8
そして俺は目を覚ました。
「……あれ? あれ?」
旧校舎の天井が見える。
今までのことは夢というわけではなさそうだ。
あれ、じゃあなんで俺は今寝ているんだ――?
「やっと目を覚ましたか。なんだ、そのまま死ねばよかったのに」
必木先輩の声が聞こえる。
俺は声のした方に顔を向けた。体が重くて起き上がることができなかった。
「必木先輩……?」
必木先輩も仰向けになって横たわっている。
「まあ、心配することはないよ。君は勝負に勝った。君は正しい。そして私は――間違っていた」
「必木先輩、」
「しかしまさかこの私が負けるとは思わなかったよ。しかもあんな卑怯な手で。ほんとまさかのまさかだよ――君が女子の股間を思い切り蹴り上げる人間だとは思わなかった」
「……」
そう。俺は必木先輩の局部――男にとっても女にとっても大事なところ、絶対的な急所を突いて勝ったのだ。
「仕方ないじゃないですか。それしか勝ち目がないと思ったんですから」
股間。それが必木先輩の弱点。
必木先輩は武道をやっている所為か攻撃をする際に大きく踏み込む癖があった。そして、大きく踏み込むということはつまり人間最大の弱点である股の間を晒すということになる。俺はそれを狙って攻撃した――なんてことを言うがそれはよくよく考えてみれば当然のことだ。何故なら股間は男女問わず急所に中るのだから。
……よく世間に「男性は股間を蹴られたらとても痛い」と知れ渡っているが、女性だって同じだ。股間を蹴られたら痛いに決まっている。ただ男性の方がその頻度が多いというだけで、よく知られているというだけで、女性だって股間を蹴られれば痛いよな――
「必木先輩。貴女は俺と必木先輩の間には経験の差があると言いました。確かに経験の差でしたよ。武道に限ってのことじゃなく、癖というものは中々治らないんですよね。必木先輩、貴女のその攻撃する時に大きく踏み込む癖が俺と必木先輩の勝敗の差になったんですよ」
「……そうかい。そんな癖が私にあったのか。知らなかったよ――経験の差、ね。たしかにそうだったようだ」
「……必木先輩。もう、終わりですよ」
俺は天井を見ながら、そう言った。
「……」
「必木先輩?」
「く、うっ……」
必木先輩のうめき声が聞こえたような気がした。
「……私は、私は。少しも君に助けられたいなどとは思ってはいなかった。少しも自分が間違っているなんて思っていなかった。でも、負けた。私は君の言う通り、君に助けられたがっていたのかもしれないし、間違っていたのかもしれない。でもそれならば、私は一体今まで何の為に生きてきたのだろう。そしてこれからは一体何の為に生きていけばいいのだろう。今まで間違ったことをして、私はこれから何を信じればいいのだろう」
「……別に、自分を信じればいいんじゃないんですか? 今回負けたからと言って、俺の言っていることが全て正しいわけでも、必木先輩の全てが間違っているわけでもないんです。ただ『正しい』と思わざるを得ないだけで、決してそういうわけではないんです。俺は今回、「必木先輩は俺に助けられたがっている」という『意見』を無理矢理勝負で押し通しただけなんですから、必木先輩は必木先輩のままで、生きていけばいいんじゃないですか? ただ、俺が一言これからの必木先輩について言うことがあるとするならば、『自身の罪を自身の罪として背負い、かのラスコーリニコフのようにその罪を償いながら生きていったらどうですか?』ってことだけですよ」
「……」
……おっと。必木先輩が黙ってしまった。
少し無責任な発言だったろうか。
……いや、今のは大分無責任な発言だった。
うーん、どうしよう。気まずい。
……そうだ、ここはいつものくだらない会話でもして空気を和ませよう。そうだ、それが一番いい。
「――ところで必木先輩、実は俺、必木先輩のことが好きです」
うん? 俺は今なんて言った?
「今、それを言うタイミングかい?」
必木先輩が溜息をついて、そう言った。
そうだよ、今はそんなことを言うタイミングじゃない。
というか本当に何を言っているんだ俺は!
これは俗にいう墓まで持っていく台詞じゃないのか⁉
「い、いやあの、今じゃないと言えないような気がして」
俺はそう言った。
言ってしまったものは仕方がない。このまま押し通してしまおう。
……でも、人生の初告白がこんなものになるとは――思ってもみなかった。
告白って、こんなものなのか? いや、本来はこのタイミングで言わないだろう。
そして、俺が焦って次どう言おうか考えていると、必木先輩はまた一つ、溜息をついてこう言った。
「そうかい。……少なくとも、私の股間を蹴り上げた人物から出た言葉とは思えないね」
「そ、それは仕方がなかったんです。根に持たないでください」
「それで? 私が好きだからなんだって言うんだ?」
「え――、いえ、特に何も。言いたかっただけです。――ずっと、言えなかったから」
「……そうかい。ずっと言えなかったのか。それじゃあ、今回はっきりと言えてよかったね。さて、私に勝負で勝ち、告白も済ませて今君は相当良い気分であるだろうけれど、一つ、何か忘れてはいないかな?」
「え? 忘れていることですか?」
忘れていること。何かあっただろうか。えーっと……。ついうっかりしてしまった告白の所為で頭がうまく回らない。ああ、何を忘れているというんだ、俺は。
「外を見てみなよ」
「はい?」
必木先輩にそう言われ、俺は首を窓の方へと向ける。
「……これは」
窓の向こうには想像を絶する景色があった。
いや、この場合はなかったというべきかもしれない。
何故なら、窓の外には本来見える筈の空の模様はなく、白以外何も見えなかったからだ。
白、白、白――
見覚えがある、なんてものじゃない。
俺はこれを知っている。
「ミコト――」
俺は起き上がった。
まだ全身には疲労が溜まっている。でも、今はそれどころではなかった。
「ふっふっふ。最後だが君に一つ、いい言葉を教えておいてあげよう。
切り札は最後までとって置くべきだ――と」
「で、でも、なんであいつが……?」
「実はね、私がミコトから受け継いだ神の力は限定的だったんだ。貰ったわけではなく、借りていただけんだよ。そして、私が借りた能力がミコトへと帰る条件は『私が諦めること』だ。君が勝負に勝利したおかげでその条件は達せられた。今頃ミコトは私が敗北したことを知り、そして自分が君に騙されたことも知って怒り狂い、世界を無理矢理にでも壊しにかかっているだろう」
「そんな……っ、ミコトにはそれが出来ない筈じゃ……っ」
「出来ない、んじゃない。しない、んだ。彼女は言ってなかったかい? 『私は世界を崩壊させるには向いていない』と。出来ることは出来るんだ。ただ、力の加減と使い方を誤るけれどね。そう、自身の力を無理矢理にでも引き出して、自分の体の犠牲を厭わなければ不可能ではない」
「あんの……馬鹿野郎!」
「君は言った筈だよ。『こんな俺でも救いを求めている少女に手を差し伸べることくらいできる』と。まだ君は手を差し伸べていない子が一人、いるだろう?」
「……くっそ!」
「早く行けよ。私をこうやって自分勝手に救ってみせた君なら出来るだろう? 自分の想いを押し付けて私を救ったように、彼女も身勝手に救えよ。彼女だって、それを望んでいるだろうさ」
「は、はい!」
俺は立ち上がった。そして、ドアへと走り出す。
「……あ」
と、ドアの目の前まで来て俺は立ち止まった。
そういえばまだ、俺は必木先輩に言っていないことがある。
「必木先輩」
「なんだい、まだ何かクソつまらないことをいうつもりなのかな」
「これが終わったら――俺がミコトを救ってきたら、またいつもと変わらない超絶くだらない話でもしましょうよ。今度はミコトも一緒に、ゆっくりと」
「は? 超絶くだらない話?」
「ええ。例えば――来年の二十四時間テレビのランナー予想とか」
「ふふっ」
必木先輩が笑った、ような気がした。
「そんなの、分かるわけがないじゃない」
「そうですね、そうでした。では――行ってきます」
俺はドアを開け、再び走り出した。
ミコトのいる場所へと。
――そうだ、そうだよミコト。
未来なんて分かるわけがないんだ。
お前に世界がどう見えているかなんて俺には分からないけれど、きっとそんなの分かったところで、視えたところでどうしようもないんだよ。
だから、だから――そんな面倒くさいことはやめて俺と他愛のない話でもしようぜ――
そして俺はただ、無我夢中に走っていた。
昔の俺なら、絶対にしなかったことだろう。
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