9.五年前の裏切り

「待て。それが本当なら、あいつはヘルデンズ人なのか?」

 ヴォルフは思い出したかのように尋ねてきた。当然の疑問だった。

 ギュンター・アメルハウザーという人物は、オプシルナーヤ軍の高官として名を馳せている。近年は東ヘルデンズで勢力を伸ばしつつあることで有名だが、いずれにせよ彼がオプシルナーヤ人であるという認識は、大前提にあるはずだ。少なくともフラウジュペイではそうなので、ブラッドローやそれ以外の国でも共通していることだろう。

 ブランカは僅かな逡巡の後、覚えていることを話すことにした。

「私が知る限り、あの人は生粋のヘルデンズ人。というかそもそも、ギュンター・アメルハウザーなんて人は存在していなかったの」

「偽名、なのか?」

 息を飲むヴォルフに、ブランカは小さく頷いた。

「母と結婚してダールベルク姓になったけれど、あの人の元々の名前はエーリヒ・ポルケ。ヘルデンズ最高軍事司令部の若手幹部だった、みたい」

「みたい?」

「私も幼かったから詳しい役職とかはよく分かっていないんです。ただ、それほど裕福な家庭で育ったわけでもないのに、ノイマール大学を首席で卒業し、その後も軍部で精力的に働いている姿を評価されて大抜擢された、という話は昔よく聞かされました」

 綺麗に洗い直した布をヴォルフの肩に巻き付けながら、昔の日常を脳裏に思い浮かべる。

 まだブランカが幼い頃、今よりもだいぶ若かった父と祖父は、週末はいつも杯を交わしてボードゲームをしながら、難しい議論を繰り広げていた。話している最中はお互い一歩も譲らないのに、議論が終わるといつも祖父が誇らしげに「未来が楽しみだ」と父を褒めていた。よく分からないくせに、何故かブランカ――クラウディアも誇らしくなったものだ。

 フィンベリー大陸戦争の中頃まではそんな様子だった。

「それほど有能な人物で、尚かつダールベルクの娘婿だった男が、何故当たり前のようにオプシルナーヤ軍の指揮官なんかやっているんだ? 名前を変えたにしても、そんなものすぐに特定されるじゃないか」

 ヴォルフはますます不可解そうな表情をした。それはブランカにとっても疑問だった。

 ブランカは曖昧に首を傾げながら、自分の考えを並べていく。

「どうしてオプシルナーヤ軍とつながりが出来たのかについては分からないけれど、おそらくヘルデンズ時代のものはとにかく全て消しているんだと思う。少なくとも特定できるようなものを処分するのなんて中央にいれば不可能ではないし、元の名前の人も五年前の新聞では既に死んだことにされていたから」

「だが、昔を知っている者については? モノを消したところで人の記憶からは消せやしない。しかも再びヘルデンズで活動しているんだ。別人で通すなんて無理がある」

「それについてもどうなのかな……。当時を知っている幹部の人たちのほとんどは戦犯で捕まっているから今はもういないし、他に知っている人がいてもあの人なら……」

 どんな手を使ってでも、簡単にねじ伏せられる――。

 そう言いかけて、ブランカは思わず言葉を切ってしまった。

 列車でブランカと向き合った父は、幼いクラウディアが大好きだった優しい瞳をしていた。真剣な眼差しで共に暮らそうだなんて言われて、思わずブランカの心は揺れてしまった。

――大佐は君を道具としてしか見ていない。いずれ大佐に君は殺されるだろう。

 車内で会ったあの将校の言葉がハウリングする。言われたときは突然突きつけられた現実に頭を打たれたような痛みが走ったが、彼の言うとおり、それこそが父の本当の姿なのだろう。

 その証拠にあの人は――。

「……お前も、その一人というわけか」

 ヴォルフは躊躇った様子を浮かべつつも聞いてきた。未だ信じられなさそうな彼の薄鳶色の瞳は、困惑した様子でブランカの右手や右頬を映している。

 ブランカはぎゅっと唇を引き結んで首だけで頷いた。

 改めて言葉にされるのは、首を絞められるような辛さがあった。抑えていた恐怖と絶望が、胸の内から一気にせり上がってくる。

 だけど何度昔の光景を思い描こうとも、ブランカが大好きだった父はもう消えたのだ――五年前のあの瞬間には既に。



***



 クラウディアが十一歳になった翌日。一家は首都ノイマールに祖父を残したまま、フラウジュペイの田舎ヤンクイユへと疎開した。

 当時、外の状況をよく理解していなかったクラウディアにとっては、しばらく旅行に行くのだという感覚でしかなかったし、祖父の顔を見ることも、十一年間過ごした家に帰ることももう二度と叶わないだなんて、全く思いもしなかった。

 それが悪夢の始まりだった。

 ヤンクイユに移り住んだ途端、父は別人のように豹変した。

 ノイマールではいつも楽しそうに談笑していた祖父のことを、平然と罵り始めた。それでも最初こそはノイマールから引き連れてきた部下との間で愚痴をこぼしていただけだったが、いつしかそれはクラウディアやジルヴィアの前でも当たり前のこととなっていった。

 大好きな父が大好きな祖父を悪く言うなど耐えられなくて、クラウディアは父の言うことを聞かないようにしていたけれど、ある夜父が母に向けて言った言葉は、今でもよく覚えている。

――この国は終わる。分からないのか? いいか、お前の親父は頭がいかれている。あの男のせいで俺たちの命まで危ない。どちらが正しいか、分かるだろう?

 戦況は徐々に悪化していった。

 身の程知らずにも襲撃してきた『敵』を非難するヘルデンズ放送と、祖国を蹂躙し続けた『敵』を遂に退けたと歓喜するフラウジュペイ放送。現実を受け入れたくなかったけれど、疎開してから三ヶ月もしないうちに、ヘルデンズ軍はロゼから撤退してしまった。

 日に日に濃くなる敗戦の色。

 一家はヤンクイユに取り残されて、父はますます恐ろしくなっていった。

 電話の音は鳴り止まないし、父の部屋からはよく分からない機械音がずっと流れていて、近くに潜む部下の人たちが代わる代わるうちにやって来ては、父を苛立たせていた。

 そうしていつしか父はその苛立ちを母にぶつけるようになっていった。

――お前などと結婚したせいで俺の人生は滅茶苦茶だ!

 リビングから聞こえる父の言葉は聞くに堪えないものばかりで、母を殴ることも少なくなかった。

 幸せな生活なんて既に崩壊していたし、そんな生活から逃げたくて堪らなかった。クラウディアがそう思っていたのだから、母なんかは特にそれを願っていただろう。

 だけど、母にもクラウディアにも行くアテなどどこにもなかった。外に出れば更に恐ろしい現実が待っていることは明白だったし、幸いにしてヤンクイユは連合軍の攻撃対象から逸れていたから、結局は父のいる疎開先の家が一番安全だった。

 はやく世界を救ってこの不安を取り除いて。毎日流れる撤退のニュースを否定しながら、遠く離れた祖父に向かって、クラウディアは心の中でずっとそう訴え続けていた。

 そんな娘に、ある日父は言った。

――クラウディア、何があってもお前だけは私の味方でいてくれるだろう?

 祖父さんではなく――最後の一言こそ違っていたものの、父の言葉は、十一歳の誕生日に祖父がクラウディアにかけた言葉と同じだった。どうして父がそんなことを尋ねるのか分からないけれど、それで父の機嫌が和らぐならと、クラウディアは迷わず頷いた。

 それからというもの、クラウディアの望み通り父は機嫌を損ねることはなくなったし、母に暴力を震うこともなくなった。祖父への罵倒は収まらなかったが、それでも以前のように優しくなった父の様子に、クラウディアはすっかり油断しきっていた。

 祖父の自殺が報道されたのは、それから十日も経たないときだった。

 呆然とする頭のまま祖父の手紙を読み、部屋を飛び出したクラウディアが見たものは、リビングで母の首を絞める父の姿だった。

――クラウディア。父さんと一緒に来てくれるだろう?

 娘のものより濃い緑色の瞳を冷たく細め、父は甘い声で近づいてきた。

 その右手に握る拳銃を、娘に向けながら――。



***



「――なるほどな」

 ヴォルフの言葉にハッと思考が戻ってくる。

 彼の肩を固定するための布を、知らず強く握り込んでいたようだ。ヴォルフの手当てを切り上げ、ブランカは彼から距離を取った。

 身を小さくして俯きがちに絶望をやり過ごしていると、暫しの沈黙を挟んでから、ヴォルフは再び尋ねてきた。

「……それで? 会ったんだろう、ギュンター・アメルハウザーに。何を言われた?」

 今度は固く詰問するような口調だった。

 数時間前の父の表情を瞼の裏に浮かべながら、ブランカは弱々しく答えた。

「ノイマールでもう一度親子としてやり直そうと、言われました」

 ヴォルフは再び息を飲んだ。

「それだけか? 他には?」

「特には何も」

 二人の間に沈黙が降りた。

 川の音や葉が揺れる音が、やけに大きく響き渡る。徐々に天頂へと昇る太陽が、近くの岩を明るく照らし、ブランカ達のいる空洞を余計に暗くしていた。

 人の気配もない森の奥。誰かいたとしても味方なんて一人もいない。

 そうして迫るは父の脅威。

 一体いつまでこんなことを続けるのだろうか。

 その愚かしさに、ブランカは思わず笑ってしまった。

「何がおかしい?」

「ごめんなさい。でももう色々と笑うしかなくて……」

 ブランカは岩にもたれ掛かるようにして、空を見上げた。

「昔殺そうとした娘にもう一度親子としてだなんて、よく言えるわ。そんなこと、まったく思ってもいないくせに、狂っている」

 気が付いたらそんなことが口をついて出ていた。

 なんだか全てがどうでもよく思えてきたのだ。

「だけどそんな父の言葉を、本気に捉えてしまった自分がどこかにいたの。もしかしたら父も心から私のことを望んでいるんじゃないかって、期待してしまっていた。自分でも笑っちゃうけれど、仕方ないの。そんな人の血を、私は受け継いでしまっているから」

 ひとたびこぼれ出した本音が次から次へと溢れてくる。

 ブランカはいつになく饒舌になっていた。

「それでも父は私よりもまだマシだわ。だって私はマクシミリアン・ダールベルクの血も受け継いでいるから。フィンベリー大陸中を蹂躙した人間の血が、この身体には流れているの」

 言いながら、ブランカはポケットからゴールドのブローチを取り出した。あんな怒濤の爆発列車からの脱出にも関わらず、これだけは手放さずに持ってきていた。

 だが、その行為こそが自分の全てを表している気がして、ブランカは更に自嘲した。

「今思えば、父が私を殺そうとしたのは当然の行いだったのかもしれない。大戦犯の孫なんて、害悪でしかないもの。あのまま私は死ぬべきだったんだわ」

「いいからそろそろ黙れ」

「本当に最悪ね。半分は子殺し、更に残りのうちの半分は大悪党の血。自分でもこの身が怖くなる」

 ヴォルフがどんな顔をしているのか気が付かないままに、ブランカはブローチを握りしめて言った。

「私、どうして生きているんだろう」

 流れ出るままに放った言葉が、空洞の中に木霊した。

 空しく消えたそれは、ブランカの胸の内にずっと潜んでいた一番の本音だった。

 誰からも憎まれて、時代に翻弄されて、どこに行っても暗闇ばかり。光の差すところなどどこにもない。祖父も母も生きろと言ったけれど、ブランカの生きる未来などどこを探しても見当たらない。

 逃げ場のない絶望の淵に追いやられながら、目的のないまま生きる日々。

 まるで無意味な人生だ。

「……それを俺に聞いて、何と言って欲しいんだ」

 あからさまに苛立った様子で、ヴォルフが言ってきた。そこでようやくブランカは、自身の発言の愚かさを思い知った。ちらりと視線を向ければ、ヴォルフは口調と同じく厳しい目つきでブランカを睨み付けている。

 彼の言うことは最もだった。こんな話をヴォルフに聞かせてどうするというのだろうか。ましてや彼は、ブランカのことを憎んでいるというのに。

「ごめんなさい。どうか今のは忘れてください」

 あまりにばつが悪くなって、ブランカは空洞の外へと顔を向けた。

 それ以降ヴォルフは何も言わなかったが、時折彼は深いため息を吐いていた。

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