花霞 二話
退治することに失敗して泣きながら逃げ帰ったのち、僕は前にもましてびくびく日々を過ごしていた。呪われやしまいかと、極度の不安にさいなまれていたのである。そういう凶事はいつまでたっても訪れなかったが、それでもあのおばけの報復を僕は恐れつづけた。
……そのまま交流もなく大きくなれば、いまでも僕は彼女を忌み嫌っていたかもしれない。
事情が変わったのは、小学二年生の春の出来事でだった。
それはよく友達と集まって遊ぶようになったころの話だ。その日はついつい夢中で遊んでしまい、気がつけばあたりが暗くなりかけていたのである。
友達に手をふり、田園のなかの細道をたどって家路につく。歩きながら幼い僕は不安が高まるのを覚えていた。
(はやくかえればよかった……)
夜に出歩いたことがあまりない幼子のことである。故郷の田舎町であっても、黒々としているだけでまるで別世界に見えた。しかも悪いことに僕の家は山ぎわ。あまり人家や街灯が多くない、夕闇ひときわ濃い場所にあるのだ。
逢魔が時という呼び方を知ったのはもっとあとのことだが、そのときの僕はまさに魔物にでくわす可能性におびえきっていた。
(あのおばけに出あったらどうしよう)
びくびくしながら、崩れかけの土塀をもった古家のある辻にさしかかる。
肝をつぶしかけた。
「あ、神社の少年」
和服のあの女が辻を曲がったところにいて、僕を見るなり呼びかけてきたのだ。川に面した路上で、なぜか手製の看板のようなものを抱えている。墨をふくませた筆で、看板になにやら書こうとしているところのようだった。
「ちょうどよかった。君が私に対してやった狼藉は許しがたいけど、それどころじゃないから忘れてあげる。あのね、私の言葉を聞ける君に、みんなに伝えてほしいことが……」
「ひいっ」
伸ばされた手をとっさにかいくぐり、猛烈な勢いでダッシュする。
「あっ、ま、待って!」
背後から追いすがってくる気配に、僕は真っ青になって逃げ足を速めた。
「逃げないで! 待ちなさいっ」
「くるなぁ! まつわけないだろっ」
女のおばけの声にいっそう恐怖がこみあげる。一刻も速く家に逃げこみたかった。さいわいにして家は遠くなかった、川を渡って坂を駆け上がればもうすぐそこなのである。
そして、近道を僕は知っていた。
もう目前にある、小川にかけられた古い木の橋。
その朽ちた橋には手すりすらない。腕ほどの太さの丸太三本を両岸に渡し、上に板をかけて釘で打っただけの、あまりにも簡素で粗末な橋だ。幅が狭いため自動車は通れない。
『畑をたがやすのに牛を使っていたころからある橋だなあ。危ないからこの上を通っちゃならんぞ』
そう近所のおじいさんに聞かされたことがある。しかし、僕を含む子供たちは、大人の見ていないときはよくこの小橋を使っていた。
なにしろ毎日のように、遅刻しそうな中学生が小橋の上を駆け、自転車が走る。農作業をしている老人たち自身がひんぱんに渡っている。小さい僕らが渡っても壊れるはずがない、と思いこむのは無理もなかったし、現にずっとそうだった。
だから僕は、なんのためらいもなく、
逃げるために、勢いよく木の橋に駆けこみ――
「だめえっ!」
背後で、おばけが焦りの叫びをはりあげた。
「その橋は
みしっと足の下で、腐った板が軋んだ。続いてばきりと板の下でなにか(おそらく丸太だったろう)が折れる音……あんないやな音を聞いたことはそれまでなかった。
次の刹那、僕は板を踏みぬいて落ちていた。
その小川の水深は三十センチほどだが、橋と川面の高低差は二メートルあった。
着水したのは足からだったが、川床の苔むした岩は一瞬で僕の靴底をすべらせた。僕は落下した勢いのままあおむけに転倒して盛大な水しぶきをはねあげる。口から気管へと一気に水が流れこみ、同時に衝撃がぐゎんと後頭部で炸裂し……
ぼんやり目を覚ますと、涙声が間近で謝っていた。
「ごめんね、ごめんね」
ぐったりした僕は女のおばけの背におぶわれ、家へと運ばれているところだった。頭はずきずきしていて、髪から靴下までぐしょぐしょに濡れていた。
「橋のテンメイがもう尽きて壊れそうだから、だれかが大怪我しないよう人間に伝えなきゃって思ったのに。君を怪我させることになっちゃった」
(……よくわからないこといってる……)
あれほど避けてきた彼女に捕まっているのに、僕は恐怖をまったく感じなかった。その理由の一端はおそらく、警戒する気力もないほど消耗しきっていたからだろう。
だがそれだけではなかった。うちしおれた様子の彼女のしゃくりあげを聞いているうち、理屈ではなく心に染み透ってきたのだ。彼女にはなんの悪意もないのだということが。
なによりも、
(このおばけ、あったかくて、やっぱりみかんの花みたいないい匂いする……)
川水で濡れそぼった僕の体は夜気に冷えていたが、彼女の背と密着した部分だけはぬくもりを感じていた。人の体温とはまた違う、お日さまの熱のような温かさ。
「すぐ君の家に連れてくからね、少年。もうすぐだから」
彼女の涙まじりの声を聞き、その服や髪からたちのぼる橘の香気に包まれて、安心感がひたひた満ちていく。
白く優艶なうなじに頬を押しあてながら、僕は彼女への認識をあらためた。
考えてみれば、最初に喧嘩したとき相手の攻撃は普通の打撃だった。特に呪われたおぼえもない。いまはこうして運んでもらっている。
(こいつ、こわがらなくてもだいじょうぶかも……)
神社の鳥居と、道をはさんでその向かい側にある我が家の明かりが見えてきていた。
ひどいこぶが頭の後ろにできていたし、意識を失ったときに川の水をだいぶ飲んでいたようだが、おおむね大したことはなかった。
二日後、僕は自分からおばけに会いに行った。頭に包帯を巻いた僕がこわごわ歩み寄っていくのを見て、彼女は目を丸くした。
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