愛すべき、女神様


 昔の話をしよう。

 僕の信仰の墓場となった、魔王討伐の旅。

 その旅の果てで、僕は殴られていた。

 殴られ、蹴り飛ばされ、それでも僕は信仰を振るっていた。


「はっはぁ! この程度か、神の奴隷がぁ!」


 朦朧とする意識で、僕はそいつ目の当たりにしていた。

 そいつは、空恐ろしいほどの覇気をまとった偉丈夫だった。

 まるで物語の英雄にでも出てくるかのような美丈夫だった。一目見れば、そいつが傑物なんだとわかるほどの気配を身にまとっていた。

 その肌はおどろおどろしい黒に染まり、あふれる魔力が世界の摂理を拒否していた。

 この世界で生まれた淀みの頂点、魔王。

 僕の旅の終着点が、そこにいた。

 その拳がうねりを挙げて、僕の魔力強化すら打ち抜いてダメージを与える。

 魔力強化を撃ち抜かれ、再生すらも間に合わず、僕はかつてないほどボロボロになっていた。

 それでも僕も戦わなければならない。だから僕は信仰の槌を振り上げ


「その程度で! 貴様はこの俺に挑むのかぁ!?」

「ッ!」


 吹き飛ばされた。

 強烈に放たれた一撃に耐えられる力もなく、無為に吹き飛ばされた。

 この場で意識のあるのは、僕と魔王だけだった。


 ――……信一。

 ――はい。大丈夫です。


 サロメ様を心配させないために、僕は痛みなんてなかったかのように立ち上がる。

 ウィー・ファンは、魔人の別働隊の相手をしている。小日向君は、馬上用の大剣で串刺しにされて地面に縫い付けられていた。貴樹ちゃんは空から強襲をかけたところを撃墜されたショックで騎獣もろとも意識を失っているようだ。委員長はいない。戦闘向きでない彼女はそもそもこの場に来ていないから、もしこの場で負けても彼女だけは生き残るだろう。

 まあ、全部どうでもいいことだ。

 立とう。

 立って、戦おう。

 だから僕は立って、また殴られた。


「この世界に神などいらん! 意思のある神に何の価値があるっ。この世界を歪める存在を何故あがめる! 貴様らには考える頭がないのか!?」


 考える頭ならある。

 サロメ様のことを考える頭が、僕には付いている。

 こんな不愉快な言葉、サロメ様にこれ以上聞かせるわけにはいかない。

 信仰の槌を握りしめる僕に、魔王は不愉快さからか顔を歪める。


「それだっ。その考えなしの貴様らが! 能なしの貴様ら人類がいるから神が増長するっ!」


 叫ぶ魔王の主張なんてどうでもよかった。あたり一帯を圧倒する魔王の怒りなんてどうでもよかった。

 僕は神意に従うのみだ。

 だから僕は槌を振るう。何も考えずに、それが信仰であるのだと思い、思いの丈を振り落とす。魔王がそれを強靭な腕で振り払い弾き落とす。


 ――ねえ、信一……。


 考えることはせず、感じることもなく、ただ僕は信仰に従う。

 きっと殺されるだろう戦いの最中でも静かで固まった心に、恐怖は浮かばなかった。喜びははじけなかった。それが心と言っていいのか、自分でも分からなかった。

 死ぬかもしれない。でもいいだろう。


 ――信一……一つだけ聞くわね。


 僕は、信仰に殉じるのだ。


 ――神意って、なに?

 ――サロメ様のことです。


 即答してもう一度槌を振り上げて、


 ――……そっか。


 僕の思考が停止した。

 戦うことも、動くことも、息をすることすら忘れて停止した。

 確かに、一瞬前まで僕と魔王しかいなかったのに、魔王と僕との間に、一人の女の子が現れたのだ。


「……何故だ」


 呆然とした声は、魔王の口から漏れて出た。

 僕は、言葉も出なかった。


「何故、貴女が姿を現す……!」


 そこに、一人の女の子がいた。

 腰まで伸びた亜麻色の長い髪が特徴なだけの、ただ素朴で、少しだけかわいらしい女の子がそこにいた。

 彼女は、魔王の言葉を否定も肯定もしなかった。自分から名乗るような自己主張もしなかった。


「なぜいま姿を現した、運命の女神!」


 それは間違いなくサロメ様だった。

 名乗らなくても、見たことがなくても、そこにいるのがサロメ様だってことが、なぜだか分かった。

 僕がおぼろげに想像していたような女性ではない。

 なんとなく、僕よりずっと大人で、いつでも穏やかな微笑みをたたえて、母性にあふれていて、あとおっぱいがおおきい女性を想像していたけど、ぜんぜんそんなことはなかった。

 ただ当たり前の女子の姿をしたサロメ様が、透き通るような半透明な影のような存在のサロメ様が、僕をかばうように両手を広げ、僕の前に立っていた。


「助けるのか!? あなた達がこの世界に関わる必要はないと、少なくとも貴女だけはそう思ったはずだ!!」


 魔王の怒気にただ両手を開いて涙を堪え、僕の前に立っていた。

 なんで、と思った。

 サロメ様の臆病さは、僕が一番知っている。戦場に降りてくるような心を持っていない。殴られるのを堪えるような勇気はない。サロメ様は、臆病なのだ。実際、怖いのだろう。この場に立つサロメ様の手足は細かく震えていた。

 魔王の問いに、サロメ様が口を開く。


「……この子が」


 その姿を見て、その声を聞いていると、僕の心のどこかで何かの音が鳴った。


「いま、人生で一番不幸だから」


 信仰に満たされていた僕の器に、ひびが入った。


「だから、話を聞いてあげたいの」


 信仰に浸っていた僕の心が、粉みじんに砕けて散った。

 信仰よりも尊いなにかが、僕の心に流れ込んできた。

 魔王が、拳を止める。呆然とそこに降り立った神に見入っている。魔力に対する敵意で構成された象徴である彼の拳を止めるほど、その言葉は尊かった。

 だが、それも短い間のことだった。


「……そこにいるあなたは、しょせん現身ではなく写し身だ。影だけ投影した身で、何ができるわけでもあるまい」


 その言い分に、なぜか無性に腹が立った。

 何を言ってるのだろうか、こいつは。サロメ様は、ただ僕と話に来たのだ。


「消え去れ。俺たちは、それが貴女であっても許さん。この世界に、神はいらん」


 それを、何を勘違いしている。

 この偉そうなクソ魔人は、魔王なんて呼ばれて調子に乗っているクソは、何とんちんかんな言葉をサロメ様にぶつけているんだ。お前の説教を聞くために、サロメ様は僕の前に来てくれたんじゃないんだよ。


「存在するだけで世界に影響を及ぼし摂理をゆがめるあなた達を、俺たちは決して許さん。いいや、許せんのだ」


 おい、ふざけんな。

 よりによって、サロメ様にさ。

 世界で一番臆病で、気が小さくって、優しいサロメ様にさぁっ。


「だから、お願いだから自分の意志で消えてくれ。でなければ――」


 しゃべることしかできなくて、話すことしか良しとしなかったサロメ様にっ、拳を向けんなっ!


「……ッ」


 立て。

 自分に命令を下す。自分で自分に命令するなんて、思えば生まれて初めてなのかもしれない。他人にも、自分にも、僕は何かを強制したことがない。そんな強い意思が何にもない。他人に言われることを何も考えないで受け取って、あやふやなまま行動するのが精いっぱいな人間だ。流されるのが当たり前の人間だ。

 でも、立て。

 いまこの時だけでも、自分の意思で立て。

 立って、やることがあるだろう。

 いくら僕がバカだからって、そのくらいは分かるだろうっ。

 とっくのとうに限界を迎えていたはずの身体が、軋みをあげる。

 きっと今の僕は命を燃やしている。その自覚があった。でも、いいと思った。死んでもいいだなんていう諦めじゃなく、死んでもやらなくてはいけないという思いが燃えていた。


「貴女の意思でここから消えないというなら、ただの影とはいえ俺が――」

「黙れ」


 立ち上がった僕は、サロメ様の前に出る。

 サロメ様を泣かしたクソ野郎を、許しておくわけにいかない。いますぐぶっ殺してやる。

 魔力強化が、かつてないくらいみなぎっている気がした。

 身体がごうっと燃え上っている。心がぐるぐると駆動している。

 目をぎらぎらと怒らせて、僕は僕の意志で魔王に敵意をぶつける。


「サロメ様は、神様だ。お前なんかがサロメ様を否定するな」

「ほざけ。人間」


 前に出た僕を見て一瞬だけ目を丸めた魔王が、やたらと楽しそうに笑った。


「お前は、このひとの何を持って神とする」

「簡単だ」

「ほう? あまたに遍在するあり方か? 全治であり全能であり、無知であり無能であるあり様か?」

「違う。そんなどうでもいいことじゃない」

「ならばなんだ。答えろ人間!」

「サロメ様はなぁっ」


 それに対する答えなんて、決まりきっていた。

 サロメ様は、やさしかった。

 サロメ様は、いつだって笑ってくれた。

 サロメ様は、いつだって僕に話しかけてくれた。

 運命なんて、どうでもいい。信仰なんてクソ食らえだ。いま気がついた。信仰なんて、犬の餌以下のどうでもいいものなのだ。


「僕の、女神様なんだよ!」


 そう叫んで、信仰の槌を振り抜いた。






 魔王にたたきつけた一撃の結果を述べよう。

 あの時の僕の一撃は、魔王を傷つけることはなかった。

 全くのノーダメージだ。

 けれどもそれを受けた魔王は、げらげらと楽しそうに笑って帰って行った。

 僕は、あの瞬間に狂信に満ちた魔力強化を失ったのだ。

 あの時振り下ろした槌は、魔王を一切傷つけることがなかった。僕の信仰は、あの瞬間

大きく質を変えたのだ。

 僕が、サロメ様の姿を目にした瞬間。

 信仰が恋に変わったあの時に、僕の魔力強化は大幅に減衰した。

 だって僕は、サロメ様に恋をしたのだ。信仰心がそがれるのも、当たり前だろう。

 そうして残された僕とサロメ様は、なんとなく気まずい雰囲気で向き合っていた。


「ええっと……」


 その気まずい雰囲気の中、最初に口を開いたのはサロメ様だった。


「ほら、私、信一のお話を聞きに来たの! だから、何か話して。話し相手になることだけは、できるから」

「あの、サロメ様は……」

「うん。なぁに?」


 見える体があると、緊張感が段違いだ。

 もじもじと顔を紅潮させる気持ち悪い僕の態度に、やさしくほほ笑んでくれる。


「ええっと、そのぅ……」

「その?」

「おっぱいちっちゃいんですね」


 ぴしり、と空気が凍ったの感じた。

 ぶっちゃけいうと、その言葉はただ照れ隠しだった。

 精神年齢が小学生未満の僕による、割と最低なごまかしだった。

 ついでに僕が、生まれた初めて空気を感じとれた瞬間だった。


「う」


 じわり、と目じりに涙がたまって


「うぇええええええん!」


 サロメ様は、それはもう盛大に泣き叫んだ。

 泣き叫びながらその姿を光に変えて天に還った。

 以来、サロメ様は自分の胸がコンプレックスとなった。

 なんか、僕がサロメ様のおっぱいを見て信仰を大幅に減らしたんだと勘違いしたらしい。

 バカだなぁと思う。

 お馬鹿でかわいいなぁとも思う。

 僕の魔力強化が弱くなったのは、サロメ様に恋をしたからだ。おっぱいがちっちゃいからって信仰心減らす変態が、この世のどこにいるのだろう。別に僕、おっぱいにこだわりはないし。

 でも、サロメ様らしいかわいい勘違いだから、黙っている。

 サロメ様はかわいい。かわいいだけの女神様で、かわいいだけが存在意義の神様で、運命なんて大層なものを司っているなんて事実がどうでもよくなるくらいかわいいだけの。

 僕の愛すべき、女神様だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る