6
突然だがここで少し、自分語りをしよう。
俺は、中学二年の秋まで、勉強漬けの毎日を送っていた。勉強が好き、勉強が趣味、というような酔狂な人間ではないが、俺は毎日毎日、勉強をしていた。理由は至って簡単。勉強しかすることがなかったからだ。
親も教師も、俺が勉強をして成績を上げれば褒めてくれた。えらいえらいと俺を認めてくれた。母は勉強に関しては厳しかったけれど、俺がいい成績をとれば俺の頭を優しく撫で、「あなたはそれでいいの。勉強すればきっといつか報われるから」と言ってくれた。
それは、どこの家庭でもありふれた出来事だったのだろうけれど、俺にとってはそれが全てで、何よりも大切なことだった。どれだけ複雑で面倒な計算も、どれだけ技巧的でわかりにくい文章も、大人達から褒めてもらえれば、俺にとってそれはなんの苦にならない。むしろそれを解くことができればもっと褒めてもらえるのだから、そういう問題があれば俺は率先してそれに取り組んだ。
勿論、先程言った通り俺は勉強が好きな人間ではない。
でも、
遊んだって誰も褒めてくれない。
騒いだって誰も認めてくれない。
だったら、だったら――勉強するしかない。
俺のやるべきことは大人達が示してくれている。
大人達が示していることをやれば大丈夫。
そう、大丈夫なんだ。間違ってない。
勉強さえしていれば大人達は俺を認めてくれるし、進むべき道を教えてくれる。 だから、だから――問題ない。
そう、思っていた。
ある日のことだ。
その時の俺は中学二年生だったが、高校受験を念頭に置いて勉強を始めていた。 そして、その日は、俺が以前受けた模試受験の結果が発表される日だった。結果は当然良い出来だった。国内でも有数の進学校に余裕で合格できるほどの点数をとっていた。
俺は気分が高揚していた。教師に素晴らしいと言われ、結果を両親に見せるように言われた。言われなくともそのつもりだったけれど、教師にそう言われることで、また俺は興奮した。これを見せれば褒めてくれる。俺を認めてくれる。俺に価値を見出してくれる。
その日は早く家に帰りたくって仕方がなかった。早く家に帰って結果を両親に見せ、頭を撫でてもらいたかった。中学二年生にもなって子供くさいと思われるだろうが、それが俺の欲求を満たし、また、安心させてくれた。俺は間違っていないと、俺は正しいのだと。思わせてくれるのだった。
俺は学校が終わると足早に帰宅した。模試結果を握りしめて走って帰った。
「ただいま!」
いつものように元気よく言って、靴を脱いで、揃える。
「……?」
しかし、俺の言葉に返事は来なかった。俺は不思議に思い、リビングに這入った。
「……父さん?」
リビングの、ソファの近くで父が立っていた。だけど、少し、いつもと様子がおかしい。父は息が上がっているように見え、肩を大きく上下させていた。
「父さん? どうしたの? あのさ、今日模試の結果が返っ――
「お前はッ! お前は勉強が全てだなんて思わないよな! 学歴が全てだなんて、思わないよなッ!」
突然父に両肩を掴まれ、そんなことを言われた。父親が、何を言っているのかがわからなかった。でも、肩を揺さ振られている時に、俺の視界にあるモノが映って、状況を理解した。
――母が、父の後ろ、ソファの向こう側で、血まみれになって倒れていた。
喧嘩の発端は、父の学歴の話を母がしたこと、だそうだ。
父は学生時代、成績があまりよくなく、それをコンプレックスの一つとして抱えていた。だから子供の俺を勉強ができる優秀な人間にしたかったのだろう。しかし、それは父が劣等感を抱き続ける要因となり、ストレスが蓄積されることになった。
そしてあの日、母と父が俺の進路の話で揉め、ついに母が父の学歴の話をしてしまったことによって父に溜まっていたストレスが爆発した――ということなのだろう。父は俺に詳しいことを話してくれなかったが、俺はなんとなく、以前から察していた。それでも俺は自分が優秀な成績を残せば父の代わりに劣等感を晴らしてあげられるだろうと思っていた。
でも、それは勘違いで、筋違いで――思い上がりだった。
「勉強ができたって、何になるんだよ……勉強が、何だってんだ……」
父が俺に最後に言った言葉は、それだった。
そして結局、母は死に、父は逮捕され、俺は親戚の叔父さんに引き取られることになって、
――俺は、勉強をするのをやめた。
事件が終わって一年後、家に一通の封筒が届いた。
それは私立大帝徳高校からの推薦状だった。
私立大帝徳高校。
それは、学校側が推薦した者しか入学できないという超エリート校。いくら成績がよくても、運動ができても、推薦されなければ入学できないと言われている学校だ。
当時の俺はもう勉強もせず、学校にも行かず、ただ毎日することがなく家で寝転んでいることしかしていない、誰からどうみてもダメ人間だった。そんな自分に推薦状が送られてきたので何かの間違いだと思って学校に問い合わせてみた。だが、推薦したのは確かに俺だと言われ、俺は何か騙されているような、新手の詐欺にあっているような気分になったのだが、お世話になっている叔父に行くように勧められたので仕方なく俺は大帝徳高校に入学することを決めた。今更エリート校に入学したって何にもならないと思っていたけれど、だからといってそのまま学校にも行かず叔父さんに迷惑をかけるのも申し訳ないような気がしたのだ。
そして俺は間も無く大帝徳高校に入学した。
しかし、エリート校に入学したからといって俺の生活が劇的に変わるわけはなく、真面目な中学時代と同じように学校に通っていた。ただあの頃と違った点は、全くと言っていいほど勉強をしていないことだった。勉強をせずともそこそこ良い成績はとれた。長年勉強漬けの生活を送ってきたおかげでテストの大事なポイントを記憶するコツ、のようなものが身に備わっていたのだろう。おかげで俺は成績優秀者の仲間入りとなり、寮を利用することができるようになった。俺はすぐに叔父の家から出て、寮に住むことにした。
叔父の家を窮屈に思っていたわけではない。
ただ、家に帰るという行為が、怖かっただけだ。
家に帰ってきた時に、いる筈の人がいないということを考えるのが嫌だった。
ただ、それだけだ。だから、俺は入寮した。
――エリート校である大帝徳高校の成績優秀者として認められる。
それは一般的に考えれば嬉しいことなのに、俺の胸の中には虚しさしか残らなかった。
俺を褒めてくれる人も、認めてくれる人も、俺を導いてくれる人も、もういない。
何をしたって無感動、何をしたって無関心。
もう俺は、世界が滅ぶと言われても何も思わない――いや、むしろこんなつまらない世界が滅んでくれるのなら喜ばしい、と思っていた。
そんな頃の、ある日のことだ。
俺は必木先輩と出逢った。
出逢った理由は単純で、俺が興味本位で旧校舎に訪れた時に偶然逢ったというだけだ。
だけどその偶然は、俺の価値観を変えることになる。
「なんだ君は。世界に勝手に絶望して、何もしていないのに諦めたような顔をしているね。気持ち悪い――」
初対面の時に言われた言葉はこうだった気がする。
どんな顔だよと突っ込みたくなる言葉だけれど、当時の俺はその言葉が胸に刺さった気がして、初対面にも関わらず声を荒げた記憶がある。
これが俺と必木先輩の出逢いだった。
当然、お互いの初対面の印象は最悪だったと思う。だが、俺は何を思ったかそれ以降放課後に旧校舎へ足を運ぶようになった。
自分でも理由はあまりわからない。
多分、初対面で言われたあの言葉がどうしても自分の体の中から抜けなくて、それが悔しくて、一つでも何か言い返そうとして旧校舎に向かったのだと思う。
だけれど、俺は必木先輩に何か言い返せたことは今まで一度もない。全戦全敗中だ。
そして連敗記録を伸ばし続けているある日、必木先輩にこう言われた。
「……そういえば、何で君は私に敬語を使うのかな?」
俺は出逢って暫くの間、必木先輩にはタメ口だった。
最初はただ、口が悪くてムカつく一つ年上の先輩としか思っていなかった。
でも先輩と話をしていくうちに、考えが少しずつ変わっていった。
俺の身勝手な想いを上から叩き潰して現実を分からせる――必木先輩はそうやって俺を少しずつ変えていった。
必木先輩本人はそう深く考えてはいないだろうが、俺は必木先輩にそうやって自分の心の闇というものを消してもらっていた。
そう、必木先輩と会話するごとに、俺の中にある負の塊、みたいなものが軽くなっていったのだ。俺の荒んだ心は必木先輩に救われたのだ。
そして俺は、必木先輩は尊敬できる先輩だと思った。
だから必木先輩には敬語を使うようになった。
だけれど必木先輩に「今までタメ口だったのにいきなりそんな風に言われると気持ちが悪いね。まあ、自分の身分を弁えた上での行動なら猿のくせには進化したって感じかな――でも、敬語を使うなら条件がある。それは、会話のテンポ、リズムを悪くしないということ。敬語だと使う文字数が増えるからツッコミのようなキレが重視される言葉には敬語ってあまり向かないんだよね――」と言われた。
その時は「これからもボケる気満々じゃないですか!」と突っ込んだのだけれど、成程これはちょっとテンポが悪いと思ってそれからはツッコミだけはタメ口で言うようにした。しかしまさかテンポの問題で敬語を使うなと言われるとは思っていなかった。
それから俺は放課後に必木先輩と他愛のない話をよくするようになった。必木先輩がいつものように変なことを俺に言って俺がそれにツッコミを入れる。そんな日々がしばらく続いた。
そしてある日のこと。
俺は入部届を持って部室を訪れた。必木先輩に入部を認めてほしかったからだ。必木先輩は快く入部を認めてくれた(と言ってもその時に散々毒を吐かれたが)。だが、その時に俺は必木先輩から一つ条件を提示された。それは「お昼時間は部室を訪れないこと」だった。特に気にすることでもなく、そんな軽い条件で入部できるのなら俺は構わないと思ったのだが、俺はその時何をどう思ったか「えー、何でですか? お昼の時間は読書の時間なんでしょう? だったら別にいいじゃないですか」と言いやがった。
今でも何でこんなことを言ったのかわからない。俺はたまに意味の分からないことを言ってしまうのだ。
しかし必木先輩は俺のそんな意味不明な態度に眉を少しも動かさずに「そうかい。君が気に入らないならこうしよう。何か二人で勝負事をして勝った方が相手の意見を飲むんだ」と言った。俺はまさかそう返されると思っていなかったが頷いて、「ええ、いいですよ。でも何故ですか?」と必木先輩に問いかけた。
すると必木先輩は得意そうに「この世は理不尽だからね。誰かが正しいことを言ってもその人が負ければその人の言葉なんて無価値さ。この世は勝った方の言うことが正しいんだ。勝者は絶対だよ。――そうだね。これからもそうしよう。お互いの意見が衝突した時、勝負をしよう。そしてその勝負に勝った方の意見を通すということにしようじゃないか。いいね、実にシンプルだ。そうしよう」と笑いながら言った。
それから俺と必木先輩はことあるごとに勝負もするようになった。
勿論のこと俺が全戦全敗なのだがそれでも俺は特に気にはしなかった。
勝負の度に酷い目に遭うがそんなこと少しも気ならなかった。
俺は必木先輩と話せるならそれでよかった。
痛くて脆くて危うくて。
でも幸せと呼べる日々が続くのなら、俺はそれでよかったんだ。
随分前に失くした暖かさを、随分前に失った心地良さを、俺は再び知ることができたのだろうから。
でも、いつの世にも『幸せ』というものには終わりが来る。
俺の場合は『予言』だった。
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