決まっていた。

 そうして絵の審査と結果が発表されたのだった。

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