信仰を磨け
信仰を磨け。
心を信仰で満たせ。
信仰で満たせばそこに心はなくなり、無心になる。
身体を信仰に浸せ。
信仰に浸せば、体は無尽の力を手に入れる。
信じることなど当然で、仰ぐことなど基本で、そうして初めて神に祈れ。
神に祈れ。
神に祈れ。
いつまでも祈りを捧げろ。
どこまでも己を捧げて神に祈れ。
己もなく、他人もなく、敵もなく、味方もなく、友人もなく、家族もなく、世界もなく、居場所もなくなるまで祈れ。
感謝ではない。
救いを求めるのではない。
敬意を捧げるのではない。
ただ神に祈れ。
すべてを祈れ。
ただ、祈れ。
祈りに己をくべろ。
世界をくべて祈れ。
祈れ、祈れ、祈り続けろ。
それこそが、信仰だ。
「……違うでしょ」
ディックさんの山小屋で目を覚ました僕は、まず、そう呟いた。
起き抜けの眠気より、寝起きのだるさより、まずそう言わなければならなかった。
ゆっくりと、起き上がる。
まだ朝日が昇りきっていないような時間帯。猟師のディックさんですら寝入っているあたり、早朝というよりは深夜よりの時間帯なのだろう。
ただ、二度寝をすると間違いなく寝坊するので、僕はそっと静かに身支度を済ませて、小屋を出た。
最低最悪の夢を見た。かつて吹き込まれて浸っていた言葉が、ぐるぐると回っているような夢を見せられた。ここまで夢見が悪いのも久しぶりで、それはきっと昨夜寝付いた時にサロメ様の加護を一方的に打ち切ったせいに違いなかった。
ウィー・ファンが語った信仰の在り方。
まぎれもない狂気の一片を思い出した僕は、日が昇り始めた光に目を細める。
「……まぶしいなぁ」
細い山道が続いている景色の中で、ぽつりとつぶやく。僕がちっぽけな存在だなんてことは日本にいた時から思い知っていたけれども、こういう雄大な自然の風景を眺めていると、改めて実感する。
僕の存在なんて、本当にささやかなものなのだ。
その景色の中で、ちっぽけな僕は改め誓いを立てる。
「信じるない。仰がない。祈ることなんて、するもんか」
例え神が実在するこの世界であっても、そうすることで魔力強化という恩恵が得られる世界であっても、僕はサロメ様に対して、そんなことはしないと決めたのだ。
例え、死んでも。
その決意は、僕の命よりも大切なものだ。
違えることは決してしないという決意を思い出した僕は、切ったままだったサロメ様の加護をつなげる。
――おはようございます、サロメ様。
――……お、おはよう、信一。
なぜかビクビクしているサロメ様に、思わず頬がほころんだ。
――いい、朝ですね。
――う、うん……。
あからさまに昨日の尾をひいている。それでも臆病なサロメ様から、昨日の続きを言い出せるはずもない。
――サロメ様、昨日はごめんなさい。
――え!? う、ううん。いいのよっ。信一が決めたことだもの! 信一がしたいようにすれば……ぁ。
不意にサロメ様が声を途切れさせたのは、朝日えを背景に山道を登ってくる人影を見たからだろう。
――アンナ、ちゃん?
サロメ様の言葉通り、山に入るための一本しかないこの道を上ってきたのは、神官服で身を包んだアンナさんだった。
神官の武器であるメイスを持って武装しているアンナさんに、僕はにこりと笑いかける。
「おはようございます、アンナさん」
これから命をかける一日が、始まる。
アンナ・リーファは優秀な神官だ。
地方の大きな町で生まれ、そこそこ裕福な家庭で生まれ、ある程度の教養を持った。それだけでも幸運な生まれと育ちといって差し支えなかったが、極めつけは加護を授かったことだろう。それがなければどこかに嫁がされるぐらいしか人生の選択肢がなかったアンナにとって『慈悲』の加護を得たことは大きな転機だった。
治療院か、冒険者か、あるいは神官か。
広がった選択肢の中で、彼女は神官になることを望んだ。
普通より恵まれた生まれの彼女は屈折することなく育ち、決して弱くない魔力強化を持つほど信仰に篤く、『慈悲』の神から加護を賜る心の持ち主だ。与えられた加護に報いるためにも、神に仕える道を選んだの当然の成り行きだった。
それは教会に所属してからも変わらない。
真摯に祈りを捧げ実直に職務をこなしていったアンナは、能力と人柄より、将来を嘱望されているといっても過言ではない。この村で教会を一つ任されているのも若いうちから経験を積むための一環であり、二年ほどの任期を勤め上げたらアンナはまた街の教会に戻り、そちらで働いていくことになる。
アンナ・リーファは優秀な神官だ。現時点で大きな期待を抱かれている有望株であり、幹部候補であると言ってもいい。
翻って、この村での評価は低い。
それは、アンナの人柄や行いが原因というわけではない。この村は、もともと教会内では神官の教育の場としての面が大きかった。そのため、短い周期でころころと神官が入れ替わる。
短くて、一年。長くても三年。決して開放的でないこの村で、移り変わりの激しい神官の信頼度が高いわけがなかった。
だが、そんな信頼されていない村でも、教会の権威は通じる。アンナは、今の村の危険性を訴えた。もちろん村長も、それを無下にするようなことはなかった。アンナが虚偽の報告をしてくる理由などない以上、村の近くに魔物が巣食っているのは事実なのだろうと受け止めた。
村長は思い悩んで、思い悩んだ末に名案が思い浮かんだとばかりに顔を明るくした。
「あの司祭に任せればいいじゃないか」
提示された解決案に、ぎくりとした。
「ふらっとやってきた、あの司祭だよ。うさんくさい神官様だとは思ったが、こういう時に役立ってもらわにゃ困る。そうだそうだ。司祭様なら、中級の魔物程度に遅れはとらないだろう?」
正論だった。
何か言い返そうと口を開こうとして、何も言い返せなかったほどの論理だった。いっそ常識と言っていいくらい、村長の言葉は間違っていなかった。
司祭位は、飾りではない。高位神官は教会の信仰の高さを象徴する人員だ。その司祭が中級の魔物すら狩れないなどという事態は、教会の威信を傷つける。
解決した、とばかりに満足げに頷いた村長に、アンナは何も言うことができなかった。
司祭位の人間が、オーガなんていう中級下位程度の魔物に勝てないなんて、言い出せなかった。
この出来事をどうシンイチに伝えるべきか思い悩んだアンナだったが、解決案は案外あっさり出てきた。
シンイチが魔物に返り討ちにあったということにすればいいのだ。まがいなりにも司祭ですら狩れないような魔物が近くにいると知れれば、否が応でも逃げ出すしかない。
アンナはまず、シンイチを逃がすことにした。思い付いた案は、シンイチ自身がこの村にいないほうが説得力が出る。そうして、シンイチを村からたたき出すようにして逃がした。泣いてすがられた時には良心が少し痛んだが、必要なことだと割り切って。
次に村の一軒一軒を訪問して魔物の討伐に向かうことを知らせた。村の近くに魔物がいることを知らせて、あらかじめ危機感を煽っておくためだ。
オーガと言えば、中級下位。聖騎士の出動は望むべくもないが、教会が放置するには大きい脅威だ。
そうして危機を周知させた後は簡単だ。村長を説得するために、シンイチが山に埋めたという儀礼武器を掘り出してくればいい。
儀礼武器は神官の信仰の誇りだ。
魔力強化によって存在を強化して振るわれるその武器は、持ち主の信仰そのものを表す。どんな武器であろうと、魔力強化によって壊れず振るい、神意に反する敵を打ち倒すために与えられるものだ。
通常、神官はその武具を手放したりしない。当然、山奥に埋めたりもしない。
シンイチがどんな心境でそんなことをしでかしたかは、常識的な神官であるアンナでは到底うかがい知ることはできない。ただ、シンイチが村にいない現状、それを村長に持っていけば、司祭位の人間が返り討ちにあうほどの魔物が山の中にいるという話にこれ以上のないほどの説得力を付けられる。
だから、諸々の準備を三日で済ませたアンナは、山に向かっていた。
もちろんだが、魔物のいる場所まで近寄る気はない。アンナは自分の力を過不足なく把握している。自分は少し訓練を受けただけの小娘で、多少の魔力強化と『慈悲』の加護を持った神官でしたかない。アンナ単独では、下級中位でしかないオークにすら劣る戦闘力しかないと、この間思い知らされたばかりなのだ。
だというのに、どうしてだろう。
「おはようございます、アンナさん」
山の入口に、シンイチが立っていた。
朝だっていうのに、いつもの眠そうな顔ではなく、少しだらしない身だしなみでもなく、まるでこれから戦い赴くような顔で、そこにいた。
その姿を見て、アンナはシンイチと初めて会った時のことを思い出した。
初めて会った時、実は、自分はとてもおかしい勘違いをしたのだ。
あまりにも若い司祭様。そして、高位神官に与えられる専用の儀礼武器が、ある話に一致する特徴だった。
魔王を撃退した、五人のメンバー。
その中でも、最も功績を挙げたとされる一人の特徴を、彼は持っていた。
まあ、生活態度を見て、それはないと確信できたけど。
だから、アンナはシンイチを巻き込むのを良しとしなかった。そのこと自体に、後悔はない。自分は死ぬかもしれないけれども、あるいは村が滅びるかもしれないけれども、アンナは自分の信仰と尊厳は穢さなかった。任された役目よりも、他人の命よりもなお己の内にある信仰を順守する。そういう意味で、まぎれもなくアンナは神官だった。
「……なんで、ここにいるんですか?」
挨拶を欠かすという不義理を侵してまでも、そんな質問をしてしまった。
一応、アンナはシンイチを追い出した後の二日目に確認したのだ。シンイチにどこかの家に転がり込まれてはアンナの計画は成就しない。村の一件一件挨拶がてらに回って、どこにもシンイチが居なかったことは確認していた。
アンナの問いに、シンイチは少し困ったように頬をかいた。
「ええっと、ほら。アンナさんが死んじゃったら、僕、泣いちゃいますから」
「なんですか、それ……」
見当はずれの言葉に、苦笑が漏れる。別にアンナは死ぬつもりはない。生き残るために、村の人たちを生き残されるための手を打とうとしていた。死んだとしても、それはそれで仕方のない事だ。アンナは信仰に殉じたと胸を張って死ぬことができる。
「山の中にいるオーガを退治に行くんですよね。大丈夫ですよ。僕がやっつけて見せますから、アンナさんはそこの山小屋で待機していてください」
「シンイチさん。それは勘違いです」
「またまたぁ」
「いえ、本当に。私は、シンイチさんの儀礼武器を取りに行こうと思ってるだけです」
「え?」
ぴし、とシンイチの表情が凍る。
その表情で、アンナもシンイチが勘違いをしていたのを確信する。
「その武器を材料に、シンイチさんのような司祭でも敵わない敵がいるということを村長さんに説明しようと思っていました」
「ああ、うん。僕、死んだことにされるんですね」
「はい」
なんだか微妙そうな顔をしているが、アンナははっきり頷いた。
「だから、シンイチさんはそのまま逃げるか隠れるかしてください」
「いや、僕がとってきます。埋めたの僕ですし」
「待ってください、シンイチさん」
山に入ろうとする彼を、引き止める。
彼は、何だろうと足を止めて振り向いた。
「だから大丈夫ですって。アンナさんにはなんの苦労も掛けさせませんから」
あからさまに強がってはしゃいでいるシンイチに、アンナは悟る。
あまりにもらしくない態度だったけれども、アンナはその時にシンイチが神官であるということに納得した。
彼は、自分の命より優先するべき信仰(おもい)があるのだ。
「もう、止めませんよ」
だからこそ、アンナは泣き笑いの顔で、それでも願い乞う。
「ただ、祈らせてください」
「……はい」
一瞬だけ押し黙ったシンイチが、沈黙を挟んで了承する。
そっとひざまずいたシンイチの頭の上に、アンナは手をかざす。
アンナの脳裏に、様々な祈りの言葉が思い浮かんだ。闘いに赴く者を鼓舞するためにある『闘神』の言葉。あるいは自分が最も信仰する『慈悲』の神の言葉。いくつも考えたうえで、アンナはこの場で最もふさわしい祝詞を紡ぐ。
「あなたに、神のご加護がありますように」
それは、とても略式な、それでも伝統的な祈り。
神々の直接的な加護を賜れるように祈るのではない。特定の神に祈ったものではなく、二十四柱の誰でもいいから、この人を見ていてくださいと願い出る祈り。助けを求めるのではなく、この人がこの人でいられるように見ていてくださいと祈るだけの言葉。
ただ幸運がありますようにという願いを込めた、アンナが知っている限りこの世界で一番真摯で由緒のある祈りだ。
そうしてシンイチに祈りをささげたアンナは、微笑んだ。
「それじゃあ行ってらっしゃい、シンイチさん」
「はい。行ってきます」
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