恋朧 終話
アラサー突入前に、俺はぶじ
業務の合間に抜け出してきて、いつもの文房具屋前。
「少年、そういえば今年の『バレンタインデヱ』には誰かからチョコレートもらったのかい」
「梅雨時にもなってなんでいきなりヤソ教の聖人がぶっ殺された日の話だよ。こちとら日本の神に仕えてるんで、そんなバテレンデーとは無縁です」
投げやりに、ただし声は低めて俺は話す。
「またひねくれたこといってる。今年はもらえなかったんだね」
「巫女のバイトやってる人たちが昔っから毎年くれるつーの。……全員既婚のうえ俺は親父のついで扱いだが」
「君のモテ期って大学で終了したからねえ。ふふ、すっかり女っ気なくなっちゃったね。毒牙にかかる子がいなくなったからこれが世間のためかな?」
また意味なく開いた傘をくるくる回し、俺のとなりで自販機の精は楽しげだ。
その満面の笑顔の理由、ほんのすこしくらいは独占欲が満足したからであってほしいもんだ――などとまたも虚しいことを思いつつ、俺は彼女の軽口に応酬する。
「毒牙ってなんだよ……モテ期だのなんだの、年々人間社会のろくでもない語彙と知識ばかり増やしやがって」
唯一の人間の会話相手である俺にもすこしは責任があるだろうけれど。
「てか、昔はおまえ自身が俺に『つがい作るといいよ』とか勧めたじゃねーか。最近、前と反応が違うよな?」
さりげなく聞きながら俺はひそかに手のひらを握りしめる。
この前の、元同級生の結婚式のとき、自販機の精は様子がおかしかった。かつて俺が告白されたときは珍しいものを見たとはしゃいでいたくせに、あの結婚式のときはあんなにも歯切れの悪い態度だったのだ。
(そうだ……俺が一抹の期待を抱いちまうのは、こいつの反応が昔とは変化してるからだ)
自販機の精は、はにかんだ笑みを見せた。
「あのとき勧めたのは……心配だったからだもの。
お母さまを
傘のうちで彼女は、笑みを淡く優しいものに変える。
「いまの君は地元にいるじゃない。知り合いがたくさん……私だってこうして近くにいるし、だからもう寂しくないでしょう。
それもあって私、近ごろ思いなおしたんだよ。君は焦ってつがいを見つけなくてもいいんじゃないかって。……ほんとうに好きになれる人をゆっくり探したらいいんだよ、少年」
(なんだ、歯切れ悪い態度だったのは嫉妬ではなくてそういうことか?)
失望を隠すように、俺はふんと鼻を鳴らした。
(俺が好きでもない相手と家のためくっつこうとするのが「良くないこと」だと思うようになってたからか)
ほんとうに好きな女――そんなものとっくに見つけてるよ、という一言をこらえ、
「それで、唐突にバレンタインの話を出したのはなんなんだ」
「うん。私のところにジュース買いに来た女の子たちが、クラスの男の子に告白するという話をしてたんだ。それを聞いてたら、このまえ結婚した子に、君が私の目の前でチョコ渡されてたこと思い出して」
「ああ……そんなこともあったな……この際だ、いわずにいられないからいっておくが……俺はあの軽薄な風習が嫌いだ」
クイッと俺は眼鏡を押し上げる。胸中の苦さをチョコへの憎しみに転換完了。
「チョコ自体好きじゃないんだ、たいていは甘ったるくて口にあわない。そこに加えて手作りアピールとかなんなんだあれ、湯せんして溶かしたチョコを固め直しただけだろうが。『乙女のマゴコロが付加価値なの☆(ゝω・)v(キャピ』などとほざく手合いには虫唾が走る。あんなもので女に恩を着せられて嬉しがる男の気が知れないな。友達チョコだのホワイトデーの三倍返しだのに至ってはそんなルールを最初に定めた奴に殺意すら覚える。本気の告白でもないものを押し付けられたあげく一ヶ月後に金を使わされるんだぞ意味がわからない。かといって好きでもない女からの本命チョコもあれはあれで面倒くさい。で、どっちにしろいらないと面と向かって本音表明したら“なかまをよぶ”コマンド使いやがって女子が周りにわらわら湧き『ひどい! 冷たい!』『そんな人とは思わなかった!』『本性あらわしたのね、眼鏡吸血鬼!』『冷血ヅラしやがってよぉ!』『死んで!』と手をとりあって集団詠唱はじめるんだぞ。
とにかくバレンタインなんぞ面倒なだけだ」
暗黒を延々どろどろ口から垂れ流していると、自販機の精が苦笑した。
「うーん……そこまで嫌いならしょうがないかな。君が欲しいなら、『溶かして固め直したチョコ』でよければそのうちあげてみようかなって思ってたんだけど」
「リアリィ!?」
弾かれたように向き直る・キュッと背筋を伸ばす・轟沈土下座(所要時間〇,八秒)
「欲しいです! ください!」
「………………あ、うん……まず立とうか」
引いた声にはっと我に返る。そそくさと袴のひざを払って立ち上がり、とりつくろいを試みた。
「まあ、いろいろいったが実のところ、くれるというならもらわなくもないな。……痛ましげな視線はやめろ!」
「君……あれだけ文句いっときながら、本音はそこまで女の子からチョコが欲しかったんだ……」
まごうかたなき哀れみの視線が地味に心をぐりぐりえぐってくる。
くそ、他の奴からだとどうでもいいのは本当なのに。まさかこいつからもらえるとは思っていなかったので、ふってわいた機会に反射で食いついてしまった……!
恥ずかしさで歯ぎしりする俺を前に、自販機の精は袖で口元をおおってぷっと吹き出した。
「うふふ、いいよ。『りべんじ』もしなきゃだしね。人間でない女からもらうのでも君が満足なのなら、君の家かおばあちゃん家の台所借してもらって挑戦してみる。材料のチョコばかりは用意してくれないとどうにもならないけど」
屈託なく笑う彼女に、俺はおそるおそる訊いてみた。
「あの……ところで、どういう意味でチョコをくれると」
「え? なに……ああ、そういう」ちょっと頬を染め、ぱたぱたと手を振って彼女はおかしそうにした。「あはは、何いってるの。君は人間で私はそうじゃないでしょ。つがいになりたいと私が思ったりしたら変だよ」
「……はい、そうですね……正論デスネ……」
「『面倒くさい』なんて警戒しなくても私、そんな意味で君にチョコ贈ったりしないよ。だから安心して」
朗らかな声でとどめを刺され、俺はひざから崩れ落ちそうになる。
……これまでは、実は彼女が稀代の悪女という可能性もあると
その望みは絶えた。この女、本当の本気でこっちを「対象外」にカテゴリしてやがる。
しかたない。とにかく来年にチョコはもらえそうだしそれで満足しよう。
このときは知るよしもなかった。
次の年、彼女にチョコレートを渡されることはない――などとは。
生涯忘れることのできない一連の出来事が始まろうとしていた。
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