7

 外の風が気持ちいい。


 空から降り注ぐ太陽の光に晒されながら、俺はそう思った。

 風がこんなに気持ちいいものだとは、思っていなかった。

 生まれて初めて、それに気付けたのかもしれない。


「さて、行くか。きっとこれで――最後だ」


 俺は学校の門をくぐり、玄関に着くと下駄箱から上履きを取り出してそれに履き換えた。

 そして爪先で軽く地面を二回蹴った後、俺は校舎の中を闊歩する。


 勿論、誰もいない。


 誰も見当たらない。


 きっと世界が滅んだあとは、こんな風に人間が消えて、跡だけが残るのだろう。


 こうやって誰もいない廊下を歩いていると、なんだか少し寂しい気分になる。最近まではそれほど気にしていなかったのに、今はなんだか心にぽっかりと穴が開いた気分だ。


 何故だろう。わからない。


 それから俺は旧校舎に向かい、階段を上って三階に到達した。そして、階段上ってすぐ右に曲がると俺は目的の場所に到着した。

 旧3の1の教室だ。今は3の1ではなく文芸部室となっている。


 ちなみに今の時刻は午前十一時五十七分。もう昼だ。俺はわざわざ、この時間に、ここにやってきた。


 ドアの前に立つ。


「……」


 俺はドアをノックせずに、開けた。


「今日は、必木先輩。今日は、いい天気だな――」


 俺は必木先輩にそう言う。


「……」


 必木先輩は、床に膝をついて両手を組み、祈るように座っていた。

 まるで、神に祈る信者のように。


「……お昼の読書の時間には来るなと、言った筈だよ」


 必木先輩は体勢を崩さずにそう言った。


「いや、必木先輩。お昼の時間は決して読書の時間じゃない。昼のこの時間は――祈りを捧げるための時間だ。先輩が信仰する宗教、不見蛇羅教の、祈りの時間だ。パンフレットにちゃんと書かれてあったぜ」


「……ふうん、つまり、君は私がこの時間を大切にしていることを知っておきながらわざわざこの時間に来たわけか。中々いい性格しているね。で何か用? このタイミングで現れたからには何かあるんだろう? 無理して使っていた気持ち悪い敬語を使うのもやめてくれたようだし、ね」


「いやいや必木先輩。タメ口なのは今まで無理をしていたからって理由じゃない。ここから先は俺の必木先輩に対するツッコミってだけだ。……そうだな。一つ、言っておかなければならないことがあって」


「そうかい。言ってみなよ。君のその汚い口で」


 俺は深呼吸をする。

 俺が言っておきたいこと。


「俺が言っておきたいこと。それは」

 それは、



「必木先輩。犯人は――お前だ」



 俺は必木先輩に向けて指を指して、そう言った。


 必木先輩が、立つ。


「へえ。いきなり人を犯人呼ばわりか。いい度胸をしているね。で、私は一体全体何の犯人なのかな?」


「……それは勿論。世界滅亡の件に関して。裏で手を引いているのは必木先輩、あんただ」


「ふうん。それはまたどうして」


「……どうしてなんだろうな。必木先輩。俺はあんたが犯人だとわかったけれど、いまいち動機がわからない。何故あんたが世界を滅ぼしたいのか、さっぱりだ。でもな、ミコトの動機ならわかったぞ。ミコトの動機。それは――教祖の事故死だ」


「……」


 先輩の眉が僅かだが動いた。やっぱり動機はこれに関連したことらしい。


「……不見蛇羅教。今や知らない人はいない有名な宗教だからな。ネットで調べたら一発で出てきたぜ。その教祖は約十年前の八月二十六日に教会で死んでいるが、死因は不明。不明にも拘らず警察は事故死と断定し、捜査は終わった。何故なんだろうな? 死因がわかってもいないのに事故死にしたのは。そして、それに関して何も疑問に思われていないのは。ちなみにミコトは教祖が人間に殺されたって言ってたぜ。心無い人間に。心を喰われて死んだってな」


「……」


「さあ、必木先輩。あんたは知ってるんだろ。何故教祖が死んだのか。誰に殺されたのか。それが――きっとあんたの動機だ」


「……」


 必木先輩は無表情だった。


「……っ」


 しかし、必木先輩の表情は段々崩れていく。口角がどんどん横に伸びていき、口を大きく開かせて、目を見開いた。


「くっ、はっ。あははははははははははははは‼」


 必木先輩は、笑う。


「私が――」


 そして必木先輩は、こう言った。



「私が。教祖を、あの人を――殺した」



「先輩が……?」


「そうだよ、驚いたかい? 私があの人を殺したんだ。あの人が死にたがっていたから私が殺した――私が殺したんだ。この手で。神の力、信仰の力、ミコトの能力を使って」


「……それが、動機」


「そうだよ。それが動機さ。……あの人は壊れてしまった。心無い人間達の所為で。だから殺すしか、なかったんだ。殺したくなくても、あの人が泣いていたから、苦しんでいたから、私は楽にしてあげたかったんだ」


「……詳しい話を訊いてもいいか? 必木先輩」


「私の話を聞いても何とも面白くないよ。……でも、いいだろう、ここまで辿り着いたご褒美として、話してあげよう。私の――過去を」


 必木先輩は窓の方を向いた。そして薄笑いを続けたまま、必木先輩は語る。


「……私は、私はあの人に拾われたんだ。親に捨てられて道端で座っていた私を、あの人は拾ってくれた。とても、優しい人だったよ。優しすぎる、人だったよ」


「あの人は困っている人に純粋に、ただ純粋に手を差し伸べることができる人だった。そしてあの人は、何故全ての人が幸せになれないのだろうと、憂いていたよ。……そんなことを考えたって何にもならないのに。そんなことを考えてもきっと、どうにもならないのに」


「それでもあの人は考えた。考えるのをやめなかった。そしてあの人は――答えに辿り着いたんだ」


「それが――宗教」


「宗教とは言っても教えはとてもシンプルで、わかりやすい、常識的なものだったよ。人を殺してはいけないとか、赤信号で道路を渡ってはいけないとか、そんなものだ。そんな、当たり前で大切で、かけがえのないことをあの人は人々に言い続けた。あの人は言っていたよ。みんながみんな、当然で当たり前のことをきちんとやっていれば、きっと世の中は素晴らしいものになるんだって。そんな甘くて優しくて――暖かいことを平気で言えるような馬鹿な人だったよ」


「そうやってあの人は宗教を始めた。もっともらしく崇める神様まで作っちゃって。でもあの人は、本気で、真面目で、人を救おうと、していたんだ」


「でも、世間の風当たりは強かった」


「そりゃ当然さ。胡散臭い信仰宗教なんて誰も聞いてくれない。信じてくれない。それどころか冷たい言葉を吐く人もいた。でもあの人は諦めず、活動を続けていた」


「そして――壊れた」


「非難が強かった。信仰してくれる人が増えれば増える程、否定する人も多くなった」


「その『否定』は、あの人を苦しませた。『否定』は嫌がらせへと変化し、あの人の心を蝕んでいったんだ」


「あの人は言っていたよ。人は人を傷つけるのが大好きだ。それは揺るがない人間の性質なんだなって」


「それはそうだよ。人間っていうのは人を傷つけるのが大好きだ。好きで好きで仕方がないんだ。自分が弱いことを知っているから。自分の弱さを他人に押し付けたがるんだ」


 必木先輩は笑っていた。

 何かを馬鹿にするかのような笑顔だった。

 でも、その表情はどこか悲しそうで、見ていられなかった。

 必木先輩は俯く。


「……でもさ、でもさあ」


「どうしてそれをあの人に押し付けるんだ? 何であの人に背負わせるんだ? それは筋違いだろう? ふざけるなよ。あの人がどれだけお前らのくだらない話に心を痛めたと思っているんだ」


 必木先輩は顔を上げる。

 その顔は先程までと違い、怒りに満ち満ちていた。


「あの人がどれだけ苦しんでありもしない答えを求めたと思っているんだ。全部可哀想なお前らの為だろうが。あの人の善意を蔑ろにしやがって何様のつもりだ。お前らのような屑共がいるからあのような優しい人が何時まで経っても報われないんだ。あの優しい人があんなに、あんなに素晴らしい人が――ふざけるな! お前らのようなお前らのような塵がいるから、塵がいるからいけないんだ! お前らの所為で、お前らの所為でっ、許さない許さない許さない‼絶対に許さない!」


「……先輩、必木先輩。途中から独り言になってるぞ」


「……」


 俺は一歩前に踏み出した。


「必木先輩。あんたが何を背負っているのかは大体予測がついた。なあ、必木先輩。それがあんたの動機なのか。自分の大切な人を苦しめた愚かな人間達への復讐。それが――動機だったのか」


「……そうだよ。とてもシンプルだろう? ありきたりだろう? 所詮動機なんてこんなものさ。……こんな、ものなんだよ」


「そうか。納得した。確かに人の話もろくに聞かずに否定するバカはムカつくよな。そりゃそうだ。そうに決まってる。俺だってそんな奴は嫌いだ。口には出さないが死ねばいいのにとは思っている。意味のない嫌がらせをする奴だってそうだ。わざわざする必要もないのに傷を抉ってくるクズも死んだ方がいい。いいね、先輩は間違っていない。間違ってないさ。無価値なクズやゴミは即刻処分するべきだ。正しいよ。マジで正しい。狂っているくらい正しいぜ――だがな」


 俺は息を吸う。

 きっと、俺も必木先輩に少し似ていたのだろう。

 理不尽に悩んで理不尽に追い込まれて。その理不尽を恨んで人を憎んで生きてきたんだ。

 でも、その『理不尽』には自分にも原因があることを――知らないんだ。

 だから俺は言わなくちゃならない。

 自分に跳ね返ってくるその言葉を。

 俺自身も――知るべきだから。



「だがな先輩。俺は。俺は先輩の考え方が――気に食わない」



「気に食わない。そんな狂った正しさは気に合わない。クズもゴミもバカもムカつくからまとめて処分するだなんて正義――気に入らない」


「……は?」


「先輩、必木先輩。気付けよ。自分の弱さを知っていながらその弱さを他人に押し付けて傷つける無価値な人間のクズ。俺達もそうじゃねえか。あんたは結局自分の弱さを『あの人』とやらに背負わせて、その人がいなくなったから今度はその人を痛めつけたクズ共を殺すって言っているんだろう? そんなことして何になるんだよ。自分が犯した罪を償おうとせずに次の罪を生んで――何がしたいんだよ。いや確かにこの世界には、このどうしようもない世界には死ぬべきクズは存在するよ。生きている価値のないゴミだって。でもな、死ぬべきクズを殺したって何にもならないだろ。人を殺した罪が残るだけだ」


 口が止まらない。

 俺はもう、自分が何を言っているのかはっきりとはわからなくなっていた。


「つーかそもそもこんな世界に価値なんてない。俺達に価値はない。当然だろ。何処に俺達や世界の価値を示す基準点があるって言うんだ。何処にもないよな。そんなもん、何処にもないんだ。だから俺達はなんとかして価値を見出して生きていくんだ。くだらないものに付加価値をつけたがるんだ。容姿がいいとか勉強ができるとか、そんなどうでもいいことに価値を求めたがるんだ――」


「……それは、最早君の話じゃないかい?」


「そうだよ。これは俺の話だ。俺の話だよ。勉強すれば他人に価値をつけてもらえると勘違いしていた痛い奴だよ。しかも誰にも救われないのを勝手に嘆いていて、人を憎んでいた馬鹿な奴だよ。……でもそれって当たり前だよなあ。当たり前なんだよなあ! 自分からは何もしないくせに誰かに助けてもらおうだなんてなあ! それで人を憎むなんてとんだ筋違いなんだよなあ! そんなの、狂っているとしか言いようがねえよなあ!」


「でもさ、でもさあ! こんな狂っててクズでゴミな奴でもさあ! 生きなきゃなんねえんだよ! 世界がいくら無価値で自分が無価値でも生きていかなきゃならねえんだ! 自分が築いた罪は自分で何とかしなきゃなんねえんだ! 他人に任せていいもんじゃねえんだよ! ましてや他人に押し付けていいもんじゃねえんだよ!」


 そして俺は笑ってしまった。

 自分が一体何を言っているのかわからない。

 何の話をしているのかわからない。

 そうだ。わからない。

 でも、言いたいことは、言わなきゃいけないことだけは、はっきりとわかっている――


「先輩、ああ、必木先輩。こんな簡単なこと、あんたが気付かせてくれたんだぜ。人生とやらに勝手に絶望していた俺にあんたは見下した目でこう言ったんだ。覚えているか? 『まるで自分が世界の中心に立っているかのような顔をしているね――吐き気がする』ってな! 全くもってその通りだ! あの時俺は自分が特別な人間だと思っていたんだ! 誰かに救ってもらう価値のある特別な人間だってな! そして勉強しかできない自分に新たに誰かが価値を見出してくれるってなあ! ――最初はあんたの話に納得がいかなかったが、あんたとの話に付き合うにつれて考えが変わったぜ。俺は確かにあんたに救われたんだ。誰にも救われない筈の思い上がった一人のクズが、確かに救われたんだ。あんたのおかげで俺は変われたんだ。必木先輩、だから今度はあんたの番だ。俺が先輩を救う。『誰も救わない人間は誰にも救われない』とあんたは言ったが俺はそうは思わない。きっと、『誰かに救われた人間は誰かを救える』んだぜ――」


「――は」


「はっはっはっはっ」


 必木先輩は嗤う。


「君が、君が。私を救うだって? 一体何からどうやって?」


「俺は先輩から、先輩を救う」


「私から――私を? ちょっと何を言っているのかわからないね。もっとわかるように話してくれよ」


「俺は馬鹿だからさ。そんなことを言われても上手く答えられない。だけど、これだけは確実に言える。必木先輩。あんたは俺に救われたがっている――」


「は? 思い上がりもいい加減にしたまえよ。君のような何もできない男が何をできるって言うんだい?」


「何もできないさ。世界を滅ぼすことも世界を救うなんてことも俺にはできない。特別なことはこれっぽっちもできやしない。でもな、たとえこんな俺でもさ。救いを求めている少女に手を差し伸べることくらい――できるんだぜ」


 だって、それくらいのことなら、誰でもできるから。

 だから俺はやるんだ。

 それが勘違いでも筋違いでも――思い上がりでも。


「先輩。必木先輩。本当はあんただって気付いているはずなんだ。何でこんな状況になっているのか。それは必木先輩がそう仕向けたからなんだよ。最初に言っただろ。世界滅亡の件に関して裏で手を引いているのは必木先輩、あんただって。俺がこの場に立ってこんな台詞を吐いているのも全てあんたの仕組んだ通りなんだよ」


「私が仕組んだって? この状況のどこに私のメリットがあるっていうんだい?」


「ねえよ。メリットなんてねえ。そうだよ。メリットなんてないんだ。誰にも自分が黒幕だと知られず世界滅亡の日まで悠々と過ごしているだけであんたの復讐は完成した筈なんだ。なのにどうして俺の下へミコトを送ったんだ? それは世界を滅ぼせる人間が俺だけだから? 違うな。世界が滅んでほしいと思っている人間が条件ならそんな奴は山ほどいるだろ。俺以外に沢山。必木先輩自身だってそうだ。でもミコトは俺じゃないと駄目だと言い張ったんだ。それが予言なんだ、と。そしてその予言を伝えているのは必木先輩、あんただったよな? そして不見陀羅教のパンフレット。あれは俺の目につくように部屋の廊下に置かれていた。つまり投函せずに廊下に置いたんだ。それっておかしいよなあ? ただの勧誘なら投函すればいいだけだ。だけれどパンフレットはわざわざ鍵のかかった扉の向こう側に置かれていたんだ。ミコトを使って置かせたんだろうが、どうしてそんなことをする? おかしいよな。そんでもって次に俺がここに来た時の反応についてだ。あんたは慌てなかった。まるで最初から俺が来ることを知っていたかのように。それで俺が犯人はお前だと言ったら反論せずに自分が犯人だと認めた。シラをきればやり過ごせたかもしれないのに。あっさりと認めた。何故だ。何でこんなことをする」


「……」


「答えは簡単だった。必木先輩、あんたはヒントを出し過ぎたんだよ。最大のヒントは『罪と罰』。あんたは言ったな。『罪は必ず裁かれる』と。それだけの話をするためなら別に『罪と罰』じゃなくてもいいだろ。じゃあ何で『罪と罰』なんだ? 愛読書だからか? 違うよな。『罪と罰』である必要が他にあったんだ。ところで必木先輩。『罪と罰』の主人公、ラスコーリニコフが物語の最後にどうなったかは勿論知っているよな?」


「君……あれを読んだことがあったのか」


「当然だ。この部屋にある小説は全て読んだ。必木先輩の言った通りだ。くだらないことで絶望しているくらいなら本でも読んだ方がマシだった。作家一人一人の想いが小説に閉じ込まれていて、とても感心させられた。日本の作家だとか外国の作家だとかラノベ作家だとか、そんなのは関係ない。一つ一つの物語にそれぞれの思想や経験が凝縮されていて、どれも素晴らしいものだった。俺は感動したよ。俺は世界に価値を見出せなかったけれど、世界にはこんなにも価値があって美しいものが存在するんだってな――

 おっと、話がブレたけど、ラスコーリニコフの最後はどんなものだったか。それは自首――彼はもがき苦しみながら自らの罪を認め、罰を受けることにした。必木先輩、あんたも彼と同じだ」


「まあ、必木先輩の場合は自首ではなく他人にトリックを暴かせたんだけどな。でも結局――行きつく先は同じだろ」


 そして俺は再度必木先輩を指で指す。


「あんたは自己矛盾に陥っていたはずだ。『罪は必ず裁かれる』と言いながらも自分自身は裁かれない。自分はいつまでも罪を背負い続けたままだ。だからあんたは裁かれたかった。そう、自らも裁かれるために俺を使ったんだよ。自分で自分を裁くことができなかったから他人に裁いてもらおうとしたんだ。必木先輩――ここまであんたの話の筋書き通りだ。そしてここからも、筋書き通りに話は進むぞ」


「それは君が世界を滅ぼさず、救うってことかい?」


「いいや、違う。俺は世界なんてどうなってもいい。

 俺がしたいのは――あんたを殺さず、救うってことだ」


「それは傲慢じゃないのかい?」


「傲慢だよ。傲慢で何が悪い。それに、一人の人間が世界を滅ぼそうとするだなんて、そっちの方がよっぽど傲慢じゃないのか?」


「……そうだね、確かにそうだ。でもだからと言って私は止まれない。止まる気はない」


「……それじゃあ仕方がないな」


「……それじゃあ仕方がないね」


「いつも通りの決め方で」


「いつも通りの決め方で」



「「では」」



 俺と必木先輩は向かい合って、言う。



「「――勝った方が正しいということで」」



 俺は走った。勝負は一瞬。一瞬でケリをつける――


 俺は拳を握った。今俺はミコトからもらった神の力によって身体能力が大幅に強化されている。この拳を一発、必木先輩に食らわせて気絶させれば勝負は終わる――


 そう、思っていた。


「は?」


 俺は宙に浮いていた。


 いや、浮いているんじゃない。

 これは――飛んでいるという方が正しい。


「ああああああああああああああああああああああああ⁉」


 俺は宙を舞い、とんでもないスピードで本棚に衝突した。

 衝突した勢いで本が本棚から飛び出す。

 そして俺は本棚も部室の壁もぶち破り、隣の教室まで吹っ飛んでいた。


「あ……が」


 何が起こった? わからない。必木先輩の方へ向っていったらいつの間にか俺は吹っ飛んでいた。


「君はやっぱり愚かだね」


 壁の向こうから声が聞こえる。


「私が教えてあげた世界を救う唯一の方法『ミコトを騙す』を実践して神の力を手に入れたようだけど、先程言ったばかりだろう? 私は神の力、信仰の力、ミコトの能力を使ってあの人を殺した、と。私が神の力を持っていないでも思っていたのかい?」


「う……そりゃ、そうだな」


 俺は周りの瓦礫を払いのけて立ち上がる。


「さて、まだ勝負のルールを決めていなかったね。ルールはそうだな、フェアにやろう。私が片膝でもついたら君の勝ち、君がそうやって立ち上がるのをやめたら私の勝ち、というのはどうだろう」


「全然フェアじゃねえじゃねえか……」


「フェアだよ。何故なら私は何年も前からこの力に慣れ親しんでいる。それに比べ君はその力を手に入れたばかりだ。経験の差だよ」


「……そうかい。じゃあルールはそれでいいぜ」


「そうか、じゃあかかってこい。さっきのは手を抜いてやったんだからこれくらいで音を上げられたら話にならないよ」 


「ははっ、手を抜いてこれかよ。マジあり得ねえ。あり得ていることに疑問を感じるぜ。まったく、必木先輩は何時だって俺を驚かせやがる――」


 まったく、本当にそうだぜ。

 必木先輩は俺を驚かせてばかりだ。


 必木然子。


『必然』の異名を持つ天才――


「うおおおおおおおおおおおお‼」


 俺は再び走り出した。穴の開いた壁を通り抜け必木先輩に向かう。


「また無鉄砲に向かってくるのかい。莫迦だねえ。それだとまた同じ目に遭うよ」


 必木先輩は俺の手首を掴み、踏み込んで横に振り投げた。


「おおおおおおおおおおおおお⁉」


 俺は再び宙に舞う。そして壁を二枚貫通して向かいの教室まで吹っ飛んでいた。


「いっ、てええええええええ‼」


 神の力で肉体が大幅に強化されているとはいえ、痛覚は正常に作用している。たしかに、これが続いたら俺は立ち上がることを諦めてしまうかもしれない。


 これがあと三万回くらい続いたら諦めようと思うかもしれない。


「はっ、勝負の敗北条件が『俺が諦めること』で本当によかったぜ。これなら俺が負けることは絶対にねえ――」


 俺は立ち上がった。


「必木先輩。この勝負、貰った。俺が負けることは、ない」


 ――と言っても俺が勝つ保証は何もない。このままの状態が続けば俺が負けることはないが勝つこともない。なんとかして勝機を探さないといけない。


(どうにかして隙を作らなければならない。もしくは必木先輩の隙を突いて――って必木先輩に隙があったか?)


 俺はまた必木先輩の下へ走り出した。

 隙、隙が少しでもあれば――


「おらっ!」


 俺は拳を必木先輩に向かって突き出した。

 しかし、必木先輩は避けもせずまた俺の手首を掴んで踏み込み、今度は上に放り投げた。


「ふん」


 また俺は宙を舞うことになった。


「おおおおおおおおおおお‼」


 そして天井を突き破り、俺は上の階層の天井に背中から叩きつけられる。


「が、っは」


 肺の中の空気が全て吐き出された気がした。

 叩きつけられた後、俺はそのまま重力に従って落下する。


(駄目だ、このままじゃ勝てない。なんか必木先輩の隙っぽいのは見つけたけど、確証はないし、何より必木先輩は俺よりも速く動いている。単調な動きじゃ何時まで経っても勝ち目はない――)


 と思っているうちに俺は必木先輩の目の前まで落下した。

 必木先輩が足を大きく振り上げている様子が目に映る。


(おい、ちょっと待て、これって踵落とし――)


 今度は床に穴を空けることになった。俺は床を二枚貫いて一階の床にへばりつく。


「んがっ……っはーはー」


 俺はうつ伏せに大の字になって床に倒れていた。

 息が苦しい。

 三万回なんて見栄を張りすぎた。もうキツイ。もう体が悲鳴を上げている。


「マジかよ……っはー、これで終わりとかあり得な、っはー。つーか苦し……ん?」


 重い体をなんとか動かして仰向けに寝転ぶと、上から何かが降ってくるのが見えた。


 いや、何か、じゃない。この場合、落ちてくるものなんて一つしかない。


(必木先輩っ……!ヤバイ、今先輩の蹴りをくらったらひとたまりもねえぞ!)


 俺は慌てて床を転がり、必木先輩の落下地点から移動した。しかし、転がった勢いで教室の壁に思い切りぶつかってしまった。


 そして、ドン、と。


 落下の衝撃で地面が大きく揺れる。


「ふう、君はその程度かい? もっと戦えると思っていたんだけれど、この程度じゃ暇潰しにもならないよ」


 必木先輩は床に突き刺さった右足を引き抜きながら退屈そうに首を傾け、そう言った。


 俺はフラフラになりながらも立ち上がる。


「……言ってくれるぜ必木先輩。でも、やっとこっちにも勝機が、っはー、見つかったんだ。んっく……これで俺にも勝てるチャンスがあるわけだ」


「ハッ、息を切らしながら言われても説得力がないね。そうかい、じゃあ是非私に勝ってもらおうかな」


「じゃあそうさせてもらおうかな……ッ!」


 とは言ってもまだその勝機に確信が持てていない。あと二、三回は確認したい。だが、その回数は必木先輩に吹っ飛ばされる回数と同じだ。俺に、その回数分耐えられるだけの体力が残っているだろうか。いや、もうそんなことは言っている場合ではないか。何としてでも勝たないと――


「うおおおおおおおおおおおおおお⁉」


 俺は走った。とにかく走った。そして今度は右の手首を掴まれて一本背負いを食らった。


「んぐあ‼」


 地面に叩きつけられた俺はそのままなす術もなく壁に向かって投げられる。

 また俺は壁を二枚突き破って向かいの教室まで飛んでいた。


 ……最早ここまでくるとコメディだと思う。

 こうやって壁や床に軽々と穴を空けているとまるで校舎がハリポテでできているんじゃないかと錯覚する。


 っつーかすごいな、この校舎。穴だらけにされているというのに倒れる様子がない。やっぱり使われない、というのは勿体ないな――って今はそんなことを言っている場合じゃないか。


 俺は片膝をついて立ち上がろうとした。


「悠長だね。そんなゆっくりしていると――死ぬぞ」


 必木先輩がこちらに向かって走ってきた。やばい、速い、このままじゃ――


 とん、と。


 必木先輩の左足が、立ち上がろうとしていた俺の右膝を踏みつける。


(おい、これってまさかシャイニングウィザ――)


 ドン、と。


 必木先輩の右膝が俺の左頬に炸裂した。


「あばっ⁉」


 蹴られた衝撃で意識が飛びそうになる。


「まだ終わってないよ」


 がしっ、と。


 俺の髪の毛が掴まれた。


「ちょ、待っ」


「待たない」


 今度は顔面を必木先輩の左膝に叩き込まれた。


「んがっ……」


 そして俺が地面に倒れ、必木先輩が着地する。


「ふう、こんなものか。――駄目だよ、君みたいなゴミが相手じゃ話にならない。私に勝つ? 十年どころか百年あっても無理だよ。千年は修行を積んで来い。それが私と君との経験と――覚悟の差だ」


「……」


 俺は床に仰向けに倒れたまま、動かない。

 ……もう駄目かもしれない。

 まさかここまで強いとは思ってもいなかった。

 勿論、必木先輩のことだ。それなりに戦えるだろうし、それなりに苦戦すると思っていた。


 でもこれ――「それなり」ってレベルじゃねえ――


「ははは」


「うん?」


「ははははははは」


「何を笑っているんだ。気持ち悪い。まさか君、変な方向に目覚めたんじゃないだろうね。やめてくれよ。流石にそれは私でも――引く」


「ははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは‼」


 やっぱり、必木先輩だ。


 これが、必木先輩だ。


 いつも俺の予想の遥か上を歩いている。

 バケモンみてーな女だ。

 いつも俺を見下して、見下ろして、蔑んだ目で見ている奴だ。


 確かに、俺は頭がおかしいのかもしれない。



 だって俺はこんな状況になってもまだ――必木先輩が、好きなんだ。



 どうしても、助けたいんだ。



「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお‼」


 俺は必木先輩の足を掴んだ。


 そして力いっぱい引き込んだ。


「うん、そうこなくっちゃ、まだ殴り足りない」


 必木先輩はそう言って俺に掴まれた足を振り上げた。

 そして、振り上げた勢いでもう片方の足を上げ、必木先輩は地面に両手をつき、回転する。


(おいおい今度はカポエイラかよ大サービスだな――)


 ぶん、と。俺が宙に浮かび、回転の勢いに負けて吹っ飛んだ。

 ばんばんばーん、とまた教室の壁を二枚ぶち貫いて壁に激突した。


「……うっぷ、」


 俺はフラフラとしながらも周りの瓦礫を掃いながらボロボロになった体を持ち上げる。


(……っふー、よし、これで距離はとれた。もう俺に体力は残されていない。チャンスは一回。一回だけだ。必木先輩の隙を突いて俺は勝つ――)


 そう、チャンスは一回。一度きりだ。

 必木先輩には隙がある。


 俺はただ、なんの考えもなしに必木先輩に突っ込んで返り討ちにあっていたわけではない。

 俺はなんとかして必木先輩に隙がないか探っていた。そして、やっと確信が持てた。


 必木先輩には、致命傷となりえる癖が一つある――


 そしてその癖が現れる一瞬に全力を掛ける!


「……なあ、必木先輩」


「なんだい」


「ずっと気になっていたことが、あったんだ」


「気になっていたこと?」


「そう、気になっていたこと。どうして俺が今この立場にいるのかっていうことだ。俺は勉強ができること以外は何の特徴もないただの男子高校生だ。何かの物語の主人公でもないし、どこかの偉い人間でもない。特別な人間では、ない。でも俺は何故かミコトに世界を滅ぼしてほしいと頼まれて神の力を得て、こうやって世界を滅ぼす・滅ぼさないなんていうとんでもない選択肢を手に入れた。……何故なのかずっと考えていたんだ。なんで俺なんだろうって。本当は誰でもいい筈なんだ。俺にできることなんて他の誰にでも出来る筈だから。俺じゃなくてもいくらでも代用は効くんだ。でもミコトも必木先輩も俺を選んだ。俺以外の人間ではなく、俺という人間だけを選んだ。不思議だったんだ。でも、やっとわかったんだよ。何で俺が今こうやって必木先輩の前に立っているのか。その理由はとても簡単だった。


 ――別に俺じゃなくてもよかったんだよ必木先輩。本当は誰でもよかったんだ。ただ、あの日に必木先輩と出逢ったのが俺だったというだけで、必木先輩の目についたのが俺だったというだけで、あの時出会った人間が他の誰かなら、そいつに今の俺の役目が押し付けられていただけんだ。俺はただ偶然あの時に必木先輩と知り合ったからこの場にキャスティングされたに過ぎないんだよ。これに気付いた時は滑稽で笑いそうだったよ。俺は神に選ばれた人間でもなく、特別な人間でもない。ただの運が悪い人間だったんだ。全ての始まりは必木先輩で、俺はその必木先輩と出遭ってしまったからこの物語に参加させられただけのただの脇役だったんだ。

 ……でもな、必木先輩。



 ――あの時必木先輩と出遭った人間が俺で、本当によかったぜ」



 俺は構える。


「行くぜ、必木先輩。これで、俺は勝つ」


「はっ、やってみなよ。サンドバック。もう二度と減らず口が叩けないようにボコボコにしてやるさ」


「じゃ、遠慮なくッ――」


 俺は必木先輩に向かって走り出した。


 ――駄目だ。もっと速く。これじゃ必木先輩に追いつかれてしまう。

 速く。速く速く。

 誰にも負けない速さを――


「⁉」


 俺は拳を握る。


 必木先輩は俺の速さに驚き、一瞬目を見開いたが、すかさず俺の拳を握った手の首を掴み、踏み込んだ。



 ――ここだッ‼














 勝負は一瞬の間に決着がついた。



 俺は、必木先輩との勝負に――勝った。

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