第三章 霊泡沫 ―たまうたかた―
霊泡沫 一話
ひと月後、最初の抜き差しならない状況におちいった。
それはある日、また社を抜け出てきた俺が缶を買おうとしたときのことだった。自販機の精は足もとのバケツから缶を取り出したのである。
「はい少年! 井戸水で冷やしたコーラだよ!」
「…………おまえ……」
井戸水って……
「……だめだよね、やっぱり」
笑顔をひっこめて彼女はうなだれる。どうも空元気だったようだ。
「さすがに微妙にぬるいもん飲みたいとは思わないな。なんなんだ、いったい」
不審を覚えて問いただすと、自販機の精は消えそうな声を出した。
「クール/ホット機能が不調で……もうすぐ完全に壊れる……」
「致命傷じゃねえか!」
唖然と口が開く。
クール/ホット機能とは読んでそのままである。缶飲料の冷却・加熱と保温をつかさどる、自動販売機の内部機能だ。それが壊れるということは、つまりジュース系が冷えない、ホットコーヒー系が温まらない状況になるのだ。
「か……確実なのか?」
「本体の天命が尽きはじめてるのが見える……」
俺まで頭を抱えたくなる。彼女が長年あまりにも変わらないため、老朽化した本体も永遠に動き続けるような気がしていたのだが……錯覚だったようだ。この日まで機能していたことが奇跡の一種だったのだろう。
自動販売機の耐用年数は五年。彼女の本体は三十年近くここにいるのだ。
「いますぐ修理業者を呼ぶというのは」
いいながらも俺は連絡のために携帯電話を取り出しはしなかった。ある危惧を覚えていたから。その懸念は残念ながら的中した。
自販機の精はさらに深くうなだれる。
「……業者さんは私の状態を見れば修理じゃなくて、『ひどすぎるからまるごと交換しろ』というと思う」
彼女の語るところによればだいぶ前、俺と出会う以前に、点検に来ていた業者が自販機本体を取り替えようとしたそうである。文房具屋の店主が『このままにしとくれ』と強く主張してくれたために、彼女はどこにも行かずにすんだのだという。
蝉の声のみがしばし俺たちのあいだに響いた。
しかし、いつまでもふさぎこんでいるわけにもいかない。井戸水温度の微妙にぬるいコーラを取り上げてひとくち飲み、俺は訊いた。肝心なことを。
「……おまえ、どうしてもここで本体を助けて缶を売っていたいか」
自販機の精は面をあげ、まつげをしばたたいた。うろんげな表情の彼女へとさらに言葉で踏み込む。
「壊れた本体からおまえという意識は切り離されているようにしか見えない。自動販売機としてのあり方にこだわらなければ、どんな生き方でもできるんじゃないのか。なんなら俺は……」
困ったように彼女が首をふるのを見て、俺の提案は立ち消えになった。
彼女は話した。いいにくい打ち明け話をするようにおずおずと、しかし奇妙な確信のこもった声で。
「もしも……本体のサポートができなくなって、本体の売り上げがなくなったりしたら、ここにいる私は消えてしまうと思う」
「……消えるだと?」
「付喪神の魂は本体に宿ってる……ここで君と話している私はあくまで、無くした機能を補うために『霊の宿った本体』が生みだした人格なの。それなのになんの役にも立たないなら、存在する意味が無いってことになるの」
自販機の精は、ぶるっと震えた。心細さを面に出して。
「でも、もう……どれだけがんばっても駄目かもしれない。クール/ホット機能が壊れたら、私のサポートくらいじゃ追いつかないよ。きっとお客さんは来てくれなくなる」
「ちょっと待て」
俺も総毛立った。あることに思い当たって。
「本体が無くした機能を補うためだといったな。それだと、もしもおまえの本体を修復できたとして、その場合でもおまえは消えるってことなのか」
長いためらいののち、彼女はうなずいた。
「そうかもしれない……すべての機能が直ったら、補う存在である私の必要はなくなるから」
俺はめまいを感じた――これまでは、彼女はいつまでもいてくれる存在だと根拠もなく思っていた。
違った。本体が完全に直っても、完全に壊れて売り上げがなくなっても、彼女は消えるのだという。思ったよりずっとあやふやな、狭間に生じた夢幻のようなあり方だった。彼女の「人や物の最期のときに敏感」という能力は、もしかしたらこのためなのかもしれない。最初から、死にかけの自販機によって生み出された存在なのだから。
「……なかなか厄介だな」
自分の声が絶望でひび割れかけている。それに気づき、俺はぱちんと両頬を叩いて活を入れた。
彼女が消えてゆくのを黙って見ているつもりなど微塵もない。
「……ひとまず、客足を離さなければなんとかなるんだな」
「――え」
「どうなんだ。『売り上げが出ている』あいだは消えずにすむんだろう」
「う……うん、たぶん。だから応急処置で井戸水を試してみたんだけど」
「氷水と発泡スチロールの箱を持ってくる。いや、最近は、缶を冷却する機能がついた電動のクーラーボックスがあったはずだ。それを買ってきて冷やした缶をプールしておこう」
要は小型の缶飲料冷却器だが、さほど高くなかったはずだ。本体の陰にそのクーラーボックスを置いておき、客が自販機のボタンを押したらすかさず買われた缶と冷やしてあった缶を交換。朦朧とした客に手渡して終了。これで当座をしのぐしかない。
「ホット機能は……湯せんして缶を温めるか。手鍋に保温鍋、簡易ガスコンロ、温度計でも揃えるか。
おまえ、小道具が多くなっても、お得意の催眠音波で目の前に立った客をごまかすのは大丈夫だろうな?」
確認すると、自販機の精はあわててうなずいた。
「歌が届かないような遠くから見たら違和感覚えられるだろうけれど、近くに来た人はなんとか操作できると思う」彼女は口をむずむずさせて泣きそうな笑顔を見せた。
「……あの……とても助かるよ……ありがとう」
「礼なんかいちいちいうな。消えるかもしれないなどといわれてほっとけるわけがないだろう、絶対になんとかする」
「……うん」
ぶっきらぼうにうっかり本音を口走ってしまったが、照れている余裕は今回ばかりはない。
これが根本的な解決ではなく一時しのぎにすぎないことは、双方ともがわかっていた。
彼女がいったとおり、自販機本体のクール/ホット機能は数日後に停止したが、「応急処置」のために売り上げが極端に落ちることはなかった。
延命できたことをささやかに喜ぶ前に、次の嵐が来たけれども。
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