花霞 六話
自販機の精と話していることを人に知られた。
ある日、また彼女と話していると後ろで、ぎぎぃと木戸が開く音がした。
カッパの干物のようなしわくちゃの老婆が、戸のすき間からうろんげに僕を見つめている。
「あ、いつも店の前で騒いですみません……」
赤くなる僕。
自販機の精の姿はほかの人には見えないのだから、客観的に見たら僕はひとりで空中に向けてしゃべっている変な男の子に映るだろう。
で、この老婆がだれかというと、ほかならぬ文房具屋の主である。
なお、ほとんどの自動販売機が置いてあるのは実は公道上ではなく私有地だ。土地の持ち主は、置き場所を貸して売り上げの何%かのキャッシュバックをいただく・もしくは(非常に少ないが)機体ごと買い取って自分の土地に置くというシステムらしい。
そんなわけで自販機の精の本体も、道路に接してこそいるが、文房具屋の敷地内に設置されているのだった。
古ぼけた瓦屋根に木目黒ずんだ板壁のこぢんまりした文房具店舗は、こういっちゃなんだけどおんぼろ小屋にしか見えない。江戸時代から建っていましたといわれても納得できそうな見た目だ。塗装の色があせた
その店主が開口一番にいった。
「あんた、オザシキ様と話ができるんかいね」
僕は耳を疑って自販機の精を見る。彼女は苦笑している。
「店主さんも私のことがすこしだけわかるの。
……君としているみたいに会話や触れ合うことまではできないけれど。私がいることだけは感じられるみたい」
「なるほど……でもオザシキってその呼び名はどういったわけで」
僕の疑問に、店主は自販機の精のいるほうを指さした。
「その自動販売機にザシキワラシ様はとっ憑いてるじゃないかね。その方のおかげで、置いてある自販機の売り上げが伸びてあたしの小遣いが増えたよ。文房具の売れ行きも悪くないしね」
なるほど。会話できないとこういう思いこみからくる誤解が生じるのか……
売れ行き堅調なのがほんとに自販機の精のおかげなのかは確定していないだろう。そもそもザシキワラシじゃないし。
だがよく考えると誰も困っていないのである。訂正する必要もないかと僕は思いなおした。
店主は表に出てきて、曲がった腰をさらにかがめて地面になにかを置いた。見るとそれは小鉢で、缶一本ぶんの小銭が入っている。
「一日一回、オザシキ様にお供えしてるのさ。今日はまだだったからね」
僕がわけをたずねると店主はそう答え、手を合わせて自動販売機をおがんだ。その前で自販機の精が深々とお辞儀を返す。
「いつもお賽銭ありがとう、おばあちゃん。これのおかげで日々の糧を口にできます」
つまり僕が毎日おすそわけにあずかっていた缶飲料の資金源は、この賽銭だったわけである。
「あ、あの……実は僕」
正直にそのことを店主に告白すると、「オザシキ様が許してるんだろ。なら別にいいよ」とあっさり許可された。
いい人だと感謝の念を抱いていたら、「あんたんとこはおっかさんが大変だからねえ。オザシキ様もそれで目をかけてるんだろうね」といわれる。僕の表情が微妙にこわばるのを見て「や、これは余計なこといったかね」と店主は首をふってつぶやき、店の中へと戻っていった。
僕は横顔に感じる。自販機の精の視線がそそがれているのを。
彼女はきょとんとしている。
「君のお母さまがどうかしたのかい、少年」
僕はその問いかけに、やや強い口調で答える。
「別に。ちょっと病気」
● ● ● ● ●
市内の総合病院。
ベッド横の椅子に座ったままうつらうつらしかけて、僕ははっと頭を起こす。新聞配達やら内職やらで、やっぱり眠い。
特に内職、雀の涙の報酬なのにあんなに手間がかかるものだとは思わなかった。
(はやく働いて稼ぎたい)
父さんは怒るだろうが、中学を卒業したら高校には行かず就職するつもりだ。どうせ最終学歴にかかわらず僕は最後は神社を継ぐ。そんなことよりいまうちには目先の金が必要なのだ。
「ちょっと何か飲んでくるよ、母さん」
白いシーツに横たわって点滴を受けている病人は、僕が声をかけると笑みをうっすらと浮かべた。
生命力の薄い、白く儚い笑顔。
ここ数年、長い入院か家で臥せるかをくりかえしてきた母さんの肌は、すっかり色が脱けて青白くなってしまっている。ほほえんだのは、薬の副作用で苦しんだあとでうなずく力もないからだ。
目覚ましに、階下の飲食コーナーで据えつけの自販機からコーラひとつ買う。ふだんはしない贅沢だが、たまにはいいだろう。あいつの宿った自販機以外から飲み物を買うのは久しぶりだな、となんとなくここにはいないはずの姿を思い浮かべつつ飲んだ。
いた。
トイレから母さんの病室へと戻る途中、廊下の突きあたりによく知った後ろ姿を見かけた。髪の長い着物姿の女性が角を曲がって消えるところ。
自分の顔色が変わったのがわかった。
走って追いかけたくなるのをこらえ、まずはベッドにいる母さんに「ごめん、またちょっと外す」といい置く。
足早に歩いて自販機の精の姿を探す――階段の踊り場で壁にぐったりよりかかっている彼女を見つけ、周りに響かぬよう注意しながら声を荒げた。
「何でこんなところにいるんだよっ! まさか僕のあとつけてきたのかっ」
「ごめんなさい」
力のない声に怒りのあらかたを削がれ、僕は自販機の精をよく見つめる。口元を押さえてうつむく彼女の顔色はひどく悪かった。
「……顔青いぞ」
「……病院の空気が、ちょっと私には合わないみたい」
「余計なことに首つっこんでくるからだろ……」
彼女への心配が急につのり、あまり強くいえない。
『病院は白く清浄な世界――に見えるし、清潔さに気をつかうという意味では事実そうだろう。けれど、患者は血を流し、何人かはそこで死ぬ。血や死を穢(けが)れとする神道的な視点においては、汚穢に満ちた場所でもある。おおっぴらに口にできることじゃないが』と、以前そんなことを父さんがいっていた。自販機の精も神の一種なら、病院と相性が悪くても不思議じゃない。
ごめんねまた今度、といってふらふらと彼女は立ち去っていった。
翌日。
「母さんはある日倒れて入院したんだよ。よくある話だって」
僕はぶすっとしながらも、自販機の精にあらかたの事情を説明した。
「たしかにあまり良い容態とはいえないけど……治療さえ受けてれば、別に今すぐ死ぬような病気じゃないんだよ。ちょくちょく家に帰ってこれるくらいに安定してるし」
「……うん」
自販機の精はずっとしおれている。
病院の空気に中(あ)てられたままなのか、あとをつけたことを悪いと思っているのか、単純にこちらに同情しているのかはわからない。
それとももしかしたら、こういう話をずっと彼女には打ち明けなかったから落ちこんでいるのだろうか。いつもうざったいくらい明るいこいつが沈んだ表情をしているのを見ると、わけもなく胸が締め付けられて、腹が立ってくる。
「だから辛気くさいのやめろって。大変だねといちいち人にいわれんのがもううんざりだったから……おまえに限らず、自分から人には話さなかっただけだよ」
それに、慰めをいわれればいわれるほど、かえって不安が募るのだ。
僕は首をふり、自分にいい聞かせるようにつぶやいた。
「ほんとに大丈夫なんだ。難しい病気といったって、移植手術を受けさえすれば治るんだから」
「『手術』?」
とたん、自販機の精が顔をあげて目を大きく見開いた。急に彼女が間近に迫って「うわ!」と僕はのけぞる。
「……私は『手術』というものは話でしか知らないけれど、それをやれば君のお母様は治るの?」
「な……治るよ」
「ほんとに?」
「治るっていってるだろ!」あの夜父さんから聞いた話では、仮に手術にこぎつけたとしても成功率は現時点で半分。その確率はこの先母さんが苦悶の時を過ごし、体力が削られるほどどんどん下がっていく――でもすがるものなんてもうほかにない。「治るよ……治るに決まってる!」
「『手術』って、いつやるの」
真顔で雰囲気をはりつめさせ、自販機の精はたずねてくる。
僕はほぞを噛んで正直に告げた。
「はっきりした時期はわからない」
「え?」
「いつ手術できるかわからないんだよ……母さんがやらなきゃならない手術は、登録された提供者(ドナー)が死、えっと、提供できる状態になるのを我慢して待つしかないんだ。手術を受けたがっている患者は他にもいて、順番待ちだし……母さんも何年も待たされてる。順番はもうすぐ回ってくるはずだけれど……」
日々の薬代や入院費で、うちの経済状況は逼迫(ひっぱく)してしまっている。家を売る用意はしていると父さんはいっていた。いざとなれば親戚や氏子や他の神社に頭を下げてまわり、お金を借りることもできるだろうけれど……それにしても、先が見えないのは少々、きつい。
お金はまだいい。考えたくもないのは、待っている間に母さんの容態が決定的に悪化して手遅れになる事態だ。
呆然と視線をふたたび落としていた自販機の精が、思いつめたように発言した。
「私、力になれると思う」
「何を――」
口をつぐんで僕は彼女を見る。
ささやかだが不思議な力を持つ自販機の精を。
一気に口内が干上がったかのように感じる。僕の声はひどくかすれて響いた。
「まさか……治せるの? 母さんを?」
「ううん。前にいったように、治すのは私の力では無理。だけど……『手術』の日まで保たせるくらいなら、たぶん」
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