9
俺は自室のドアを勢いよく開けた。
鍵はかかっていない。
当然だ。俺はここを出る時鍵をかけずに出たんだから――
「よう、ミコト。お前、何やってんだ」
俺は話しかけた。
真っ白な、何も見えない空間へと。
「お前、こんなことをして大丈夫なのか? 必木先輩はとても大丈夫じゃないように言っていたんだけれど、お前はそんなことをしても体に影響はないのか?」
俺は部屋の中へ足を一歩、踏み入れた。
もう今は足元まで白に染まっていてきちんと足場があるのか確認できないが、それでも俺は部屋の中へと這入っていく。
一歩ずつ、確かに。
「なあ、ミコト。苦しいなら止めた方がいいぞ。お前が気に入らない奴なんていくら殺したところでまたどこかで生まれてくるんだ。殺すだけ、苦しむだけ――無駄なんだ」
ごつん、と。
足元で何かとぶつかった。
これは、ゴミ箱だろうか? でも、見えない。
「無駄だから、無駄だから――やめた方がいい。これ以上誰も必要以上に憎まなくてもいいんだ。必要以上に嫌悪しなくてもいいんだ。憎んだところで、嫌ったところで、お前を取り巻く環境が変わりはしない。お前がいくらリセットしようとしても消そうとしても、嫌なものは嫌なまま残り続けるんだ。もしくは消してもまた増えてしまうんだよ。どうしようもなく、どうしようもなく。だから、だから――もう、自分を誤魔化して泣かなくていいんだよお前は!」
俺は抱きしめた。
白の世界のまま、何も見えないまま、けれどもはっきりと。
俺は部屋の中心で立ち尽くしたまま泣いているミコトを、抱きしめた。
「うう……うう」
俺はミコトの顎が俺の肩に乗るように、膝をつく。
「……ミコト、俺はお前に言わなくちゃならないことがある」
「……ひっぐ……な、なに?」
俺は息を吸った。
そして、目を閉じる。
「何が二重神格だ。お前は最初から最後まで一神(ひとり)なんだよ。クッキーが作れないお前も、そうやって白の世界へ逃げ込んだお前も、どうしようもなくどちらもフミダラノミコトなんだ。苦しいなら苦しいって言えよ。ムカつくならムカつくって言えよ。なんでそうやって隠れて泣いてんだよ。そんなことをしても悲しいだけだろ、虚しいだけだろ!」
「うるさいっ……ウルサイ煩い五月蠅いっ! 私は、私はっ……ひぐっ、全部壊すんだ……っ全部壊すんだっ!」
「全部壊して何になるんだ? お前の気に入らないものを全部壊したら『あの人』とやらが帰ってくるのか? それとも『あの人』のことを全て忘れて気分が晴れるのか? そうやってお前が楽になれるのなら、俺はお前が気に入らないもの全部全部壊すことに賛成するよ。ぜーんぶ壊してすっきりするといい。それでお前が本当に楽になれるならな。……でもな、きっとそれじゃお前は楽になれないんだ。多分ずっと引きずって生きていくことになるんだ。どう足掻いてもお前は楽にはなれないんだ。過ぎ去った過去は戻らないものだから。だからお前が過去に受けた傷はどうやって塞ごうとしても埋まらないんだ。またそうやって隠れて泣き続けるだけなんだよ」
「……うっ、じゃあ、じゃあ、どうすればいいの? 私のこの憤りはどうすればいいって言うの? ……うぐっ、教えてよ……っ」
「――だったら。だったら、俺を憎めばいい。俺を怒ればいい。世界を滅ぼすだなんて嘘をついてお前の力を盗んだ俺を恨めばいい。――それでいいじゃないか。俺が完璧にできるかなんてわからないが、お前の憤りは俺にぶつければいい。俺が全力で受け止めてやるさ。お前が苦しくなった時、お前が悲しくなった時、お前が虚しくなった時、お前が俺にぶつければいいんだ。そうやって泣いてしまう前に、どうしようもなくて憤ってしまう前に。発散すればいいんだよ。痛みを消すことなんてできないから。だから、その痛みを和らげるために俺を使えばいい。俺なら大丈夫だ。神様の考えていることなんて微塵も理解できないかもしれないが、胸なら貸してやれる。だから――だから、お前はもう、ひとりで泣かなくていいんだ。お前は、笑っていればいいんだ。俺と初めて出会った時のように。俺はどう足掻いてもお前のようには笑えない――笑えなくなってしまった。でも、お前なら、ミコトならまだ笑える筈なんだ。だから、笑ってくれ。無理を言っているのも、無茶を言っているのも、図々しいのも全部分かっている。だけれど、俺はお前に笑っていてほしいんだ」
俺はそっとミコトの頭を撫でた。
その赤茶髪の頭を。
「白が……」
いつの間にか辺りを覆っていた白の世界は消えていた。見飽きた俺の部屋に戻っている。
「……ひっぐ、うぐ……うぐっ……」
ミコトはまだ泣いていた。……俺の肩が涙でびしょ濡れだ。ちょっと気持ち悪い。
だが――気分は悪くない。
「よしよし、ミコト。お前も神様なんだから、もっと堂々としていなくちゃな。――そうだ。まだ一緒に美味しいクッキーを作ろうっていう約束、まだだったよな? あんな暗黒物質、俺はクッキーだなんて認めないぞ。ちゃんとした、甘くて美味しいクッキーを作るんだ。……おいおい、世界を滅ぼしている時間なんてねーぞ? それに、もう小麦粉がないからそれの調達から始めないとな……って、ミコト?」
ミコトの体が透けてきている。……あれ? 俺の目がおかしいのかな? なんで体が透明に見え――
「……ごめんね。ちょっと力を無理に使いすぎたから――クッキー作り、できないや」
ミコトは少し俯いてそう言った。
「お、おい。どういうことだ? 力を使いすぎたからって――なぜ消える?」
わけがわからない。だってミコトは神様で、エネルギーそのものではないのだから。力を消費したからと言って消えるのはおかしい。
「……あのね、前にも言ったけど、私は信仰してくれている人達の想いを力にして存在しているの。だから、力を使い過ぎちゃうと私は具現化できないんだ」
「は? ……は? でも、お前は何もしていないじゃないか」
そうだ。ミコトは空を白に染め上げただけで、実際に誰かを攻撃したわけではない。
そんな風になるまで力を酷使していない筈だ。
「……うーんと、私に向いていない力を無理に使おうとしたから、なのかな。大きく力を消費しちゃったみたい」
「いやいや、しちゃったみたい、じゃねーよっ! お前、消えているんだぞ⁉ 危機感はないのかよっ⁉」
「……大丈夫だよ。私は姿を具現化出来なくなっただけで、本当に消えるわけじゃないから。だから――大丈夫」
「ミコト……」
俺は膝をついた姿勢のまま、動けなくなっていた。
おいおい、こんな展開アリかよ……。
「クッキー作りはまた今度しようね。今度は美味しいって言わせてみせるんだから」
「やめろ! こんな時にそんなことを言うな!」
そんなことを……言うんじゃない。
「もう、だから大丈夫だよ。またいつか、いつか私は君の前に現れる。だから、だからその時まで――ちょっとしたお別れ。忘れないでよね。私が困ったとき、君は私に殴られるの。苦しい時も悲しい時も虚しい時も、君に癇癪ぶつけてやるんだから」
「ミコト……っ」
「じゃあね」
そう言うとミコトは優しく微笑んで――消えた。
いや、彼女のように言うならば、「見えなくなった」というのが正しいのだろう。
とにかく、俺の目の前からミコトはいなくなった。
「ミコト……っ!」
俺は両拳を地面にぶつけていた。
……まったく、なんて奴だ。
突然俺の目の前に現れ、自分のことを『予言者』だと名乗って俺を困惑させ、それで少しばかり仲良くなったという後で、突然いなくなるのか。
俺にあんなクサい台詞を吐かせておきながら、俺にあんな恥ずかしいことを言わせておきながら、消えるのか。
なんて迷惑な奴だ。
折角の俺の格好いい台詞が無駄になった。
折角の俺の見せ場が無駄になった。
「……あー」
俺はゆっくりと立ち上がった。頬には涙が少し、ほんの少しだけ、伝っていた。
「――でも、お前は笑えたんだな」
ミコトが最後に俺に見せた笑顔は、俺が初めて会った時と同じではなかったけれど、それでも幸せそうで、優しげな、笑みだった。
「……まあ、お前が笑えたのなら、俺はそれでいい。それでいいや」
そうだ、今はそれでいいことにしよう。
ただし、次会った時は少しばかり文句を言わせてもらうぞ、ミコト。
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