花霞 五話
僕は中学に入学した。
さすがにそろそろ清涼飲料のおすそわけをありがたがる年齢でもなかったが、僕は彼女から遠ざかることはなかった。むしろ毎日のように暇を見つけて彼女のところに立ち寄るようになっている。
求めているのは主に、彼女の歌の癒やし効果である。
「また何か聞かせてよ」
学校帰り、地面に尻をついて自販機の本体に背をあずけ、あくびしながら僕は彼女に要求した。
「それはいいけど……なんか最近、疲れてるね?」
自販機の精が心配気に眉を寄せる。僕はあくびしながら答えた。
「新聞配達始めたんだよ。朝が早いから眠くてさ」
僕は一部だけ正直に答えた。町中を駆けずり回っているのだから配達のことはどうせそのうちこいつにもバレる。
父さんの持ちこんだ内職を主に僕が片づけていること、学校から帰宅してそれに一日六時間ついやしていることなどは伏せた。
「新聞配達? なんでそんなことしてるの?」
「貯金が無上の趣味で」
「……君ってけっこうお金にがめつい子だね……私の本体から缶買ってくれることほとんどないし」
「いいだろ別に。たまに自分で買うときはいつもおまえんとこから買ってるんだから」
〽この夕ぐれの静けさに、
何とはなしに、おもひでに、二つの花の香を嗅ぎぬ。
歌が体に染みいってくる。
他の人間におよぼす影響ほどではないが、彼女の魔法は僕にもすこしは効くのだ。陶然と聞き入りながら考えるともなく考えた。
(心地いいな)
歌のことだけではなく、自販機の精といっしょにいると、空気が楽だ。
会話していようと沈黙していようと気詰まりがみじんもない。考えてみれば、そんな相手はけっこう貴重かもしれない。
そのままうとうとしてしまったらしかった。
「少年、少年。起きて」
揺すぶられて目を開ける。自販機の精が困ったような微笑みを浮かべ、のぞきこんできていた。
「もう夕方だよ」
「えっ? うわ、やべっ……」
いつのまにか日が暮れて、宵闇が路上をおおっていた。
うとうとどころか、こころよすぎて完全に寝入っていたようである。僕はすっかり狼狽して立ち上がった。
(今日のぶんの内職始めるのが遅れた)
起こしてくれればよかったのに、といいかけたが飲みこんだ。自販機の精は良かれと思って僕を起こさなかったのだろうから。
とりあえず“じゃあまた明日”と彼女にあわただしく別れを告げようとする。だが、自販機の精は進み出てきて僕のとなりに並んだ。
「暗くなっちゃったからね、送ってあげるよ」
「え……いいよそんなの」
暗いといってもまだ宵の口だ。だいたいこのあたりはすこぶる平和な土地柄で、変質者も不良もいない。いるのはおせっかいな付喪神だけだ。
しかし自販機の精はうっとうしげな僕の反応を意に介さなかった。
「子供が遠慮するんじゃないの、今夜は月がないから歩いてるうちにすぐ暗くなるよ。君が前に橋から落ちて怪我したのも、暗くなってからだしね。私は夜目が利くから、先導してあげる」
「子供って……僕はもう中学生だよ」
「中学生はまだ子供でしょ。おとなしくお姉さんのいうことを聞きなさい」
「なにがお姉さん――お、おいこらっ」
手をきゅっと握られた。
温かくやわらかなてのひらと、細くしなやかな指の感触に、不覚にもどきりとする。
文句をいおうにも舌の付け根まで硬直してしまい、とっさに声が出なかった。どぎまぎしているうちに「さ、行こ」自販機の精は僕の手をひいて歩き始めた。
つないだ手をふりほどくには機を逸した感がある。僕はため息をつき、まあいいかとあきらめた。こいつの姿が人に見られることはない。なので、気恥ずかしくても我慢できないほどじゃない。
「あ、小川のほう見てごらん少年、ホタルが飛んでるよ。今年最初かな、ちょっと早いね」
「もうじき見飽きるくらい飛びだすって……うちの近くのこのへんはど田舎で、川がきれいなくらいがとりえだからな。毎年たくさん湧くんだよ」
「なんでそうひねくれて風情がないこというかなあ。私好きだよ、このあたり」
姉貴ぶる自動販売機に手をひかれながら帰る、妙にくすぐったい気分の初夏の宵。
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