恋朧 二話


 ひっきりなしの悪寒に襲われながら、実家の布団のなかで俺はうめいた。

 くそ、ここ数年は健康だったのに。

 せっかくの帰省なのにこの三日ほど、俺は盛大に体調を崩していた。電車に乗る前から具合の悪さを感じてはいたのだが、車内で移動中にみるみる悪化。駅で倒れて、うちの氏子である地域の皆様がたの手によって神社に担ぎ込まれる騒ぎになった。おかげで今回はまだ自販機の精に会いにも行けていない。

 今回は、彼女に告げておきたいことがあったというのに。


「ちくしょう、ついてねーや……いや、倒れたときに実家でゆっくり療養できるってのはついてるほうなのか……?」


 ぶちぶちいいながら熱を測ってみる。三十八度五分。ピーク時よりは一度ほど下がったが、まだ高めである。

 はやく下がれよ熱……と思いながら布団をかぶりなおす。


(さっさと健康に戻らないと、また親父が騒ぐ)


 ぐったりした俺が氏子によって運ばれてくるなり、親父は血相を変えた。そのまま有無をいわさず救急病院直行である。ただの重めの風邪ということで、医者には薬を与えられただけですぐ帰されたが。

 身内の病に関して、親父は異様に神経質だ。


(母さんのことがあるから無理もないか……)


 何年経とうとなかなか癒えないものもあるのだ。

 親父はいま、工事現場で地鎮祭を執り行ってほしいという依頼のため、家を空けている。帰ってくるまでにすこしでも回復して安心させてやらねばならない。すみやかに寝て治すべく俺は目を閉じる。

 夢かうつつか、眠りの淵で――

 彼女の歌を聞いた気がした。


  〽ふと聞きなれししろがねの

   こわざしやわきしのび音に、

   別れのゆふべ、さしぐみし

   あえかのまみも見浮みうかべぬ。


 気のせいではなかったのだろう。その次に意識が浮上したとき、体はだいぶ楽になっていた。嗅ぎ慣れたいい匂いにも気づく――部屋にただようたちばなの香り。

 顔の近くに気配を感じて目を開けてみると、案の定、そこには自販機の精のおどろいた顔があった。


「……よう」


「あっ……起こしちゃった?」


 こちらに伸ばしたところで固まった手に、水を切ったおしぼりが握られている。俺のひたいにそれを載せようとしているところだったらしい。

 寝ていた俺を起こしてしまったことを憾(うら)みとしてか、彼女はわずかに眉を下げた。申し訳なさそうな表情である。


「なんだ……見舞いに来てくれたのか」


「君が倒れて死にかけてるって、町のみんながいってるのが耳に入って」


「氏子連中、なにを与太話を垂れ流してくれてんだ……」


 この町の人間は基本的に親切だが、うわさ好きなところが困る。


「で、おまえは真偽をたしかめに来たと。心配してくれたわけか」


「うん」自販機の精は真面目な顔でこくりとうなずいた。「すごく心配した」


「そ、そうか」


 照れを感じ、それをごまかすように俺は自販機の精にたずねた。


「そういやおまえはほんとに確かめられるんだったな。どうだ? 俺、今回は生き延びられそうか?」


 高い熱のあとで妙にハイになっていたこともあったのだろう。愚かな軽口を俺は叩いた。

 こわばった表情になり、自販機の精が即答する。


「だいじょうぶに決まっているでしょう」


「そっか、良かった。死相浮いたらいつでも遠慮無く教えてくれよ……うわっ」


 ぎゅっと強く、おしぼりをひたいに押し当てられた。

 それから自販機の精の手は、俺の頬をそっと包み込んだ。

 彼女の黒く濡れ濡れとした瞳には、愁いの色が濃くあらわれていた。魅入られたように俺は言葉を失う。


「……こわいこといわないで、少年」


 沈痛な声が間近で響いた。


「見たくなくても、あれは勝手に見えちゃうものなの。私、君の『最期のとき』が来るところなんか見たくない……そういうこと、おねがいだから想像させないで」


 大事な存在に悲しまれるのは、怒られるよりこたえる。

 先刻の軽口が考えなしの極みだったことに気づき、おのれの馬鹿さに辟易しながら俺は謝った。


「すまん。二度といわない」


 自販機の精の表情がすこしゆるんだ。


「ん。私もその、無断で家に上がっただけでなく、部屋にまで入っちゃってごめんね」


「そんなことは……もう寝るのは飽きてたからな。ちょうどいい」


 看病してくれてありがとう、とも告げる。

 調子が良くなっているのはもしかしたら、彼女が枕元でずっと歌を歌ってくれていたのかもしれない。


「少年、実は私、勝手にこの部屋に入っちゃったのは、今回が最初じゃなくて……」


「え、そうなの?」


「き、君がいないあいだに何度か」


「へえ……」


 俺は驚いた。同時にぽわんぽわんと夢想がふくらむ。その甘い夢のなかでは自販機の精が寂しそうにして、押入れにあった俺の枕を抱きしめてにおいを嗅いだりしている。そんな光景あるわけない、とわかっていても心臓が早鐘を打った。

 ……が、見れば正座した自販機の精は視線を泳がせ、不審な挙動になっている。どうも色気とは無縁の出来事のようだ。


「おいおい、なんだよそわそわして。不安になってきたじゃないか。

 で、なんで入ったんだ?」


 冗談めかした口ぶりで俺は聞いてみた。


「たまに部屋を掃除してたの。私、以前は、ぷらいばしーというものがあまりわかってなくて。いつ帰ってきてもいいように隅々まできれいにしといてあげようとしか思ってなくって」


「……ほう」


 にわかに危惧の念がはりつめるのを感じた。

 俺の机の引き出しには、中学生のころに所有していた青少年のお宝エロ本が数冊しまってある。そのうちの一冊は以前、自販機の精から引き取ったやつだ。


「おい……今度は本当に不安なんだが……何したおまえ。まさかとは思うが引き出しには触ってないよな……?」


「……虫干ししといてあげようと思って……引き出しの本も、一回ぜんぶ室内で広げ置きしてたんだけど……途中で君のお父さんが部屋に入ってきたの。君の本見られて、まとめられて机に置かれちゃった。そのあと私が引き出しのなかにしまい直したけど」


「何してくれてんだこらああっ」


 俺は悲痛にシャウトした。がばっと上体をはね起こしたのでひたいのおしぼりが吹っ飛ぶ。

 かなり前に帰省したとき親父に『部屋はちゃんと片付けてから向こうに行くようにしろ』と意味不明の説教をされて面食らったことがあったが、真相がいま判明したよ!

 さすがに余計なお世話が過ぎるわ!

 しかし、首をすくめてしょんぼりうなだれた自販機の精を見ていると、憤激の念は急速に薄らいでいった。「あー、まあいいよもうやんなきゃ」俺はがりがり頭を掻く。それに、別のことが気になったのである。


「にしても、プライバシーの概念が理解できるようになったってことは、おまえも成長するってことなんだな」


 ちょっと感心した視線を彼女の顔に注ぐ。

 とたん、自販機の精が背筋を伸ばし、ぴんと指を一本立てて誇らしげにいい放った。


「そりゃそうだよ。私、捨てられてた本や図書館の本でいっぱい調べたからね! 人間の社会のこともっときちんと知りたくて。特につがいになったらどういうことするのか興味あっだから」途中で指がくにゃっと曲がり、どや顔がかあっと赤熱した。「…………に、人間ってすごい破廉恥な生き物だとだんだんわかってきたよ……」


「耳年増になっただけかよ!?」


 自販機の精が盛大にヨゴレた!

 昔と違ってこいつが、エロ本というものがどういう存在かも認識している時点で気づくべきだった。なんだかやるせない気分でヨゴレ神を見つめる。

 赤面が収まらずもじもじして居心地悪げになっていた自販機の精が、ごまかすように「そ、そうだ少年!」と手を叩いた。


「なにかしてほしいことある? ずっと寝てて汗かいたでしょ、体拭こうか? 腰や背中こわばってるなら按摩してあげるよ?」


「さっきの話題の直後でそういう選択肢を出してくんな! 頼むやめてください」


 やはりこいつはただの鈍感ピクシーである。


「いいっての、別にやってもらいたいことはなにもないから……」


 断りかけたところで、俺の腹が盛大に鳴った。格好悪さに俺は固まる。

 自販機の精が俺の腹を見つめて小首をかしげた。


「……なにか食べるもの、作ってみようか?」



 自販機の精がレシピを見ながらうちの台所で作ってくれた雑炊は、見た目は完璧――ただし、ひどくしょっぱかった。


「簡単なものなら私にも作れると思ったのに、失敗しちゃった……」


「いや食えるって。汗かいた後だから体にはこんぐらいの塩気がちょうどいい」


 またも悄然とした彼女をなぐさめつつ、俺は匙を口に運ぶ。


「それにおまえ、人間の食べ物は口にできないんだから料理うまくなくてもしかたないだろ」


「うん……『味を見ながら塩加減する』と書かれてたけど、そこができなくて……」


「うちに置いてある料理本、古いからか、味付けについてはアバウトな書き方ばかりなんだよなあ……」


 「塩少々」だの「適量の醤油」だの、あの料理本に載っている指示は素人への配慮がないに等しい。まして味見ができない自販機の精が作るとなると、あの表記のしかたは不親切の極みというべきだった。


「少年っ、私『りべんじ』の機会があれば今度はちゃんと作るから! 別のところでレシピおぼえてくるよ」


 自販機の精はぐっと両こぶしを胸の前で握って意気込む。

 俺は軽く笑った。


「はは……律儀なやつ。そこまでしなくていいって」


 温かい雰囲気、大切な時間――浸りながらも、俺は呼吸をさりげなくととのえる。


「あのさ……」いいよどみそうになったが、思いきって口にした。今回の帰省の目的、彼女に告げるはずだったことを。「俺、恋人ができた」


 自販機の精は目をみはった。

 一拍置いてから、その表情がふわりと柔らかくなる。


「よかったね、少年」


「……よかった、か。いいことなのかな」


「うん……きっとお母さまも安心するよ」


「そうだな……ありがとよ」


 視線を椀に落として俺はもう一匙、雑炊をすする。彼女への恋にきっぱりけじめをつけたつもりだったのだが、報告しても特になにかが変わったという気はしなかった。

 雑炊はやはり塩辛く、舌をひりつかせた。

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