第3話
あれから美琴の宿題が終わり、家で遊び疲れて寝ている美琴をおぶって俺は外に出た。
時間はもう夜中の十時だ。
俺は眠っている美琴を片手で支えて、しゃがみ込み、一階の本屋の裏口のドアのカギを開けた。
中に入り、本の新書が俺の足の踝ほどに積まれたダンボールの山をぶつからない様に歩いて、二階行きの階段を上る。
美琴のいる部屋まで入り、ベッドに寝かしつける。
「お兄ちゃん」
寝息を立てて、俺の事をぼやいている美琴をベッドの中に入れ、宿題の入った鞄を取りにもう一度家に戻った。
鞄を取りに外に出た頃には雪が降っていた。
今年は冬がかなり降り積もるとネットの天気予報に書いてあったので、急いで部屋に戻り、今度は鍵を閉めて鞄を持って、一階の裏口のドアまで行った。
もう一度裏口のドアのかぎを開けた時に、女性店員と鉢合わせた。
「あ、弘樹君。どうしたのこんなに夜遅くに」
女性の店員が話しかけてきた。
「あっ、どうも日野さん。美琴の奴が家に来て、宿題手伝ってほしいとかで部屋に入れてきたんですよ。これ宿題の鞄です」
俺はとりあえず事情を説明した。
この人の前で黙るとなんか緊張するので、俺はすぐに話すようにしている。
年上の女性という事で意識してしまうのもあるのかもしれない。
彼女はウチの本屋で働いていて、居候している日野茉理(ひのまつり)さんだ。
俺が一人暮らしをすることになった原因でもある。
日野さんは現在俺の部屋を借りて、本屋で半日ちかく働きながら大学に通っている20代のショートカットの黒髪の女性だ。落ち着いた雰囲気があり、大人の香水の匂いがたまにする。真面目で優しい人である。
「そうなんだ。それなら私がその鞄持っていくよ、外は寒いんだし、お茶でも入れてこようか?ちょうど店が閉まったところだし、待っててね」
日野さんはそう言いながら二階に上がろうとする。
長引きそうな気がして、ちょっと困ったので断ろうかと思った。
「いえ、大丈夫です。俺すぐ帰りますし、宿題もあるんでそれじゃ」
宿題はほとんど終わっているが、嘘をついてこの場を去ろうとした。
「そうなの?残念だな。それじゃあ、私はもう上がるから、あ、そうだ。ちょっと待っててね」
日野さんはそういって二階に上がった。
日野さんは北海道から来た人で、埼玉の大学に行くために宿を探していたのだが、うちの母親の親戚の友達という事で、昔世話になったとかいう理由で居候することになった。
代わりに俺が上の階のマンションで生活することになったのだが、自立の機会だとかそんな理由で俺は一人暮らしになったのだ。
そのせいもあって、彼女は俺に遠慮というか、申し訳なさもあるのか最初の頃は腰が凄く低くて、俺自身もそれで参っていた。
今もそれを意識しているのかはわからないが、昔の頃より良く話すようになり、おそらく今の環境に慣れたんだと、おれは勝手に思っている。
俺は彼女が悪いとか不快だと言う感情はないが、こういった事情でどうにも話しにくい。
彼女も同じ事を思っているんだろうか?
「ごめんね。遅くなって」
日野さんが戻ってきた、手には何か持っている。
「これ、この前趣味で焼いたクッキーなんだけど、作りすぎちゃって迷惑でなければどうぞ」
予想外の出し物に俺は少し驚いた。
「あ、す、すいません。それじゃあ。ありがたく頂戴します。それじゃあ、俺もう帰りますので失礼しました」
俺は緊張してしまい、さっさと帰って行った。
後ろから「おやすみなさい」という声が聞こえたが、返事を返すわけでもなく急いで帰ってしまった。
なんともいえない気持ちだった。
これはきっと恋人とかそういうものではなく、姉と弟に近い感情の物だと納得して、ドアを開けて自分の部屋に入った。
クッキーを食べると甘い味がした。夜中に食べるのも美琴に牛になるぞと言われそうだが、食べてしまったものはしょうがない。
捨てるわけもいかないので残さずに食べて、漫画の作業に集中するためパソコンを起動して、描き途中のどこに出すか決まっていない作品の原稿を進めた。
日野さんの事もあって、なかなか落ち着けずに眠れなかったので今日は遅くまで作業することにした。
この時ばかりは、何とも言えない気持ちだった。
※
朝になり、俺は早朝に実家の本屋の裏口に入り、店が開く前に好きな恋愛漫画のシリーズを買うことにした。
いつものようにレジの前に商品名を書いたメモ紙を置き、お金をレジで精算して袋に入れて部屋に戻った。
あれから寝たのは深夜の1時だ。また昼寝になりそうな気がした。
前に終わらせた冬休みの宿題を一通り見て、鞄にしまった。
学校が始まるまでまだ日にちがあるので、窓を開けて換気をして空気を入れ替えたらひと眠りしようと思った。
また美琴が来るかもしれないが、昨日の様子なら多分来ないだろう。
頻繁に来るわけではないので、そういう可能性も踏まえて窓を閉めた。
気分転換に買ってきた漫画を読み始めて、しばらくするとインターホンが鳴った。
ドアのレンズ越しから見ると幼馴染みの美島彰美(みしまあけみ)だった。
同じクラスで小中高と同じ学校の腐れ縁の幼馴染みだ。
俺はドアを開けて、彼女になんとなく来た理由を察した上で話した。
「近くに来たからって部屋まで上がることはないだろ」
彰美はムッとしつつもこう言った。
「来ちゃいけないってルールも無いでしょ?あんた宿題どうせ終わってないと思って見せに来てあげたのよ。私の心からの行為に感謝しときなさい。それじゃあ、お邪魔するわよ。お菓子も買ってきたから一緒に食べましょ」
相変わらず勝手なやつだったが、このまま嫌だ帰れとも言えず、しばらくしたら家に返そうと思った。
そして俺は先ほどの言い分に訂正も入れつつ、彰美を部屋に上げた。
「そりゃわざわざどうも。残念だが、宿題は見せなくていい。実はすでに終わってる。まぁ、せっかく来たんだ少し話すか」
またお菓子か、と思いつつもコタツに入った彰美に冷蔵庫から麦茶を出した。
「意外ね、あんたが宿題終わらせるなんて、今までで結構少ないレアな出来事だと思うわよ。ドーナツだけど、どっち食べる?」
そういって4つので2種類のドーナツが入った箱を見せる。
今日は同じドーナツ2つで1つ分になるセールの日だったのだろうか?
俺は意地悪気味にこう答えた。
「そうか、それじゃあ、お前の好きなストロベリーカスタードフレンチでいいよ」
「そうわかったわ。こっちのフレンチク゚ルーラーね」
「はいはい、ご希望通りの注文でどうもありがとうございましたー」
「わかればよろしい」
そんないつものやり取りをしながらドーナツと麦茶のセットを2人で食べながら話した。
「そういえば、あんたって推薦で地元の大学合格したでしょ?あたしもあそこ受けるんだけど、一般で受ける大学とか他にあるの?
彰美が突然そんなことをテレビを見ながら言ってきたので、俺は少し戸惑った。
が、隠してもすぐにばれるし、隠してもしょうがない事なので、正直に言うことにした。
「いや、特に受ける予定はないかな。しかしお前も大変だな。推薦で合格した静岡の大学があるのに俺と同じ大学を受けるんなんてさ」
「選択肢は多い方が良いし、それに…」
彰美は少し、間をおいて話を続けた。
「同じ大学の方が色々と…」
何だが聞き取りづらい小さい声でボソッと言ったので、俺は聞きなおすことにした。
「悪い良く聞こえなかった。もう一度言ってくれないか?」
俺はドーナツを食べながら、彰美の返事を待つことにした。
彰美は俯いて続きを言おうとはしなかった。
俺はそれに気が付き、言葉を付け足した。
「あっ、悪い悪い。ドーナツ食べたかったんだもんな。話してばかりで食える暇なかったもんな。お前って結構食べるしな」
「そんなんじゃないわよ!もう知らないっ!」
「な、何突然怒ってんだよ?俺なんか特に気に障ること言ったか?」
「言ってないけど、言ってるのよ」
「なんだそりゃ?もしかしてお前受験勉強のしすぎでちょっと参ってるんじゃないか?た
まには休めよ」
「知らないならそれでいいよ。いつか言うから…」
色々と悩みがあるようだが、触れないことにした。
「あっそ。ドーナツごちそーさん」
「あっ、うん。ごめん何か私が勝手に」
「いいよ、気にしてねぇから。それより入試に向けて頑張れよ」
「何かむかつく」
「さいですか」
「もう帰るわ、勉強しなきゃいけないし」
「そうか、疲れたらまた来いよ。話し相手にはなるからさ」
「ありがとう、それじゃあ。あっ、それ捨てるのもアレだし、食べて良いから」
彰美はそう言って、玄関に向かって歩いて行った。
そのまま食べかけのドーナツを1つだけ残して、ドアを閉めた。
とりあえず、この食べかけ半分に切って美琴にあげるか。サランラップまだあったっけか?
そんなことを考えながら、包丁で食べかけの部分を切り落とし、切った部分をごみ箱に捨てて、残りを皿に乗せてラップで包んだ。
包んだ彰美のドーナツを冷蔵庫に入れて、コタツの机の周りを片付けた後で俺はパソコンのスリープモードを解除して原稿の作業を行った。
作業をしながら俺は先ほどの彰美の事を考えていた。
今思えば幼馴染みの彰美は時々小声になって、顔を赤らめることがあるがあれはどういうことなのだろうかと。
小学生の頃は仲良く一緒に帰ることが多かった。その時は表情も明るかったが、大人に近づくにつれ、彰美は顔を赤らめることが時々あった。
何かの変化のようにも見えたが、いったい何の変化だろう?
こういう問題も考えているだけでは、どうせ解決もしないのだろうと俺は思うことにした。実際にその通りかもしれないと言う確信のようなものが、心のどこかにあったからだ
ろう。
意外と本人はこういう変化に気が付いていなかったりもする訳だし、変わったところであいつはあいつだろう。
付き合いもこれまで通り変わらないと思う。
だが、来年は静岡に行くのかもしれない彰美を見て、何かしらの焦りのようなものも出ている気もする。
知らない土地に行くわけだが、それはどんな気持ちなのだろう?
やはり心細い上に、今いる地元の知り合いに相談もしたくなるほどの弱音も後々になって出てくるのかもしれない。
俺たちは大学という進路に決まり、これからどうなるか解らない人生に嫌でも進まなくてはならない。
彰美もどこかで不安があって、俺の所に来たのだろう。
今度来るときは少し優しく対応した方がいいのかな?
俺はそんなことを思いながら、作業をしていた。
どのみち彰美は2月末に一般入試の結果が出るわけだし、彼女の納得のいく大学に行けばいい話だ。
仮に静岡の大学に行くことになっても、夏休みや冬休みに地元に戻ってくるかもしれないし、一生離れ離れになるわけでもない。
地元に残りたいと言う気持ちも強いだろうが、自分の進路を考えたら遠くに行かざるを得ない時だってあるはずだ。
彼女にとってそれが今なのかもしれない。
どのみち大学生になる俺達は今後も期間限定になってしまうが、少なからずあっているような気がする。
案外静岡が気に入って、ここに戻らないかもしれないが、それはそれであいつにとっては幸せな気がする。
俺としては昔からいた幼馴染みが幸せな人生を送ってくれる方が、嬉しい気がする。
逆にあいつが俺に幸せな人生を送れと言われたら、難しいし、自信があまりない。
どこかでそれは矛盾しているような気もした。
うまく説明は出来ないが、こういった事はきっと世間では大きなお世話というカテゴリーにはいるんだろうか?
なんだか考えるだけできりがなくなってきたし、堂々巡りな気もしてきた。
どのみち考えてもやはりしょうがない事なのだ。
時計を見るともう夜の7時になっていた。
今日は考え事ばかりで作業があまり進まなかった。
別段この作業している作品に締め切りがあるわけでもないが、やはり進まないのはあまり良い事でもない。
作り手にとっては多くの作品を作ることが、いずれ大作を作る時に必要な大きな経験値になるものだと俺こと青井弘樹は思っている。
経験を踏まえれば、どうすれば面白くなるか解る気がすると思っているからだ。
「それだけで大作というより、ヒット作が出来れば苦労しないか」
そんなことを愚痴って、俺は少し休憩することにした。
スケジュールを見て、明日は用事が1つあることを今更思い出した。
そういえば明日は学校の登校日だ。
冬休みに登校日があるのはうちの学校位なものだろう。普通はない。
俺の通っている学校は私立の高校で他とは違うこういった「冬休みなのに登校日」なんてイベントもある。
冬休みが始まる前に先生が模試の案内などをその日に説明する短いガイダンスだ、と言っていたのをプリントを見て思い出した。
ちなみに冬休みの宿題もこの時に事前提出も出来るので、俺はこの日にまとめて提出してやろうと思った。
俺は原稿に集中したかったのでコーヒーを飲んで、パソコンのサイトから作業用の音楽が流れる動画を開いた。
ヘッドフォンを端子に付けて、動画を再生して原稿の執筆作業に集中した。
今日は夜の11時まで作業をして、明日のために12時くらいには寝てしまおうと思った。
そういえば昼に寝ていて、美琴に起こされるまでの間に見たあの悪夢が、まだ自分の中で忘れられずにいる。よほど引きずっていたのだろう。
原稿を描きながら高校に入学したころの事を振り返った。
もうすぐ卒業という気持ちもあってか昔の出来事を思い返すことも多くなってきているのだろうか?
俺は佐野先輩達と出会った頃を思い出していた。
※
先輩たちに最初に出会ったのは、ちょうど高校1年生の6月頃の事だった。
放課後の夕方に1人で美術の教室で絵を描いていた時に出会った。
中学時代に嫌な出来事があったとはいえ、俺は絵を描かずにはいられなかった。
今思えばあのふてぶてしさというか、開き直りというか、精神の鈍感さや図太さが自分の絵への原動力になっていたのかもしれない。
どんな理由にせよ、描いている間は嫌なことはだいたい忘れることが出来た。
紛らわしている、もしくは逃避とも取れるが描くことに嫌悪感はなかった。
放課後に美術部員でもないが、美術係という授業が終わった後の報告や片付け係にクラスで任命されていた俺は、片付けなどの雑務の代わりに放課後に美術教室を毎回先生に頼んで借りていた。
この頃はデジタルで絵を描くことが無く、画材も美術室で使えたので気軽に絵が描ける
と言う理由と1人で静かに落ち着いて描ける場所が欲しかったと言う願望があった。
我儘ではあるが、こうでもしなければ落ち着けない自分がそこに確かにあった。
コンクールには出さずに完成した絵は持ち帰る予定だったが、先生の要望もあって美術室で保管されることになった。コンクールに出さないと約束はしてくれたが、一部の美術関係の先生方には作品を見せるかもしれないと言っていた。
中学の頃とあんまり変わってない様にも思えたが、その時は仕方がないと諦める自分もあった。
心のどこかでそういったことは起こりうるものだと冷めていた部分があったのかもしれない。
美術室で絵を描き始めてから、ちょうど2か月が経った頃に、絵はそろそろ10枚目に入るころだった。
いつものようにキャンバスで絵を描いている時に、誰かがドアを開ける音が聞こえて、描き途中の絵に布をかぶせようとした時に、ドア越しから声が聞こえた。
「誰かいるのかい?」
野太い男の声が聞こえ、俺は答える。
「ええ、すぐに帰りますので」
男の返事が聞こえる。
「すまないが教室に入ってもいいかな?忘れ物があってね」
「どうぞ」
ドアが開いた時に身長168cmほどの筋肉質な体型の体育会系にいそうな男がのっそりと窓際の机に近づき、そこからノートを取り出した。
「絵を描いている時にすまないね、わしはここでノートを忘れたもので」
「いえ気にしないでください」
「1つ聞いてもいいかな?」
「なんでしょうか?」
「うちに美術部は無かったはずなんだが、同好会で絵を描いているのかな?」
どうやらこちらが絵を描いていることが気になったらしい。
黙っているのも何なので、俺は話すことにした。
「先生に頼んで一人で絵を描いていただけです。噂になると困りますので、できればこの事は口外にしないでくれませんか?」
「別に構わないよ。ところで君、漫画とか描ける?」
「は?」
その男の言葉があまりに唐突だったので、思わず状況が呑み込めずに言葉が上手く言えなかった。
「突然すまないね。もし君が漫画を描けるならちょっと手伝ってほしいんだが」
「いきなりそんなこと言われても困ります」
「そうか、そうだな。すまない5ページだけ漫画を描いてくれる人を探していてね」
何か訳がありそうだった。興味本位で聞くだけ聞いてみようと、俺は好奇心でその話を詳しく聞くことにした。
「よければ事情を話をしてくれませんか?手伝うかどうかは聞いてみて考えますので」
「おお、そうか。いや、なんか先輩が後輩にむりやり頼んでいるみたいですまないな。えーと、名前は?」
「青井弘樹です。1年A組です」
「わしは大平、大平源次郎だ。学年は3年C組だ。で、事情というのはなさっきも言ったように5pの漫画を描いてくれる人を探していたんだ」
「漫画、ですか」
「そうあの漫画だ」
「描いたことないんで手伝えるかはわかりませんが、それはいつまでに描けばいいんでしょうか?」
「そうだなー。今からだとあと1週間くらいかな。実は本来描く予定だった人が体を壊したらしく、原稿が間に合わないんだそうだ」
「なるほど、そういった理由からですか。私でよければ手伝いますよ」
この時は他の絵が描けるなら、気分転換としてたまにはいいか程度に考えていた。
我ながらそれはいい加減というか、図太いというか自分のこういう部分が未だに解っていない気もする。
「おお、そうか。なら資料はあるのでこの漫画のキャラとネームで描いてくれ。気に入ら
ないなら、このキャラで漫画っぽいのを描いてくれても構わない。セリフとか吹き出しはこっちで適当に考えておくから、君はキャラとか描いてくれるだけでいい。背景とかもこの際いらないので適当に描いてくれ。たぶんクリスタも持っていないだろうが、アナログで描いてくれて構わない。こっちで塗りとかはサポートする。ホームページにもページ数までうっかり指定してしまってな。変更も何かと面倒そうで困っていたのだよ。それじゃあ、頼むよ。解らないことは何でも聞いてくれたまえ」
なんだか、すごくいい加減な依頼が大平先輩から来たような気がした。
「アッハイ。あのいくつか質問があるのですが」
「何だね、青井君。原稿用紙なら今用意する」
そう言って大平先輩は俺の座っている机の前に鞄から5枚の原稿用紙を取り出して、置いた。
そして可愛らしい小さな女の子が描かれた縦長の資料のような本が同じように置かれた。
「大平先輩これは?」
「君の描く原稿のキャラクターが描かれた3面図のアニメ仕様書だ。わしはこのアニメが好きなのでわざわざ2冊も買ってきている。1つは転売用だが、ともかくこれがあれば指定したキャラクターが描けるだろう」
「それは確かにそうですね、いきなり白い紙を渡されても、何を描けばいいのかわからなかったんで」
「それとこれがネームだ。この通りの配置と吹き出しを描いてくれれば問題ない」
そう言うと大平先輩は名前の入った棒人間たちが描かれた5枚の用紙を渡してきた。
見るとそのキャラの名前と表情にセリフなど細かなところまで描かれた漫画のネームと
呼ばれるものだった。
「あ、この通りに描けばいいんですね」
「ああ、出来るかね?出来ないとわしらは困る」
「わかりました、3日後にまた美術室に来てください」
「シャーペンでも良いから仕上げてくれ、取り込んで塗りでサポートするから描くことだけ集中してくれ、頼んだぞ青井君よ」
そういって大平先輩は教室から出て行った。
今思えばこれが初めての漫画原稿だった。
ほとんどが大平先輩の指示通りでそこに自分の作品は無かったけれど、原稿として形にはなった初めての漫画原稿だった。
そして約束の3日後に美術室に残りながら、5ページの原稿は完成した。
原稿を取りに来た大平先輩は喜んでいたし、褒めてもくれた。
「おお、線に無駄が無い。これならスキャナーでそのまま取り込んでごみ取りだけすれば塗りに間に合う!ありがとう青井君」
「いいえ気にしないでください。気分転換でたまには他の絵も描きたかったので」
「よければ今度は自分一人で漫画を描いてみないかい?」
その勧誘は唐突に来た。
俺はどうするべきか迷っていたが、大平先輩は熱心に色々と話してくれた。
こっちの意見は後から聞くように長々と話すので、俺は相槌を打ちながら聞くしかなかった。
だが、話の所々に何か俺の心に面白そうだ、と言う気持ちがどこかで芽生え始めていた
のも事実だった。
大平先輩の勧誘の話は始まった。
「漫画の世界も絵の世界と違って面白いぞ。芸術も結構だが、漫画は多くの人が読んでいる娯楽だ。既存の作品も描ける同人の世界は、絵画の世界よりも自由な表現ができるし、手軽に創作も出来るし、賞などでは得られない感動があるぞ。大げさかもしれんが、わしはそう思っている」
その言葉に俺は反応した、一つの言葉が気になったのだ。
それが本当かどうか、気になった。
「賞などでは得られない感動を味わえるんですか?」
「ああ、もちろんだ。言葉で説明するよりも、行ってみればわかる!」
「行ってみれば?」
「そう、行ってみなければわからんままだぞ!やるのか?やらないのかだ?」
なんだかハムレットのような口調だったのが気になったが、このまま閉じこもっているのも精神衛生上良くないかもしれないと思うところもあったので、俺はその同人の世界を覗いてみることにした。
「それでは1か月後にイベントが開かれるので来てくれ。このチケットがなければサークル参加は出来ないから無くさないようにな」
そういって、一枚のチケットを渡され、俺は1か月後にそのイベントに参加することになる。
そこには色んな人と世界があった。
そしていろんな人とも知り合いにもなったし、共通の二次創作の話題でつながる楽しさがそこにはあった。
俺はそこで色んな刺激を得て、同人の世界で創作を楽しもうと思った。
身近なところに客がいて、自分の携わった本を買ってくれて喜んでくれる。
この関係が俺はとても好きになれそうだった。
わかりやすい創作のギブ・アンド・テイクがそこに確立されていた。
言い換えれば感動の共有だった。
ものを作るってことはこういう事なのだと肌で感じられたイベントだった。
また今までは絵のコンクールは上の人たち、すなわち絵のベテランやお偉いさんが自分の描いた絵を評価する縦のつながりだったが、同人の世界は自分と同じような人が多く、こういった横のつながりが今までの人生の中で面白みがあって新鮮で不思議な感覚だった。
大平先輩はこういった縦のつながりでなく、横のつながりが同人即売会の醍醐味だと述べた。
俺はそのとき大平先輩に感謝し、自分もまたサークルに入り、本を作りたいと願い出た。
「そうか、来年はわしは大学に入るが、創作は続けられるので嬉しい限りだ」
その時は大平先輩も、俺をサークルのメンバーとして快く受け入れてくれた。
その後の次のイベントの時に、佐野先輩もサークルのメンバーに加わることになった。
「俺もメカが描きたいし、萌える女の子も描きたいのでぜひ参加したい」
そう言って佐野先輩も7月に加わり、二次創作を中心に本を出すことが多くなった。
最初は俺も原作を読んでいなかったので、資料を貰ってからは先輩のお薦めなどで色々と漫画やアニメに詳しくなっていった。
ただゲームは時間を取られて、どうにも苦手なのもあり、ゲームを原作にした二次創作作品は描く機会がなかった。
こういった経緯で俺も世間で言うオタクというカテゴリに位置づけられるかと思ったが、それにも増して今までの絵を描く楽しみが沸き上がった。
たまに美術室を借りて、キャンバスに絵を描くことも続けている。
いろいろな絵を描くことになったからか、絵の視野というか創作のインスピレーションが湧くこともあり、大いに役立った。
それよりなにより自分の趣味が少しだけ明るいものに変ったような気がして、嬉しかった。
それからの俺の高校3年間は美術の教室で絵を描く日こそ減ったが、代わりに同人誌の制作で充実した日々を送ることになった。
いつかコミケを通して、その先に一体何があるのか見てみたい。
多くの人が集まって、たくさんのドラマや感動があるこの同人即売会の先に何があるのかはわからないけど、それを見ることができればきっと手にすることだってできるはずだ。
それを手にしたら今までの俺とは違う何かがきっと変わる気がする。
それがこれから先一番大事なものになるって信じている。
それを手にして、これから先も続けていこうと俺はいつしかそんなことすら思っていた。
それがあんな終わり方を迎えるとは思わなかった。
そして本の売り上げを考え始めるようになったのは、つい最近の事だった。
売り上げを考えた結果、俺は自身で作り上げた初めてのオリジナル本という事もあり、テンションが上がって、ああいった失敗を出してしまった。
こういった二つのショッキングな出来事があり、それまでと違って俺は落ち込んでしまった。
だが、どんな結果であれ俺は同人誌と知り合うことで大きく成長できたことは紛れもない真実だと思っている。
今回の事は残念だが、こうやって漫画と会えたことで楽しむことが出来たのは何よりも大きかったし、これからも続けていきたいと思う。
具体的な目標は無いが、絵と向き合っていくことが大事だと俺は思うし、好きなことを続けることに意味があると思っている。
俺は改めて昔を振り返って、素晴らしい体験をしてきたと実感できた。
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