花霞 八話


 暗い冷たい空が頭上にのしかかってくる。

 冬の暮れ方、葬儀の終わったあとだった。僕はのろのろと自販機の精に報告する。


「手術自体は成功したんだ。患者は死んだけどさ。……この医者の冗談って定番らしいけど、つまんないな、ほんと」


 自販機の精は言葉を失ったかのようになにもいわない。僕の表情を一目見たときから凍りつき、両手で口元を押さえたまま立ち尽くしている。

 僕は彼女に背を向けた。

 見つめていたら、ふとしたはずみに彼女をなじってしまいそうだ。筋違いだとわかっていても。


「手術以前に、患部がとっくにあちこち転移してたって……潜伏してて検査しても見つけられなかった、なんてふざけたこと聞かされた。手術してすこししてから、ありえないほどの速さで一気に増悪ぞうあくして、手がつけられなかったらしいんだ」


 目を覚まさないまま昏睡状態になって、二度と母さんは起きなかった。苦しまなかったことを喜べばいいのだろうか。


「医者には、冬までもってたのが奇跡だったっていわれたよ。本来なら夏前には死んでたはずだったって。まるで不思議な力で病状の進行が止まってたみたいだ、って。

 ……最初からわかってたんだな、おまえには」


 思い当たるふしがあった。昔――僕がまだ彼女におびえていて、彼女から逃げようとして川に落ちたときのことだ。あの古い木の橋が崩落することを、彼女は前もって知っていた様子だった。


(こいつは「橋のテンメイがつきていてもう壊れそう」っていった……テンメイは、「天命」なんだ、たぶん。じゃあこいつは、母さんのことも……)


 僕は彼女を問いつめる。


「あの日、初めて総合病院に来たときに……母さんを見たときに……母さんがもう死ぬって、おまえにはわかってたんだ。そうなんだろ」


「『手術』したら……治るのかと、おもってた」


 自販機の精のかすれ声を聞いて、唐突におかしさが胸の底からこみ上げてきた。

 失笑を噛みつぶすと、それは苦いうめきに変わった。

 手術で治るんだと、僕は断言した。他の可能性など無理やり消して。

 こいつはそれを信じた。「手術」まで母さんの命を保たせられれば、彼女のよく知らないその方法で母さんは助かるのだと。だから、「当たり景品」で母さんの命をつなぎとめてくれた。

 彼女の非などなにもない。

 だが、


「なんで、教えてくれなかったんだよ。母さんの天命が尽きてるって」


 それを僕に告げてもどうにもならなかったのはわかっているけれども。自販機の精が僕を悲しませまいと気をつかって伏せていたのはわかるけれども。

 心が千々にささくれて、


「子供扱いしやがって、余計な気を回すなよ……!」


 悲鳴のようにほとばしった激情の声を、彼女にぶつけてしまっていた。


「正直にいって覚悟させてくれていたら……一度は母さんはもう大丈夫って思ったのに……期待をもたせたあとで、駄目でしたなんてっ、急に突きつけられたらかえって苦しくなるばかりじゃないか!」


 ――そうやって支離滅裂に八つ当たりを吐きつづける僕の背に、温かさが寄りそった。

 花橘はなたちばなの袖の香とともに両腕が、ふわりと僕の頭を抱く。

 彼女の涙が僕の首筋を濡らす。

 ごめんね、ごめん、と謝る彼女の涙声。


「悲しませてごめん。たいしたことができなくてごめんなさい」


 小刻みに震えて、僕はややあって首を振った。


「ちがう……おまえがあやま、る、ことじゃ……」嗚咽のしゃっくりで言葉が途切れはじめる。「ほんとは、いままでありがとって、いわなくちゃ、って、ここに……」


 最後に数ヶ月、母さんを人らしく生きさせてくれてありがとう。かろうじてそれだけいうと、首に回された彼女の腕をすがるようにつかみ、僕は思い切り泣いた。

 母さんの死のあと、だれかの前で初めて流す涙だった。




「だれがあと何年生きられる――、そういう具体的な寿命は私にはわからない。ただ、“最期のとき”が来たら、直前にそれが見えるだけなの」


 自販機の精はすこしあとになってぽつぽつ僕に語った。

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