花霞 七話


 とんとんと包丁がリズムよく歌っている。もう長いこと家に響くことがなかった音。

 テーブルの上では、一輪挿しに立てられたコスモスの花が、甘い香りを台所じゅうに撒いている。

 優しい魔法。


「夕飯の支度なんていいのに。僕がやるって」


 エプロンをつけて流し台の前に立つ母さんに僕は声をかける。

 だいじょうぶ、最近はとても調子いいのよと母さんは微笑む。それは知っている。以前に比べて顔色は格段によく、何よりこうして家にいて臥せることもないのだ。治ってこそいないが、無理しなければほぼ通常の生活ができるまでになっていた。


「それじゃ任せるけど無理するなよ。あと、ちょっと出かけてくるからね」


 いってらっしゃいと柔和な声を背に聞きながら、僕は自販機の精のもとへ行く。

 ここ数ヶ月母さんが元気なのは、彼女のおかげだ。

 自販機の精がもたらしてくれる「当たり景品」の効果。

 神頼み――もっと早く、しておけばよかった。


「今日も買わせてもらうから!」


 僕は自販機の精のところに駆け込む。


「どう、今日はもう当たりが出る仕様になってる?」


「まだだけど、もう三本も売れればそうなるよ」


 当たり付きの自動販売機のシステムだが、なんでも最後に当たりが出てから一定の本数が売れるまではロックがきっちりかかっているのだそうだ。運勝負になるのはそれからのことだ。幸いにして彼女の本体は非常に売れ行きのいい筐体なので、ほぼ毎日、僕は勝負を挑むことができる。

 現に、さほど待つこともなく客が三人やってきて缶を買っていった。


「……いくよ」


 僕は自販機本体の前に決然と立った。千円札を入れ、一番安い水の缶を十本つぎつぎ買っていく。

 自販機の精とふたり、息をつめて、本体の腹についた“当たり”のランプが点灯することを願う。当たりが出る確率は十五分の一くらいに設定されているという。


「当たり来い、当たれ、当たれ……」


 知らず口に出して祈りながらボタンを押し続け……

 ……当たらなかった。


「二十回続けて外れちゃった……」


 悄然として、それから僕は彼女をちらりと見る。厚かましいことを口にする羞恥と、浅ましい甘え心をこめて。


「お金もうないけどさ、その……今回も、ツケでいいかな」


 僕が当たっても当たらなくても、彼女は二日に一回はうちに来てくれて、母さんのために「当たり景品」――癒やしの花を与えてくれる。すでにこうしたツケは八回分は溜まっている。

 ……僕の行いは、まちがいなく駄目なことだと思う。当たりを出していないのに、特別扱いに甘えて癒やし効果をほどこしてもらっている。

 おそらくこれは彼女の自販機としてのモラル、あるいはルールにまで関わることのはずだ。彼女が最近悩んでいるように見えるのはこのことと無縁ではないだろう。

 自販機の精は――それにもかかわらず、僕の要求に、覚悟を決めたようにこくんとうなずいてくれた。

 申し訳なさで胸がいっぱいになるが……それでも僕は、母さんが人並みの暮らしを送っているといういまの幸福を手放したくなかった。


     ●   ●   ●   ●   ●


 さらに二ヶ月して秋が終わったころ、待っていた日が予想よりも早く、唐突に訪れた。移植手術が行われることになったのだ。

 僕は真っ先に自販機の精にそれを告げにいった。

 深い安堵の表情で、彼女は息をついた。


「よかった……野山の生きた花や芽を集めるのが大変になってきていたから」


 それを聞いて僕は背筋を寒くする。

 そりゃそうだ。冬になるとそうなるのを忘れていた。

 ……けれどまにあった、つくづく幸運だ。


「治るんだね、これで」


 ぽつりとつぶやいた自販機の精に僕は力強くうなずく。


「母さんは手術に耐えられる体力だって戻ってる。きっとだいじょうぶだ。

 あの、……ぜんぶおまえのおかげで……その……」


 素直に礼をいうつもりだったのに、面と向かうと妙に照れて言葉にしにくい。

 自販機の精は「君がたまに殊勝だと調子狂うなあ」とはにかんだ笑みを見せる。

 ただその直後、彼女の表情にどこか憂わしげな色がかすめたのが、気にかかった。

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