花霞 九話
「母さんはいなくなったわけではない」父さんからはそう聞かされた。「母さんは、祖霊としてわれわれを見守る神の一部になったのだ。おまえもしっかりしていなくてはならん」
けれど僕は、忌明けの五十日祭が終わってもまだふぬけていた。なにをする気も起きない。父さんや、学校の友達と一緒にいるときなんかはもう普通にしていられるけれど……ひとりになるとなんだか、胸の芯を抜き去られたかのように思考も気分も虚ろになるのだ。
学校から帰って、風呂や夕食や課題を黙々とすませて、母さんの
僕の元気のなさに気を揉んだのは父さんだけではなかった。おせっかいな自販機の精がある日、僕の手を引いて連れだした。
「公園の梅がみごとに咲いてるよ。観に行こうよ少年」
「えー……寒いしだりい……観梅なんて平安貴族みたいなお上品な趣味がチュウガクセーにあるわけねーだろ」
そんなふうに憎まれ口を叩きながらも僕はついていった。
ベンチに座ってぼけっと梅を眺め、持ってきた缶コーラを久々に分けあって飲み、「梅は『
自販機の精にひざまくらされて、咲き誇る梅を見上げる姿勢。
「やっぱりまだしんどそうだね。寝てていいよ、少年」
「ダウンジャケット着てても寒いっつの、寝れるかよ……」
口でそういいながらも僕は身を起こさなかった。ほんとうはぜんぜん寒く感じていいない。彼女の温かく柔らかい感触に接していると、なんだかとても安心するし気分がぽかぽかしてくる。
「あんまり、僕に構うのよせよ……」
すごく心地良いのだけれど気恥ずかしさもやっぱりあって、そう文句を垂れた。
自販機の精は意に介さない態度である。彼女はそっと笑って、自分のひざの上の僕の頭を撫でた。
「しかたないじゃない。君は私にとって、話ができるたったひとりの人間で、弟みたいなものだもの」
「……あっそ」
弟といわれて、妙に面白くない。
――……。
“なんで面白くないんだ?”
急に、
猛烈に、
気恥ずかしさが十倍二十倍くらいにふくれ上がった。
梅の花を背景にほほえむあでやかな小紋姿が、僕の脳裏に焼きつく。泣きぼくろのある
「げっ」
動揺し、変な声が漏れた。
待てどうも混乱しかけている、と急速に茹だちはじめた頭で考える。
この心の動きがいかなるものか整理しなければ――整理もくそもあるか、こんな現象あれしかない。
「機械か妖怪かという相手に……! さ、最悪だ僕の青春!」
「なあに? また私の悪口かなにかいってるのかい?」
聞きつけた自販機の精がじと目になる。
「いや、待った、違うからっ!」
おちつけ、と心中で唱える。よく考えろこんなやつを好きになるとかありえない。ぶつぶつ否定材料を口にして並べ立てる。
「そうだ……こいつはガキっぽくて、すぐムキになって、世間知らずのくせに大人ぶるし、服装が時代劇だし、歌も著作権切れてるすげー古臭いのばっかだし……」
「悪口三昧吐いてるでしょ! まな板の上の鯉体勢でいい度胸だね!」
「いででででで」
目を三角にした自販機の精が僕の鼻をつまんで上に引っぱる。キツネ顔と化す僕。
制裁の直後、彼女がふと心配気な表情になった。
「顔、さっきからどんどん赤くなってるけれど……これって病気かなにか?」
「わ、ちょ、なんでもない! 病気じゃないからのぞきこむな!」
まずい。頭で彼女の残念なところをいくら数え上げても、“でも裏表ないし優しい”とか“すごくいい匂いする”とか、心が勝手に擁護をならべたてやがる。おかげで顔の熱も心悸の高まりもまるで引かない。とっさに視線と話をそらす。
「そ、それより、元気が出るようになにか歌ってよ」
彼女の歌にはリラックス効果があるのだから、そのあいだにこの緊張・動悸加速状態も収まるだろうと当てこんでもいる。
「またそうやってごまかして」とちょっとむくれつつも、彼女はこほん、と咳払いして応えてくれた。
〽まだあげ
前にさしたる
やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたへしは
「………………おまえ、それ、わざと?」
「? なにが?」
島崎藤村の「初恋」という詩だ、たしか。
しかしこいつのことだから、この歌選んだことに深い意味ないんだろうな……と、自販機の精の本気で小首をかしげる様子を見て僕は嘆息した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます