霊泡沫 四話


 初冬の夜。自販機本体のライトが周囲を照らしている。

 この季節になるとクーラーボックスを使って缶を冷やす必要はない。実際、俺が口に含んだコーラは凍る寸前だった。

 会社帰りの俺は本体の側面にスーツの背をあずけ、自販機の精は隣でクーラーボックスに腰かけていた。

 彼女はアウトドア用簡易コンロにかけた保温鍋で缶コーヒーをことことと湯せんしている。弱々しく聞こえるほどの静かな歌がつむがれていた。


  〽ただふれたまふことなかれ

   秘めてぞ清き恋なるを

   もしかかる世に罪やどる

   星墜ちゆけばいかにせむ


 その歌声が最後で急にかすれ、彼女は口を押さえてけほんと咳をした。

 聞きとがめて、俺は眉を寄せる。


「……おい。今日の神饌はもう飲んだんだろうな」


 神饌が切れたことで彼女に生じる実害は、その歌声の力が弱まるという形であらわれる。すこし前、一時的に彼女への賽銭が途切れたときに俺はそれを目の当たりにしていた。

 確認の問いに、自販機の精はかすかに笑ってみせた。

 それはこっちが安心できるような笑顔ではない――疲れを宿して、ちょっと困ったような、力なくごまかすような笑みだった。

 思わず苛立ちの声が漏れる。


「声が妙だと思った。やっぱり飲んでないのかよ」


「……ごめん。忘れてた」


 嘘をつけ。厳しく問いつめたくなる衝動を俺はこらえた。

 ここ最近、自販機の精には元気がなかった――もともと、店主が死んだあたりからふさぎがちではあったが、ここ数日はとくにひどい。

 神饌を口にしないほどにナーバスになっている姿は、見ていてつらい。


「……コーヒー温めすぎだ、煮込んでどうする。人目につく前にそろそろ火を消せ。鬼火だなんて噂が出たら客離れるぞ」


 洒落でもなんでもなく、現状ではそういった「目撃証言」は簡単に出てきかねないのだ。

 自嘲の声を彼女は出した。


「あはは……もうどっちみちお客さんなんて、ほとんど来てないよ」


「おい!」


「……ごめんね。でも、どっちみちもう、私の本体は……」


 彼女は前方の地面に茫洋と視線を落とした。


「せっかく、ちょっと前に電気通してもらったのにね……いよいよ限界みたい。あと一ヶ月ももたないと思う」


 彼女の言葉に合わせたかのように本体のライトが急に弱まり、一瞬光がぶれた。最近、こうなることが多い。それもどんどん頻繁になっていく。

 最初にクール/ホット機能が壊れたのは前触れでしかなかったようだ。

 本体の最期がまもなく来る。そして、存在する意味のなくなった彼女も消えてゆくのだという。

 血の味を俺は舌の上に感じた。われしらず唇の端を噛み破っていたらしい。

 顔をこわばらせる俺の前に、自販機の精がそっと立った。

 頬を、するりと撫でられる。


「ありがとう……いっしょうけんめい助けようとしてくれて」


 諦めがもたらしたのか、その微笑みには透きとおるような儚さがあった。


「消えてしまう前に、いまのうちにいうね。君に会えてよかった。ずっと、君といるのが楽しかったよ」


“俺はこういう笑顔を前にも見た”


 突然のフラッシュバック。

 失った儚い笑顔。病院のベッドに横たわる母さん。

 その幻影が弾けたとき、俺は彼女の両腕をつかんで体勢を入れ替え、本体に乱暴に押し付けていた。

 食いしばったあごのあいだから獣のうなりのような声を押し出す。


「ふざけるな。これからもずっといろ」


 間近にある彼女の驚いた表情が、泣きそうにふにゃりと歪んだ。


「でも、少年……」


「消えるな。いやだ」


「い……嫌だっていわれても……私はもう本体をサポートすることはできない。生まれてきた意味が……存在する理由がなくなっちゃったんだよ」


「理由なんかなくたって……! いや……存在する意味なら、ある」


 『秘めてぞ清き恋なるを』――彼女の今しがたの歌を思い浮かべる。別に清い恋をしたいなどと思っていない。俺はこれまで、彼女との関係を壊しかねないリスクの高い行動を選ばなかっただけの話だ。

 けれど放っておいても、その安定は壊れる。

 このまま何もせず永遠に失うくらいなら――


「俺は……おまえが、好きだ」


「私だってそれは、そうだけど……」


 これほどまでに率直に告げても、自販機の精は俺の告白を正確には理解していないようだった。彼女と俺との間に異性としての関係などありえない、と心の底から思い込んでいるのだろう。俺を見つめる彼女は、嬉しげではあるが困ったような、わがままをいう弟を見つめるような表情をしている。

 これまでの俺なら勇気を出せずに尻ごみして、引き下がっていただろう。

 けれどこの夜、


「違う!」


 気がつけば俺は勢いのまま食い下がっていた。


「俺はおまえを姉や友人として慕ってるわけじゃあない。……いいや、それもあるんだが……つまり……全部の意味で、好きなんだ」


 じわじわと、彼女の表情が変化する。

 目をぱちぱちさせる。戸惑い。かすかな理解。理解の拡大。口がぽかんと開く。


「え、」


「愛してるんだ」


「な、何いっ……」自販機の精の声が動揺しはじめる。「こ……こんなときにからかうのはやめて!」


「こんなときにからかうとでも思ってるのか? いままでいわなかっただけで、ずっと好きだった。おまえのところに缶を買う客がだれも来なくなったって、そいつら全員合わせたより俺一人のほうがずっとおまえのことを欲してる」


「う、うぁ……」


 自販機の精が身をわななかせた。その背後で本体のライトが明滅する。見えにくい逆光のなかにあってさえも、彼女の顔が真っ赤になっているのがわかった。


「それだけじゃ『存在する意味』が自分にあるとは思ってくれないのか?」


 訊ねると、おびえたようにびくっとその肩がはねる。


「私、君とつがいになんて……考えたことないよ、そんなの……」


「じゃあ、これから考えるようにしろ」


「待って、わ、私は自動販売機の付喪神で、君は人間じゃないか……おかしいよ、こんなのは……」


 下がった眉、伏せられた目。弱りきった表情は羞恥に赤らんでいる。

 こういうときにはこんな顔をする女だったのか。ぞくりと背筋に妖しいものを覚える。

 また、ふっと本体の明かりが消えた。彼女の上気に合わせて、闇のなかに花橘の薫りが強まった。


「何がおかしいんだ。この国では狐の精も雪の精も樹木の精も人間の妻になったことがあるんだぞ。自動販売機だからなんだというんだ」


 数秒後、明かりがついたときにかろうじて俺は彼女の腕を放した。

 一歩下がって深呼吸し、理性をどうにか取り戻す。

 彼女を取り巻く状況が絶望的になって以来、最後の手段としてひとつ考えてきたことがある。自販機の精が消えずにすむかはわからないが、何もしないよりはるかにましだ。


「うちに来い。ばあさんの遺族と話つけて、おまえの本体は神社に引き取ることができそうだ」


 消耗したようにぐったりと本体によりかかる自販機の精は、紅潮したまま唇を引き結んで俺と目を合わせない。


(――かまうものか、こいつが俺を嫌おうとどうしようと)


 いまさらくよくよしても始まらない、もう想いはぶちまけてしまった。

 ことここに至れば俺にとっての最重要事は、こいつに嫌われないことではなく、こいつを消滅させないことなのだ。こいつが嫌がろうとも、そのための行動をするだけだ。


「ひとつ考えがある。親父には俺が話すから、うちの神様にはおまえが話せ」

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