昔話 運命との出会い


 あれはちょうど数学の授業が終わった時のことだった。

 チャイムが鳴り、先生が授業の終了を告げ、委員長の掛け声に従って「ありがとうございました」と頭を下げて先生を見送る。

 先生がいなくなると同時に教室の空気は弛緩して、わいわいがやがやという喧騒に包まれる。

 高校生活が始まって二週間目。どっちかと言えば文系よりの僕の頭脳では早くも授業内容が意味不明になっていた。来週に控えた実力テストの結果が絶望的な予感がしていて、そしてそれ以上に人間関係は詰んでいた。

 なにせ、その時点で僕には友達が一人もいなかった。

 誰にも自分から話しかけられず、話しかけられてあいまいな笑顔で薄っぺらい受け答えしかできない僕に友達なんてできているわけなく、当然のようにぼっちだった。

 ぼっちなのは中学の頃からなれているし、僕の積極性皆無の性格は変えようがないレベルまで達していた。とりあえず意味がわかんない数学のことは忘れて次の授業の準備をしようと、思ったその時だった。

 クラスが、まるごと光に包まれた。

 そうして光が消えた時には、もうそこは異世界だった。

 切り替わった景色に何が起こったか、最初はまるで理解が追いつかなかった。教室にいたはずなのに見覚えのない石造りの壁が目に入って、なんだか冷たそうだな、とぼんやり思ったのは覚えている。

 妄想癖と逃避癖のある僕だったけれども、それでも本当に異世界に来れるだなんて本気で考えたことなんてなかった。現実逃避にそこまで没頭できるほど振り切れてはいなかったのだ。だから異世界に来ただなんて発想は浮かんでこず、ただひたすらにわけが分からなかった。

 ただ情報が周りに伝播していくうちに、周りの状況が侵攻していくうちに、本当に今いる場所が本当に異世界なんだということが理解できた。

 異世界。まるでファンタジーのような世界。僕は物語のようにこの世界に来れたのだ。

 来たからなんだと思った。

 異世界に来たという事実は、クラスで孤立していたという以上の孤独感を僕に与えた。

 嬉しいわけがなかった。異世界に来たからといってあっさり思考を切り替えられるほど判断能力が高ければ、僕はもっとちゃんとした人間に育ったはずだ。

 でも僕は、いまも昔もこれからも、たいそうな人間ではない。

 飛びぬけた人間にあこがれて、平均より落ちこぼれる。普通になりたいと思っているのに、普通になる努力をする勇気すら持てない。

 そんな人間だ。

 人と関わる勇気を持てない僕が勇者になれるわけがない。相手の目を見て話すことすらできない僕は、どうせこの世界でも逃げ続けるに決まっている。そんなことぐらいは、バカな僕でも分かっていた。

 僕たちを代表して、女子の代表として委員長が、男子の代表として白鳥君が、僕たちを呼び出したという偉そうな人となにかを話していた。その人は、きっと王様だかなんだかだろう。そんな感じの服装をしていた。

 僕はそれを遠くから見ていた。彼らの会話に割って入ろうだなんて気持ちは一切湧かなかった。そもそも、何をすればいいのか何にもわからず、僕の思考は完全に停止していた。

 怖かったのだ。

 何が怖いのか。それすらよく分からずに怖がって、その時の僕はただ立ち止まっていた。

 ただ怖くて、理由すら探ることすらしない。昔から僕はそういう人間で、いつだって縮こまって生きてきた。逃げるために逃げることもせず、ただそこに立ち止まって周りが通り過ぎていくことだけを祈っていた。身体を小さくして、息をひそめてれば何もかもが通り過ぎてくれはずだと勘違いしたただの意気地ないしで、面白い要素が一つもなく、なんにもできない僕に関わってくる人なんているはずがないとそう思っていた。

 だから僕は、周りで流れていく状況に震えていた。そして、いままでのままならそのまま僕は押し流されて溺れていくはずだった。

 でも、違った。

 この異世界で、僕は出会ったのだ。


 ――こんにちは。


 それは、軽やかな声だった。

 心に染み入るような、警戒なんてあっさり溶かしてしまうような綺麗な声だった。


「だ、誰……?」

 ――あら? 私の名前を聞いてるの?

「ひっ」


 姿の見えない声におびえた僕に、隣にいた小柄な女子が不審そうな目を向けてくる。出席番号順で僕の前に席に座っていた女子で、飼葉貴樹という名前だけは憶えていたがどんな子だかは知らなかった。ただ、前の子がちっちゃくて黒板が見やすいかったから逆に印象に残っていたのだ。

 それに、その時の僕は彼女の不審そうな目を気にする余裕もなかった。


 ――そうね。初めましてだものね。自己紹介は必要だわ。ふふっ。名前を聞かれるのなんて、とっても久しぶり。


 僕の怯えに気付いた様子もなく、その声は無邪気に笑う。

 合わせる目もなく、見える姿もない。ただ声が聞こえるというだけで、でも、だからこそ僕の心に染みていく。


 ――サロメ。私の名前は、サロメよ。


 何が嬉しいのか、どこまでもどこまでも天を突き抜けるほど底抜けに陽気な声。そうして話しかける声に、いつの間にか僕の警戒心と怯えは解かされていた。


 ――それで、あなたは誰かしら。

「あ……ぼ、僕は、信一です。神坂信一、です」

 ――かんざかしんいち……神坂信一。わかったわ。とってもいい名前ね、信一!

「……っ」


 かわいらしい女性の声で名前を呼ばれ褒められて、顔を赤らめてしまう。異性に名前で呼ばれるなんて、ほとんど初めてのことだった。

 それが僕と運命との出会い。

 『運命』の女神、サロメ様。

 この世の誰よりもあの世のどの神様よりも心優しくて小さな心を持つ女神様。

 そうして、僕を初めて認めてくれた存在だ。





 その女神様がポンコツのチョロ神様だと気が付くのには、大変遺憾なことに三日とかからなかったことは明記しないと僕の気がすまない。

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