第5話
アパートのドアの前には克也さんが立っていた。
すっと待っていてくれたのだろうか?
俺を見るとドアから俺の方に駆け寄った。
「心配したよ、話は家でするからね。梨佳ちゃんも今日は大変だったでしょ?ゆっくり休んでね」
克也さんがそういうと梨佳は一礼して、そのまま階段を上がり202号室の部屋に入った。
スマホを見るともう夜の9時だった。
梨佳も疲れが溜まったのだろうか、何も言わずに帰っていった。
「さあ、部屋に戻ろう、ね?」
克也さんにそう言われ、俺は無言のまま部屋に入った。
部屋は片付いていて、もう布団が敷かれていた。
克也さんは俺を見ると怒るわけでも笑うわけでもない真剣な表情のままこう言った。
「私はね。君のお父さんと違ってぶったりはしないよ。けれど、こういう問題は起こさないでほしんだ。預けている身だしね」
克也さんの言うことはもっともだった。
「ご迷惑かけてすいませんでした」
「もういいから、今日はお風呂に入って寝なさい。パソコンは部屋に置いたし、布団も敷いているからね」
克也さんはそういうと自分の部屋に入って障子を閉めた。
俺は自分の部屋から寝巻のジャージを持って風呂場の近くに置くと、服を脱いで風呂場に入った。
克也さんは障子を閉めて、電気を消して寝息を立てていた。
よほど疲れていたのだろう、申し訳ない事をしたと今更思った。
シャワーを浴びて、風呂に入ると体の疲れがいっきに取れた。
家で風呂に入る時は親父が帰るから、すぐに上がっていたっけ?
そう思うとゆっくり浸かれることにありがたみを感じた。
普通の家では当たり前のことなのに、それがとても気分が良くなった。
明日は始業式か、早く終わるのだろうな。
今日はもう遅いし、明日家に帰ったらパソコンの設定をしよう。
そんなことを風呂場で考えていた。
梨佳との軽音部を作って、そこに入部する約束もあるが、長続きするのだろうか?
風呂から上がりタオルで体を拭きながらそんなことを考えたが、明日に考えることにした。
克也さんの寝ている部屋の隣の俺の部屋に戻った。
障子を開けて布団に入る。
どうでも良い事だが、大家の部屋だけ他のアパートの部屋より広い。
玄関の前に食事もできるくらいの広さの部屋にキッチンとテーブルに冷蔵庫と電子レンジに食器棚が置かれている。
そこから奥は二つの部屋が並んでいて、障子がドア代わりの畳6畳ほどの克也さんの部屋と同じく障子がドア代わりの畳4畳の俺の部屋がある。
家賃は4万7千円で敷金礼金無し、トイレ風呂付きで洗濯機はドアの前にある。窓は玄関のドアの前のキッチンだけで奥にベランダはない。
物件の事は俺にはよくわからないが、きっと優良物件と言う奴なのだろう。
薄い壁の畳に敷かれた布団の中で、俺は電気を消して天井を見つめていた。
新幹線で来た時に途中で買ったカルピスの残りを身を起こして飲んで、もう一度布団に入るもなかなか眠れない。
ここがまだ自分の家だと言う安心感もないのだろうか?
旅行も今までしたことも無いので、自分の部屋以外で寝る感覚が新鮮で眠れなかった。
今日からここが俺の部屋になる。
でもまだ馴染めないし初日だ。
眠れない夜を俺は過ごした。
※
あれからあまり眠れずスマホのサイト巡りをしていたら朝の6時になっていた。
隣の壁からは克也さんの寝息がかすかにだが聞こえる。
今までの俺なら親父が起きる前に外に出て、学校や洗濯物のためにコインロッカーに行っていた。
でもここでは違う、乱暴を奮う親父や若い男と裸になる母親もいない。
戸惑いみたいなものがあった。
俺は中学時代に埼玉で合格発表後に制服屋に事前に買った高校の学生服に着替えた。
財布と鞄に書類や筆記用具を入れて、メモ紙に克也さん宛てのメッセージを書いた。
おはようございます。先に学校に行きます、朝食は1人で済ませますっと書いたメモ紙を玄関とキッチンのあるちゃぶ台机の上に置いてドアを開けた。
これから朝起きたら同じ食卓の部屋で食べることにどこか抵抗があるのかもしれない自分がそこに居た。
ドアの鍵を閉めて、スマホを見たらまだ6時20分だった。
始業式が始まるのは8時頃だ。
少し歩いて振り向くと、俺はアパートの全体を眺めていた。
これからここでの生活が始まるんだと思い、商店街に向かって歩いた。
シャッターがほとんど閉まっている店の中にコンビニがあることを思い出し、そこでおにぎりとサンドイッチにカルピスを買ってアパートの前の公園に戻った。
公園には緑が多く、天井のある机とイスの休憩所に飯を置いて、食べた。
ランニングが出来そうな広さで休憩所とイスと銅像以外は、赤レンガの道と真ん中に大きな緑の芝がある以外は何もなかった。
朝日と鳥の鳴き声が聞こえる中で、ゆっくりと食事をした。
ランニングをしているジャージの女の子が公園の周りを走っていた。
俺を見るとその女の子は足を止めた。
まだ朝の6時50分だ。
学校に行く時間でもないのにいる学生服の俺を不思議に思ったのだろう。
女の子は俺をみると挨拶した。
「おはようございます、もしかして川上高校の人ですか?」
峰屋さんと同じボーイッシュな髪の可愛らしい女の子だった。
体に無駄な脂肪が無く、背は俺と同じくらいだった。
何も言わないのも礼儀としてアレな気もしたので、話すことにした。
「はい、今年1年として入学することになりました」
女の子はそれを聞くと興味が湧いたのか対面している椅子に座った。
話が長くなりそうな気がした。
女の子が背中にしょっていたバッグから水を取り出して、俺に話しかける。
「そうなんだ、じゃあ僕と同じ新入生だね。よろしくね。なんで朝早くから公園に?」
女の子なのに1人称が僕というのはどうかと思ったが、同じ新入生という事で話をしざるを得ない気もした。
どうせ笑われるだろうと思って、俺は話をした。
「昨日引っ越したばかりで、眠れなくてね。仕方ないから学校方面のバスが来る7時半までここで時間をつぶそうと思っていたんだ」
その受け答えに彼女は笑わずに話を続けた。
「そうなんだ。僕はここの近くに小学校から住んでいるんだ。いつも日課のランニングをしていてね。まさか同じ学校に入学する人に入学式が始まる前から会えるなんて思わなかったよ。ちょっと待ってて、家に戻って着替えてくるよどうせなら一緒に行こうよ。いいでしょ?」
断っても後味が悪そうだし、その後に会っても凄く気まずいだろうと思い、俺は承諾しざるを得なかった。
彼女は喜んで荷物をしょって公園から出て行った。
食べ終わった食事を袋に入れて、近くのごみ箱に捨てて、休憩所に戻った。
いつもランニングをしているという事は陸上部などに入っているスポーツが好きな子なのだろうか?
スポーツとは無縁の俺からすれば異端だが、一応女の子だし話題を考えることにした。
10分ほどすると彼女は戻ってきた。
本当に近くだったのだろうか?
だが、俺は見識を誤っていた。
彼女は俺と同じ学ランを着ている。
どうやら男だったようだ。
声も姿も女性かと思っていたが、気がつかない俺が間抜けに見えた。
「お待たせ、そういえば名前言ってなかったね。僕は佐倉さくら、佐倉智哉(さくらともや)だよ。君は?」
見事に男の名前だった。どこをどう間違えたらこんな可愛らしい女の子の姿と声になるんだか解らないものだ。
「どうしたの?」
佐倉が不思議そうに俺を見る。
俺はとりあえず一息ついて、男として見たうえで話をした。
「ああ、悪い。俺は松本司。よろしくな、佐倉くん」
「智哉でいいよ。サッカーやってた奴らはみんなそう呼ぶしさ。あっ僕の家は公園から見えるでしょ?あそこの赤い屋根の一軒家だよ」
そういって智也が指差した家は見事な一軒家だった。
家族と暮らしているのだろう、中流家庭の家に見えた。
智哉は話を続ける。
「そういえば司の家はどこなの?引っ越してきたんだよね?」
「ああ、俺はほら、反対側の入り口の近くに見えるだろ?あそこのアパートだよ」
そういってアパートを指さす。
智哉は嬉しそうだった。
なぜ嬉しそうなのかは次の智哉の言葉で理解できた。
「凄い近くなんだね!じゃあこれからは遊びに行ったり、勉強手伝ったりできるね。助かるなー」
それを聞いて、ああ長い付き合いになりそうだなっと俺は思った。
話していて嫌悪感もないし、男だったのは正直驚いたが人の好さそうなやつだったので話し相手になりそうだった。
友達ってやつが出来たのはこれが初めてかもしれない。
今までは話はするがどこかよそよそしい奴らばかりで、家に上げたことも上げられたことも無かった。
これからは智哉とそういう関係になるのだろうか?
どのみち昨日のように喧嘩をしない様に付き合おうと俺は思った。
昨日の失敗を今日に生かそう。
俺はとりあえず智哉に他愛ない会話のための話題を出した。
「そう言えばさっきランニングを毎日してるって言ってたけど、スポーツでもしてるのか?」
智哉は着替える前に机に置いたのペットボトルの水を飲んで、答えた。
「僕は小学校の頃から中学卒業までサッカーやってるんだ。中学の頃は全国大会で準優勝したんだよ」
それを聞いた後で体を見ると確かに無駄な脂肪が無いし、筋肉も女性の体格にみえるがしっかりとついているのだろうと思った。
俺はなんでサッカーをやっているのか聞くことにした。
「凄いんだな。やっぱサッカーが好きだから続けてるのか?」
智哉は照れた顔でその質問に答える。ここだけ見ると女の子が照れているように見えるのだから怖いものだった。
「いや、昔尊敬してる人がいてね。その人はプロのサッカー選手なんだ。実際に小学生の頃に会って話したこともあってさ。その時は彼はすごくカッコよかったから、それからあの人のようにカッコいいサッカーが出来る人になりたいなって思って続けてるんだ」
智哉の瞳は輝いていた。好きなことに夢中になれるその姿が俺には眩しく見えた。
俺には何もない。
ただ生き延びればそれでいい、そんな日々だったから羨ましく見えた。
眼をそらしてスマホを見るとそろそろバスが来る時間だった。
「智哉、そろそろ学校に行こう。バスが来る頃だしさ」
「そうだね、僕朝食はもう取ってるし、一緒にバス停まで行こう!」
2人で納得し、商店街のある智哉の家の方角に歩く。
バス停では槇村や梨佳の姿は無く、どこかでほっとしている自分がいた。
あんなことがあった後だ。
挨拶する気にもなれなかった。
俺は智哉の話を聞きながら、適当に相槌をあわせてバスに乗った。
「そうえいば司はどこの部活に入るの?」
昨日の梨佳の言葉を思い出して、俺は窓際の椅子に座って話す。
「軽音部だよ、同じアパートの人に頼まれて部を作ることになったんだ」
「そうなんだ、いいなー。僕音楽は洋楽しか聞かないけど楽器演奏したことないから凄いと思うよ」
別に好きでやるわけでもない。ただ梨佳のあの1件から、部に入れば許されるなんて条件で入るだけだ。
そうただのコミュニケーションツールだ。
智哉のサッカーのように大会などを目指すわけでも実績が欲しい訳でもないのだ。
「智哉のサッカーに比べれば全然だよ。高校のサッカー部入るんだろ?準優勝ならすぐにレギュラー取れるさ」
「そうかなー、そう言われると自信ついちゃうなー。ありがとう」
智哉の嬉しそうな表情を見て、本当に単純で良いなと思った。
初めて出来た友人なのに慎重に対応しようと言う自分が見えて、俺はどこかで冷めていた。
バスが学校の前に着いて、俺達は桜の花びらがコンクリートに落ちている通学路を歩いた。
受験の時以来の大きな校舎を見て、智哉はウキウキしていた。
俺はここで中学の時と同じ勉強だけの日々が続くことに嫌気と寒気を覚えて、入学式の始まる体育館を目指して歩いた。
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