11.逃亡
真っ暗な夜の道を、ブランカは闇雲に走り回る。
閑静な住宅街は電柱も少なく、どこに何があるのか曖昧にしか分からない。段々目は暗闇に慣れてはきたが、見えないところが多すぎて時々何度か段差を踏み外しそうになったし、何かに躓いて転びそうにもなった。
だが、この方が返ってブランカにはちょうど良かった。
この暗闇において彼女の白い髪はよく目立つ。おまけに今日に限って彼女は白い上下を着ていた。ただでさえ目立つ姿格好をしているのに、灯りがあったら彼女はすぐに見つかってしまうだろう。
先程も何度かそれで見つかってしまった。車で追い掛けてきたフィルマン達のライトに、何度か照らされてしまったのだ。
ブランカは必死に走り続けた。
小回りの利かない道。車が入れないようなところ。階段があればそこを駆け上り、時には民家の庭を通過して逃げ延びた。
しばらく車の音は聞こえないが安心は出来ない。もっと早く、もっと遠くへ逃げなければ。
しかし、一体どこに向かえばいい?
ロゼ市内にブランカの行くアテはどこにもない。ダムブルクに帰ろうにも、一文無しでは列車にも乗れない。このまま自分の足でダムブルクに向かうことも出来なくはないが、そもそもこの場合、ダムブルクに戻ることは正解だろうか?
頭の中を、三人の男の顔がよぎる。
フィルマンと、カミーユと、あの人。
フィルマンはどこまでこの仕事を本気で考えているのだろうか。このままブランカを捕まえられなければ、彼はどうするのだろう。ブランカが逃げ延びれば、彼は諦めるのだろうか――。
そこまで考えて、先程読んだ『オーベルの記録 その5』に書かれていた内容を思い出した。
フィルマンの元にいた母は、一月半前、彼の元から脱走した。しかもその時で既に四回目だったらしい。一体何が原因で、どこまで彼女が逃げ延びたのかは全く謎だ。だが、いずれの場合も母はフィルマンのところに連れ戻されていた。そして、少なくともブランカが見た四回目の脱走の後、母は両手と首を拘束され、手酷く痛めつけられていた。
たった一月半前、母をそんな風に縛り上げてデモ隊に売った彼が、簡単にブランカを逃すはずがない。
しかも今度はあの人が確実に近づいてきている。今更自分を引き取りに来る理由こそ分からないが、あの人がフィルマンの背後にいるならば、更に油断は出来ない。
あの人が今どういう立場にいるのか、ブランカは一応知っている。果たしてフラウジュペイ国内で彼の力がどれほど及ぶか分からないが、彼がその気になれば、ダムブルクの小さな施設はすぐに潰されてしまうだろうし、もしかするとフラウジュペイのどこへ逃げてもブランカはすぐに見つかってしまうかもしれない。
少なくともダムブルクに向かうのは全く得策ではない。彼らは確実にブランカを連れ戻しに来るだろうし、待ち伏せすらする可能性だってある。
それならば他にどこに行けばいい?
そのとき、ブランカの身体は突然ライトに照らされる。
「――はは! 鬼ごっこもそこまでかな」
車から降りたフィルマンが、ブランカに近づいてくる。ブランカはすぐに反対方向へ走った。
後ろから迫るフィルマンの影に、死にものぐるいで足を動かす。退路を遮ろうとするカミーユの運転を、ブランカは何度もかわし続けた。
もはやどこを走っているのか分からない。めまぐるしく変わる暗がりの景色の中で逃げ道を探しては、そこを駆け抜けた。
しかし、ずっと動かし続けた足は、彼女の焦る気持ちに追いつかなくなっていく。ブランカは駆け抜けた細道の出口にある段差を飛び越えようとしたが、思うように足が上がらず、躓き転んでしまう。
早く体勢を立て直して逃げなければと身体を起こしたブランカのすぐ前に、カミーユの車が停まった。ブランカは転んだままの姿勢で後ずさるが、それはすぐ後ろに来ていたフィルマンの身体にぶつかる。
フィルマンはブランカの髪を掴み上げる。
「い……っ」
「ほら、君も走り疲れただろう。観念して言うことを聞くんだ」
「さぁ行きますよ」
「やだっ放して!」
ブランカは暴れるが、前後を男二人に両手を掴まれては、抵抗もままならない。ブランカはそのまま車の後部座席へと引きずり込まれる。
「もうこれで逃げられなくなったな。いい加減諦めたらどうだい? 大人しくしていたら、こちらも悪いようにはしない」
「何を……っ」
フィルマンに両腕を拘束されたまま、車が発車する。走っていたときよりも景色の移り変わりが速くなる。一体どれほど走ってきたのか不明だが、フィルマンの屋敷に戻るのも時間の問題だ。
ブランカは身体を捻ってフィルマンの腕を振り払おうとする。だが狭い車内では、一度解かれた腕もすぐにまた捕まってしまう。
フィルマンは終始楽しげだが、段々と彼の眉間に皺が寄っていくのが分かった。
「全く、大人しくしろ!」
「きゃああ!」
突然振り上げたフィルマンの手が、ブランカの左頬を強く打ち叩く。その反動でブランカは車の窓に頭を打ち付けた。
フィルマンは抵抗の弱まったブランカの顎を持ち上げると、今まで見たこともないくらい高圧的な様子で彼女を見下ろした。
「聞き分けのない
ブランカはゾッとした。既に分かっていたことだが、こうもはっきりと『オーベル』扱いされると、恐怖と気持ち悪さに身体が震える。
すると運転席に座るカミーユが、くすくす笑いながら言った。
「まず彼女が逃げられなくなるようにしなくてはなりませんね」
「ふふ……そうだね」
フィルマンは妖しく微笑んだ。
その中に潜む狂気にブランカは少しでも彼から距離を取ろうとするが、それよりも早くフィルマンがブランカの襟元に手を掛けた。
「まずは外を歩けないようにしなくちゃね」
「やめっ!!」
ビリリリッと音を立ててブランカの着ていたブラウスが開かれる。ボタンはほとんど吹き飛び、今の勢いで裂けたところもあった。前の開かれたブラウスを急いで閉じようとするが、すぐに両腕を片手で封じられてしまい、目の前の男にその中を晒してしまう。
フィルマンは瞳を細めて、露わになったブランカの下着姿に視線を這わした。
「へえ。痩せている割にはちゃんとあるんだね」
「放して……」
「そっちの具合は母親と比べてどうでしょうね? 試してみては?」
カミーユが粘着のある口調で、不必要なまでに抑揚を付けて言う。同時にブランカを見下ろすフィルマンの瞳に、好色の色が宿る。そこからブランカは、母が彼らにどういう扱いを受けたのかを察した――そして自分がどうされるのかも。
「ふっ……そうすれば、君も大人しくなるかな?」
フィルマンが空いた手をブランカの首筋に滑らせる。撫でるようなその手つきに、悪寒が全身を駆け抜ける。
――気持ち悪い……!!
あまりに耐え難いその感触に、ブランカは両足を思いっきりフィルマンの腹に突っぱねた。突然の衝撃にフィルマンはブランカの両手を放し、彼女の反対側の窓へと追いやられる。
ブランカはその隙に自分の側のドアレバーを引いた。
「くそ! この……って、何を!?」
「クラウディア、怪我しますよ!?」
それでも構わなかった。
このまま連れ戻されてあの人に引き渡されるのならば――!
ブランカはそのままドアを押し開き、車の外に飛び出た。
元々スピードのある車だ。脱出の衝撃は大きく、ブランカは地面に強く身体を打ち付けながら転がった。擦り剥けたところもいくつかある。これだけで既に全身はボロボロで、動くだけでも痛みが走りそうなほどだった。
しかし、ブランカはすぐに起き上がった。
数十メートル先で止まった車に連れ戻されるわけにはいかなかった。
流石に足がひどい痛みを訴えてくるが、それでもブランカは走る速度を再び上げていく。
尚もフィルマンたちが追い掛けてくるが、ブランカは車の通れない道を選んで走り続けた。
そうしているうちに、いつの間にブランカはロゼの中心街に来ていた。
足を進めるほどに、ネオンの明かりは増していく。それと同時に道行く人の数も車通りも増えていく。流石に走るのも厳しくなってきていたので、ブランカは人の波に混じって身を隠した。
裂けたブラウスの前を両手で合わしながら俯きがちに足を引きずる姿はあまりに不審で、周りの視線を必要以上に集めてしまう。また、白い髪を隠すのに路地に落ちていた布を頭から被っているため、そのみすぼらしさに憐憫と蔑みの目を向けられる。それらの視線をやり過ごすために、ブランカはより身を小さくした。
身体の傷が、ひどく痛む。
車から脱出したときは急いで逃げなければと必死だったので、そんなに痛みも感じなかったが、時間が経つにつれて身体の辛さが増してくる。擦り傷だけならまだやり過ごせたが、身体を動かすたびに骨から響く足や腰の痛みが、ブランカの歩みを鈍くさせる。
そんな状態にまでなって逃げている自分を、ブランカは自嘲気味に笑った。同時に惨めな気持ちにさえなってくる。
ロゼの街中はとても賑やかだ。
酒場の前で群がる若者たち。おもちゃ屋の前ではしゃぐ親子。レストランで食事をする夫婦。路地の端で寄り添い睦み合う恋人。どれも自分には縁のないものばかり。みんな楽しそうで、幸せそうだ。
ネオンは幸せな彼らに光を降り注ぎ、ブランカに影を落とした。それはまるで、ブランカの人生そのものを表しているかのようだ。
このまま一体どこに向かえばいいだろうか。
次第に呆然としてきた頭で、ブランカは考える。
とにかくあの人の手が及ばないところがいい。
頭に真っ先に浮かんだのは、フラウジュペイ軍か警察だった。そこなら確かにあの人は手を出せない。
しかし、そこで何と説明する?
端から見れば、ブランカは家出少女にしか見えない。確実に相手にされないだろう。
それに『オーベルの記録』を見る限り、フィルマンとカミーユはフラウジュペイ軍にそれなりに信頼されているようだった。あの人が手を出せなくとも、彼らが警察か軍に来てしまえば、ブランカはいとも簡単に連れ戻されてしまう。
大体、フラウジュペイ軍や警察に自分のことをどう説明するというのか。どれだけブランカとして状況を説明しようとしても、今の自分にクラウディア・ダールベルクであることを完全に誤魔化しきれるとは思えない。
万が一、自分の正体をフラウジュペイ軍や警察に知られてしまったらどうなる? 他の戦犯たちと同じように、ブランカも監獄へと入れられるのだろうか。軍や警察はデモ隊のようにはヘルデンズの戦犯たちを乱暴に扱わないだろうが、監獄に入れられた後は一体どうなるのか。あの人の手もフィルマンたちの手も確実に届かないが、希望も何もない。
もしくは、孫は裁くまでもないと、正体も何もかもを暴かれた後で世に放り出されたりするのだろうか。それはそれで地獄だ。
そう、どこに行こうと光などない。
後ろからはあの人が迫り、前には果てしない暗闇が続いている。
どこにも行くアテはなく、帰る場所もない。
まるであの時と同じだった。
追っ手から死にものぐるいで逃げていた五年前――。
五年前は数人の騎兵隊と数台の車に追い回されていた。今自分を追うのはフィルマンたちが運転する一台の車のみだが、あの時も今も、ブランカは車相手に走り続けなければいけなかった。
あの時、逃げていた自分には、明るい未来が見えていただろうか。
否、見えていなかった。そもそもそんなことを考える余裕すらなかった。
あの時はただ必死だった。
母の言うとおり逃げなければならなかった。祖父が託した祖国の未来を見届けなければならないという使命感に駆られていた。その意味も分からずに、ただ生き延びることに必死だった。
必死なのは今も同じだ。
迫り来るあの人の影から逃れようと、ずっと走っている。
しかし、逃れたところで、果たしてこれから先どうすればいい?
五年前にはあった強い使命感は、今は完全に失われている。将来の目標もないし、希望もない。正体を隠しても晒しても、待ち受けるのは地獄のみ。
明るい未来など、どこにもないのだ。
もはやどこに向かえばいいのか分からない。
どうするべきなのかも分からない。
ただひたすらに心が圧迫されていく。それに追い打ちを掛けるように、身体の傷が更に痛みを増した。
歩くほどに太ももを打ち付けるスカートのポケットのもの。
ブランカはそれを強く握りしめた。
――あなたさえいなければよかったのに。
祖父さえいなければ、こんなことにはならなかった。
母を失うことはなかった。正体を隠す必要もなかったし、誰かに売られる心配も殺される心配もなかった。
自分も、あのネオンの下で幸せそうにする人たちの一人でいられた。
こんな絶望の淵に追いやられることもなかったのだ。
――あなたは本当に無責任で自分勝手だわ。
祖父は、『ヘルデンズの運命はお前の手に』という最後の一文の前に、『お前には健やかに長生きして欲しい』と綴っていた。
しかしそう言うならば、何故その道筋を示してくれなかったのか。今ブランカがこんな状態に陥っているのは他でもない、祖父のせいだ。それなのに、自分の思いと願いばかりを綴って、孫の行く末を手紙に残さなかった。
こんなに途方に暮れていても、その人は何も教えてはくれない。こんなに打ちひしがれていても、その人は何も手を差し伸べてはくれない。
暗闇に囲まれていても、光さえくれないのだ。
それなのに『生きて欲しい』と言われてどうすればいい?
とても苦しくて、悔しくて、辛いことばかり。
涙が次から次へと溢れ出てきた。
「ダールを見つけたぞ!!」
どこからか聞こえてきた声に、ブランカはハッとする。まさかフィルマンたちがブランカの情報をデモ隊に流したのだろうか?
そう思えば思うほどに恐ろしく、ブランカは再び走った。
後ろから人の足音が聞こえる。その数はあまりに多く、全部こちらに向かっているように思えた。
逃げた、追え、捕まえろ。いくつもの声が、足音と共に聞こえてきた。
今度こそ自分の番なのかもしれない。今度こそ殺されるのかもしれない。
それとも、あの人に突き出されてしまうのか――。
前を歩く人を掻き分けてブランカは急いで走る。
どの道に行けばいい? どこを進めばいい? どこに逃げればいい? 頭の中で考えるが、何も案が浮かばない。
足音の数は更に増えた。聞こえてくる声も大きくなってくる。急いで逃げなくてはと思うのに、人通りの多い中心街では思うように進まない。
おまけに、痛む身体はもう言うことを聞いてくれなかった。
――ダメかもしれない……!
諦めが、頭の中をよぎった瞬間だった。
角を曲がったところで、何かにぶつかった。
布越しに伝わる弾力のある硬い感触。よくよく見てみれば、黒いスーツがすぐ目の前にあった。
――嘘……見つかった……!?
カミーユが今日着ていたスーツはこんな色だった。
絶望的な気持ちにブランカは急いで身を翻そうとするが、聞こえてきた声に止まった。
「すまない。余所見をしていたせいでぶつかってしまった」
聞こえてきたそれに、ブランカは目を見開いた。
低く、深みのある声。下手くそなフラウジュペイ語。
それを聞いたのはたった二日間だけ。しかも、もう三週間も前のことだ。
しかし、聞き間違うはずがない。
ブランカは恐る恐る顔を上げた。
その人は目を丸くし、そして驚きに目を瞠った。
「お前……ブランカか……?」
鳶色の髪に、髪色を薄くした切れ長の瞳。
そう、そこにいたのは、紛れもなくヴォルフだった。
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