花霞 四話


 いかに歌や花のおまけがついてこようと、自販機の精そのものと同じく、それらの存在は僕以外に認識されていない。だから「なぜか心身が楽になった」ことと「その前に自販機で缶を買った」ことに因果関係があると知る客なんかいないはずだ。

 なんだけど、リピーターの多さをそばで見ていると、人間って無意識でもこころよさには反応して体で覚えるんだなあと納得する。


 ……しかし自販機の精は、たまに本体を残して散歩や花摘み(トイレに行くことの隠語じゃないよ)に出かける。その間に買った客には当然おまけがついてこないわけで、そうなると彼女の本体はただのボロい自販機である。自動販売機としてのモラルとやらはどうした。

「だって一日中ずっとおなじことやってたら飽きるよ」ユルい付喪神の弁。

 とはいっても、人間基準でいうと自販機の精は勤勉に働いているほうだ。休日なんてないし。

 あまり客が来ない時間帯になると、竹ぼうきで文房具店の前を掃いていたり、火箸にゴミ袋をたずさえて路上のごみを拾ってまわったり、美化活動にいそしんでいる。おかげでこのあたりの道路や公園はやたらクリーンだ。清掃道具は文房具屋のものを使っているという。彼女が道具を手にしていても通行人は目さえ向けないので、どうやら道具もいっしょに見えなくなっているようだ。


 なお公園のベンチに新聞や小説などが放置されることがある。自販機の精はそれを拾ってきて、処分する前に目を通しているようだ。


「ううう、この読み物は初めて読む種類だけどわけがわからない」


 目をぐるぐる回してオーバーヒート気味の彼女の手元を横からのぞきこみ、僕は彼女と同じくらい真っ赤になった。


「それはポルノ小説、俗にエロ本というんだよ自称神の端くれがんなもん読むなよ!」


 なぜ僕が単語を追っただけでそれがポルノだとわかったかというと、クラスメートが教室に持ってきたブツを男子全員興味しんしんで読み回したからだ。しかし神職にたずさわる家の子としては、付喪神だろうとなんだろうと神と付いたものがヨゴレアイテムに触れているのを放置するわけにもいかない。

 だからお願いだ。だれのしわざか知らないが、フ○ンス書院は処分するなら指定された青少年有害図書回収ポストに捨ててほしい。でないとアホな付喪神が拾い読みする。



 次の日の放課後に行くと、彼女はまだエロ本を持っていた。


「手放せバカ」


 即投棄すべく取り上げようとしたが、意外なことに、自販機の精はかたくなに抵抗した。奪われまいと涙を浮かべて胸に抱きしめまでしている。


「なにしてんだよ。よくわからないもの読む必要ないだろ」


「だって、見てごらんこの本、こんな新品だよ。私くらい最後まで読んであげなきゃかわいそうじゃないか」


「……よくわからないこといい出した」


「これまで拾ったもののなかでもいちばん真新しい状態……買われてすぐ捨てられたんだよ、きっと」


「そりゃ……しょせんエロ本だし。そういう雑な扱い受けることもあるんじゃないかな」


 どこかのおじさんが買ってみたはいいけれど、読んでみたらぜんぜん趣味に合わなかったので適当に放り出した。事情はそんなところじゃないだろうか。

 いずれにしても僕にはさほど深刻なこととは思えなかった。だが自販機の精の声はしんみりして辛そうである。


「だれかに読まれるために生まれてきたんだよ、書物というものは。たくさん読まれた末に捨てられたのならまだしも……これじゃ生まれてきた『意味』がほとんどないじゃない」


「……もったいない、ってこと?」


「違うよ……ううん、本質では違わないのかな? ねえ少年、だれかに生み出された物はたいてい、なんらかの使命を与えられているんだよ」


「使命……」


「それぞれが『これこれの使途に用立てるもの』という明確な存在理由を持って生み出されてきたの。私たちはそれを全うするために存在してる。たとえば服は人にまとわれるため、車は人を乗せて走るため、私の本体であるこの自動販売機は人に缶飲料を売るため。私は、私を生み出した本体の、その役割をサポートするため。

 そしてこの本は、人に読まれるために存在してる」


「う、うん」


「使命をじゅうぶんに果たせず、生まれてきた意味を全うできなかったら、この本の無念さは想像するに余りあるよ!」


「わかった、いいたいことはなんとなくわかってきたから落ち着け」


 こいつは同じ人工物の立場から同情を覚えているらしい。ろくに人の役に立てないうちに捨てられたらしき新品同然のエロ本に。


「うーん、理解はできなくもないけど、そういったってさあ……」


 聞いた話によればエロ本にかぎらず、本屋じゃ売れなかった本がどばどば返本されているという。受難はこの本だけじゃない。

 それを聞かせると自販機の精は肩を落とし、どんよりと雲を頭上にただよわせはじめた。


「なんで現代の人間は自分たちが生み出したものをろくに使ってあげもしないんだい……」


 まずい。本気で落ち込んでる。大量廃棄社会を嘆く自動販売機。

 ひとつ解決策を思いつく。ためらってそわそわしたあげく、けっきょく僕は申し出た。善意で。


「じゃあさ、とりあえずその本は僕が引き取ってやるから。なるべく多くの友達に読ませてみるよ、それでいいんだろ」


 クラスの男子のあいだで回覧しよう。

 いや、かさねていうがこれはあくまでも善意であって……


「ほんと!? ありがとうっ」


 ……ほら、自販機の精だって喜んでるしいいじゃないか。

 あわただしく本をランドセルに隠し、別れを告げる。帰る途中、ふと自販機の精の言葉が気になった。


(『本体の存在理由は缶を売ること』『あいつ自販機の精の存在理由は本体を助けること』……なんでわざわざ分けた言い方したんだろ。根っこは同じものでも、あいつの存在は本体からは独立してるってことなのかな)


 たいして気に留めず、すぐに忘れてしまった。

 後年、その会話が重大な意味を持っていたことに気づくのだが。


     ●   ●   ●   ●   ●


 月が明るい夜だった。

 帰ってきた父さんは、細長い顔にやつれた笑みを浮かべて、玄関で僕に紙袋を手渡した。


「寄り合いで、区長さんがおまえにとお菓子をくれた」


 僕は無言で紙袋を受け取った。うちの神社の氏子(地域に住む先祖代々の信者)の人たちは、最近よくこうした親切を僕に示してくれる。


「道で会ったらお礼をいうんだぞ」


「……うん」


 僕は白衣に袴という神主の日常着姿の父さんを見上げる。かれの頭は銀灰色。まだ三十歳そこそこなのにめっきり白髪が増えていた。


「なんだ、家中暗いじゃないか……電気くらいつけて過ごせ。節約しようとはいったが、夜なんだから」


 衣装だんすのある座敷に父さんは足を向けた。その後ろを僕は黙りこんだままついて歩く。僕の様子にすぐ気づいた父さんはふりむいて、「……どうした」と聞いてきた。


「あの、父さん」


 僕はなるべくさりげない口調をこころがけながら切り出した。声が震えてしまったので、まるで無意味だったけれど。


「ずっと……ちゃんと知っておきたかったことがあるんだけど」


 座敷の電灯のひもに手を伸ばしたところで、父さんは動きを止めた。

 庭に面した縁側からさしこむ月光が、僕を見つめる父さんの削げた頬をしろじろと照らしている。

 困惑や動揺はそこにはいっさいなかった。ただ父さんは静かに、僕の質問を待っていた。かれは予測していたのだろう。いつかこうして、僕がもっと詳しい事情を聞かせてと求めてくることを。

 僕はうながすようなかれの目を見て、口を開け、息を二三度吐き、


「あ、あの、付喪神って神なの妖怪なの?」


 直前で怖気づいて質問をとっさに変えてしまった。……僕のヘタレ……

 虚をつかれた様子で父さんは目を丸くする。


「……アニメかなにかの設定の話か?」


「そっ、そう。妖怪なのに神ってついてるじゃない、あれどういうことさ」


「そうだな……あえてわかりやすくいえば、この国古来の神々と妖怪とは、根が同じものだ」


「同じ……なの?」


「『昼は五月蠅さばえなす水沸き、夜は火瓮ほべなすかがやく神あり、石根いはね木立こだち青水泡あおみなわも事問ひて荒ぶる国なり』――この国の原初の光景はかような、八百万の神霊たちの狂騒だった。火にも木にも岩にも水の泡にも羽虫の群れのごとく霊が宿り、やかましいほどに口をきいていたとされる」


「み、水の泡? すぐ消えちゃうそんなものにも神様が宿るの?」


「米粒、炉、灰……自然物人工物問わず、あらゆるものにだ。付喪神というのはそういった原初の神に近い存在だな。

 それらあらゆる霊たちを人は崇め、『神』と呼んだ。ところが万象に宿る霊を素朴に敬えばよかった上古と違い、時代が下るとやしろまつられる対象カミが厳格に定義されはじめた。正式に祀られずあぶれた雑神が妖怪と呼ばれるようになっていったのだ、乱暴にいえばな。

 納得したか?」


 僕がこくこくうなずくのを認めてから、電灯のスイッチ紐を父さんは今度こそ引いた。


(そっか、あいつほんとに神様のはしくれなんだ。神ってものが全部が全部すごい力があるわけじゃないってだけで)


 かねてからの疑問が解けてその点は満足しつつ、一方で僕はおおいに自分を罵っている。


(今日こそは余さず聞かせてもらうつもりだったのに……)


 うなだれている僕の頭頂に、父さんの声がふってきた。


「そういうことが聞きたかったんじゃないだろう……聞きたいなら話してやる」


 驚愕して僕は顔を上げる。父さんが僕に明かすつもりになっていることがにわかには信じられなかった。

『子供が気に病む必要はない、おまえはなにも心配しなくていい』――僕がそれとなく聞きだそうとしても、これまで父さんはそう口にするばかりだったのに。


「おまえももう中学生になるからな……きちんと教えておいてもいいだろう」


 蛍光灯の明かりの下、たたみに座りこんで父さんは語りはじめる。


「母さんの病は――」


 うつむき気味のその表情は、月光のなかで付喪神のことを講釈してくれた先ほどまでより、はるかにかげりを帯びて見えた。父さんもひとりで抱えこむのは限界だったのだろうと、聞きながら僕は頭の片隅でぼんやり悟った。

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