信仰を振り下そう


 ――ひっく……しんいち……死んじゃわないで……


 サロメ様が泣いていた。

 その泣き声を聞いて、サロメ様に名前を呼んでもらって僕が目を覚まさないはずがなかった。

 どうしてサロメ様が泣いているんだろう。何であれ、その原因を取り除かなければならない。この世で最も尊き心を陰らせる存在は、撲滅しなければならない。

 僕の、信仰に懸けて。

 びきばきぼきと変な音を立てて傷が修復されていく。魔力強化に沿って存在を強化された僕の自然治癒力は我ながら異常だ。『慈悲』の加護をもらった石屋さん助けを必要としなくなって久しい。

 けど、そもそも僕の魔力強化をぶち抜けるような相手は、そういないはずなんだけど。


 ――あ、信一! 良かった。起きたのね。

 ――はい。大丈夫です。


 サロメ様を心配させるわけにいかないので何事もなかったように目を開けると、クソ虫みたいな雑魚がいた。

 二メートルを超える、人型の魔物。甲殻的な筋肉おおわれた体と額に生えた一本角から察するに、オーガだ。お話にならないくらい弱い魔力の魔物である。

 それが、穴の上から僕をのぞき込んでいた。

 ……なんで僕、穴に落ちてるんだろう。

 謎だ。大いなる謎だ。というか、なんか頭が痛い。もしかして、頭をぶつけたのだろうか。記憶がぼんやりしているような……いや、うん。まあいつも通りな気もする。あれかな。僕、クラスメイトの誰かが悪ふざけで掘った落とし穴にはまったのかな。覚えてないけど、ありそうだ。

 とりあえず、穴から出よう。

 まずは穴をのぞき込んでいるオーガーがうっとうしかったから、軽く、手で振り払った。

 それだけで目の前の雑魚の腕が、右胸の辺りから消失した。

 余波でオーガが遠くに飛ばされる。まだ生きてるみたいだけど、ほっとけば死ぬ。せいぜいが、中級下位。四肢の欠損を再生できるほど上等な魔物にも見えない。

 しょせん、あんな魔物は些事だ。そんなことより、僕がダメージを受けているという事実の方が重大だ。まさか穴に落ちただけでダメージを負うほど、僕の魔力強化は脆弱ではない。

 僕の魔力強化を、僕の信仰をぶち抜いた相手がいる。

 サロメ様に捧げている僕の信仰を、穢したクソがどこかにいる。

 そうして立ち上がって、ふと足元にクワが落ちていることに気が付いた。

 ……何だこれ。どうしてこんな場所にクワが? 意味が分からない。しかも折れている。バキバキに折れて使い物にならない状態になっている。


 ――ああっ、弁償……。


 サロメ様がよくわからないことを言っていた。

 試しに持ち上げてみるが、どうしようもなく壊れている。

 それがなんであれ、僕が使っていて壊れるわけがない。魔力強化とはそういうものだ。その人が持っているものすべての強度を、跳ね上げる。

 使い道が分からないクワは、ぽいと捨てる。

 僕の武器は……ああ、あった。何か知らないけど、足元の地面に半分くらい埋まっている。この穴の底にあるってことは、誰かが埋めたのだろうか。こういう嫌がらせをするのは、たぶん星輝さんだ。あの人、僕のこと嫌いだからなぁ。……ん? でも星輝さんって、頭おかしくなって僕のことおそってきたから、返り討ちにしてもう旅の戦列から離れたような……あれ?


 ――信一? どうしたの?


 つながらない記憶に首をひねっていると、何よりも優先されるべきサロメ様の声が聞こえた。

 ああ、だめだ。星輝さんなんて些事に、僕の事情なんていうどうでもいいことにサロメ様を煩わせるわけにはいかない。


 ――何でもないです。


 サロメ様を心配させるわけにもいかないので、今ある困惑をさっさと投げ捨てる。

 疑問なんていらないのだ。僕に必要なのは、考える頭でも行動する手足でもなく、信仰すべきサロメ様だけだ。サロメ様だけが残っていれば、ほかの何も必要ではない。

 信じることをためらう人間に、信じる資格などありはしない。

 魔力強化によって跳ね上がっている肉体能力に任せて、僕は地面に埋まっていた儀礼武器を引き抜いた。

 柄の長さが一メートルほどある、シンプルな形状の槌。僕が教皇との面会を果たすことで信仰を認められ、枢機卿の地位を与えられたときにもらった武器だ。

 僕の信仰の象徴である。


 ――信一!? あなたもしかして、殴られて記憶が……!

 ――あー……はい。ちょっと。でも、大丈夫ですよ。


 さすがに、ごまかしきれなかったようだ。でも大丈夫だ。記憶がなくとも信仰はなくしていない。ならば、僕はどうとでもなる。

 まず、僕にダメージを与えた魔物を探して殺そう。許せるはずもない。僕に傷をつけ怪我を負わせたということは、僕の信仰を汚したと同義だ。見つけ出して絶対にぶっ殺してやる。

 それから、はぐれたのかな? みんなと合流しなきゃいけない。まあ、それは後でいいや。おいおい見つかるだろうし、委員長の探索能力があればはぐれたままだということはまずあり得ない。委員長が場所特定して、貴樹ちゃんが空から迎えに来てくれるだろう。

 だから、心配する必要はない。

 さあ、始めよう。

 世界を、信仰にくべるのだ。

 自分を、ゆっくりと広げる。世界に漂う魔力に自分を任せる。ゆっくと自分を世界に浸し、広がった世界をくべていき、それを――強化する。

 魔力探知と魔力強化の合わせ技。魔力を探知するため世界に広げた自分を強化する魔力強化は、広げた範囲の世界と自分を同化させる。魔力探知の時に五感が消えうせるのは、しごく自然なことだ。

 世界と僕が、一つになる。

 そうして統合された世界の中に、異質な魔力が二つあった。

 一つは、せいぜい中級下位の雑魚。さっき吹っ飛ばした死にぞこないだ。

 そしてもう一つ。魔人の域に足を踏み入れた、上級の魔物の魔力。世界に満ちる不偏の魔力にあらがっている不純物。

 ああ、あれだ。間違いない。

 あれくらいなら、あるいは僕の信仰を抜けるかもしれないほどの力を誇っている。

 つぶさなきゃ。

 あれは、神意に反する世界の害虫だ。

 自分の動作を、イメージする。山一つ離れた遠く離れた魔力のよどみにを押しつぶすべく、槌を、振り下ろす。

 僕と同化して強化された世界が同調した。

 天から降り降ろされた僕の信仰が、地面を揺るがした。僕とまじりあって強化された世界の一部が遠くの山の一角をえぐり取り、大量の土砂を跳ね飛ばす。

 風景が変わるほどの異変を起こした僕は、顔をゆがめた。

 駄目だ。外した。

 さすが上級の魔人ということか。あの範囲から逃れて見せた。

 おおざっぱすぎるというのはよく言われたものだ。ウィー・ファンだったら、もっと精密に捕縛して見せることすらできる。でもあの人、頭おかしいからなぁ……。

 感じた魔力からして、上級の中位くらいだった。魔人だったら僕の魔力強化を見たら血相を変えて襲ってくるんだけど……なにか、守るものでもあったのだろうか? さっきの一撃をよけたのはともかく、逃走している。

 まあいいや。

 もう一打、振り下ろすくらいの余裕はある。

 改めて信仰を振り下ろそうと狙いを定めている僕に、そっとサロメ様が声をかける。


 ――ねえ、信一。

 ――はい。なんですか、サロメ様。


 ぽつりと、サロメ様が声をかけてくる。


 ――これは、私のわがままなんだけどね。


 どうしたんだろう。


 ――私の声を、聞いて?


 聞いてる。

 サロメ様の声を聞き逃したことなんて、一度もない。


 ――だからね、信一。お願いだから、私の話を聞いて。……こういうのは、もう、嫌なの。


 こういうのって、どういうのだろう。僕は昔も今もこれからも、こんな感じだ。まあ、サロメ様の言葉が理解できないのは僕の頭が悪いからだ。理解できずとも、一字一句

 信仰を振り落として、今度こそ魔物を叩き潰してやろうとして


 ――だから、ね。


 サロメ様が一拍の間をおいて、息を吸う。

 そうして、ひときわ加護を強くして、言った。

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