序章 第3話

 すっかり会話に熱中していたが、そういえばリンが仕事に行かなければいけないのを、クルトはすっかり失念していた。

 もうこの村からリンたち親子が旅立つことも決まったし、なによりこんな小さな女の子に、自らの家を掃除させている環境においている村人たちに思うところはあった。しかし、終わる人間関係でも筋を通すのが義理というものだ。彼は止めようとする言葉をぐっと堪えて少女を見送った。

 そして自分自身も、研究の為にこの村を訪れているのである。職務をおろそかにする訳にはいかない。

「どちらへ向かわれるのですか?」

 まだクルトの目的を知らないニイドが尋ねてきた。別段隠すようなことでもないので正直に話す。

「神殿ですよ。この村の奥にある山の中腹に、かつて霊験あらたかな場所があったと聞いていて。どう行けば着きますかね?」

「ええ、この家の脇の山道を奥に向かって進むと、おおよそ1時間ほどでたどり着くかと。……しかしなぜあのような場所へ?もう神官の方々も引き上げてから数年経ちますので、誰も居ないと思いますが」

 本国にあった資料の通り、やはり無人の神殿になっているようだ。かといって、行く意味がなくなったわけではない。

「実はですね、先ほど僕が言っていたこの土地における魔力枯渇の原因が、もしかするとその神殿と何か関連があるのではないか、そう僕はにらんでるんです」

 今回の調査は国からの直接の指示ではないが、魔術院はもとより、王国政府の高官や大臣からも関心を集めていながら特定には至っていない事柄である。どこからそういった静かな圧力が来るのかは知りたくもないが、予算を分けてもらっている身であるなら、しっかりと務めを果たさないといけないのも当然のことなのだろう。

 それに、クルトは個人的にもこの事に興味がないわけではなかった。

「神殿へ向かう前に村の方々からも聞き取りをしたいとは思っているんですけどね。……何かご存知だったりしません?」

「いえ、ごめんなさい。私も魔術を学んだ身ではありますが、『魔力の枯渇』という現象が起こることについて今の今まで存じませんでしたから。それに、私がこの村に来てからまだ10年になるかどうかなので、あまり周辺のことまではわからないんです。お役に立てなくてすみません」

「そんな!謝るようなことじゃないですよ。そのことだって僕の一存で話していますが、本来はあまり公になっていない現象ですから」

 実際に公になったとして、枯渇が人口密集地で起きる可能性があるかも知れないと人々が考えると、魔力に支えられた生活を送っている都市部の市民にとっては混乱をきたすおそれがある。大勢が知るようなことではないのだ。


 ニイドとリン親子の家を出て、情報を得ようと村の広場へ足を向けようとした矢先、その広場の方から誰かが向かってくるのが見えた。ちょうどいいかなと思い、その人物に声をかけようかとしたが、

「あ、あんた、そこの家に、よ、用があったのか?へへ、へ……」

 なんと向こうのほうが声をかけてきたのだ。

「ええ、そうですけど。僕になにか用事でも?」

 僅かに緊張をしながら応える。

 簡素な上着に履物、あまり清潔ではなさそうな伸ばし放題の髪に痩せ型の身体、成人したてなのだろうが男性の中でも低身長の部類。身なりからして村人なのだろうが、薄ら笑いを浮かべつつも緊張しているような雰囲気が、あまり好印象とはいえなかった。

「そんなに、た、大したもんじゃねえよ、へへ。たださ、あんたに、ちゅ、忠告しといてやろうと思って、さ」

 忠告、と言われて思い当たる節はあったが、今のクルトにとってはうんざりするような話であるに違いない。それでも、下手に刺激して怒らせるのも得策ではないと思い、彼は無言で続きを促した。

 しかし、返ってきた言葉は予想の斜め上を行くものだった。

「あ、あんたさ、あの家族にいつまでもへばり付いてると、し、死ぬぜ」

「……死ぬとは、あまりいい言葉の選び方ではありませんね。あなた方は、そこまであの家族を追い詰めたいのですか」

 冷静でいようと思い言葉を待ち受けていたこともあって、抑揚の抑えた声になっていたが、責めるような言葉選びをしてしまったことが、クルトがあまり冷静でないことの表れであった。

「お、俺はただ事実を言ってるだけさ。む、村の中には、悪魔がどうこう言ってる奴も、い、いるけど、起こったことまで、ひ、否定はできないぜ……?」

「事実……?一体何があったんですか?」

「き、聞きたいのか?へへ……、そんなら聞かせてやるよ。そ、そこの山の中腹に、神殿があるのは知ってるだろ?あそこには以前、大勢の神官や巫女が住み込みで詰めていたのさ。なにを祀ってるのかなんてのは、お、俺は知らねえ。多分この村の誰も知らないんじゃないか?……それはいいとして、そんなとこに、一人の身重なエルフがこの村に越してきたのさ。なんでも、この土地の領主様がエルフの存在自体を知らなかった阿呆で、それも無理やり抱いちまったもんだから報復を怖がって、それで自分の領地の中でも果ての果てにあるここに半ば追いやったんだとさ」

 喋るごとにどんどん饒舌に得意気になっていくのが少々気にはなったが、それよりも宿屋の亭主に聞いた話と比べて少し細部が異なっていることに違和感を覚えた。こちらのほうがより具体的で、まるで内情を知る人間から直接聞いたかのようだった。

「そんで、最初こそ村人は割と手厚く迎え入れたんだ。エルフなんて神殿にいる一部の神官くらいしか見ないもんだったから、物珍しかったんだろ。腹が出て動きにくいそいつの為にみんな色々と世話をしてやってさ、俺だって腹にいるガキにいいからって何度か薬とか食べ物運ばされたこともあったっけかな。それから間もなくガキが生まれたんだ。この村の風習で、生まれた子は神殿で洗礼を受けるってのがあって、その親とガキも例に漏れず神殿で神官に祝福を授かりにいったのさ。

 ……その次の日だったかな、神殿で大勢の神官連中が眠ったまま死んじまったのは」

「……!」

 クルトは一瞬何を聞いたのか分かっていなかった。まさかそんないとも簡単に人の死についての話が飛び出してくるとは思わなかったのである。そもそもそれ以前に……

「そんな話、聞いたことがない」

「そ、そりゃあそうだろうさ。当時出入りしてた関係者か業者しか知り得ない話だし、そもそもそいつらだって緘口令が敷かれたって聞いてるぜ。お、俺は神殿に出入りしてた親父からその話を聞いたから、間違いないはずだ。……何にしても、その日を境に生き残った神殿の連中は一斉に引き上げたのさ、『神性は失われた』って言い残して。その次の年から、村では作物の不作が続いて病人が大勢出始めたんだ。今までになかったことだから原因を探した。そして思い当たったのが廃墟になった神殿、その最後に祝福を授かったあのエルフ親子ってわけさ」

 色々と発想が飛躍しすぎているのだとも思ったが、冷静ではいられなくなった村人たちは、そのエルフという特殊性も相まってニイドたちを責め立てたのだろう。村がおかしくなったのはお前たちのせいだ、一体何をやらかしたのか、と。

「なあ、だからあんたもあんな奴らと一緒にいると、精気を吸い取られて死んじまうんじゃないか?どんな魔術を使って神官共の命を奪ったか知らねえけどよ、あんなに強い魔力を持ってたんだ。魔力の塊をぶつけられただけで命を失ってもおかしくねえよなぁ?」

 ふと、この青年は一瞬だけ気になることを言った気がする。しかし、それまでの過去の出来事の奔流に飲まれて聞き逃してしまった。

「君、今なんて……」

「おい!おまえら、そこで何やってんだ!」

 もう一度聞き返そうかと言葉を投げようとしたが、突然の大声にかき消されてしまった。

 そこに現れた掛け声の主は、なんと宿屋の亭主だったのだ。

「おう薬屋のせがれ、おまえまた人様にあることないこと吹き込んでやがったのか?珍しく家の外に出てきたと思ったら何やってんだ。ちったあ親父さんの手伝いでもしやがれってんだ!」

「べ、別に何も……そ、そいつから声かけてきたんだし」

「ああん?おめえみたいな陰気な奴に声かける輩なんていねえよ!この人はうちの大事なお客なんだ。ちょっかい出してるとどうなるか、・・・分かってんだろうな?」

「ひ……」

 薬屋のせがれだというその青年は、口から僅かに息のような声を漏らした直後、一目散に村の中心部の方へと駆け出してしまった。

 その様子を呆然と見つめていたクルトだったが、ずっしりとした手を肩に置かれ、そこで我に返った。

「大丈夫だったかい?あいつになんか変なことされなかったか?」

「え、ええ。特に何も……」

 事の成り行きが未だに把握しきれていなかったが、なんとか質問を投げかけてみる。

「今の彼、なにか怯えてるようでしたけど……」

 宿屋の亭主は、ふんっと鼻を鳴らした。

「なぁに、あいつは誰に対してもあんな感じだぜ。ちょっと強気に出ればすぐにびびっちまって、会話にもなりゃしねぇ」

 それはあなたが威圧的な態度だからじゃ……と口に出しそうになり、慌てて質問を変える。

「そういえば、彼から神殿に関する噂を聞いたんですが」

「噂だぁ?」

 クルトは、先ほど聞いた内容をそのまま説明してみせる。すると、亭主の表情がみるみると険しい顔付きへと変わっていった。

「おめぇさん、なるべくならその話は誰にもしてくれるなよ。みんなが不安がっちまう」

 そう断ったうえで、話を続けた。

「この村に長老がいなくなって俺が変わりみたいなことやってるから、引き継ぎの時に色んな話を聞いたけどよ、神殿に関しての話はそっくりそのまま本当だ。当時神殿にいた神官は、その半分が死んでいる。ニイドたち親子が祝福を授かった次の日にな」

 彼からの重々しい言葉を聞いて、噂だった話が一気に真実味を増した。

「最初は流行り病のたぐいか何かと思って神殿に通じる道を封鎖したんだけどよ、その日のうちに領主様の抱える軍隊がやってきて、神殿の撤収準備にかかりだしたんだ。あっという間だったよ。それまで村の収入を支え続けてた観光資源の神殿がお取り潰しになったんだ、だぁれも寄り付かなくなって、今はこの有様さ」

 両手を広げて村の方を指し示した。寂れた風景のこの村の様子は、かつて大きく賑わっていたことが想像できないほどにくたびれており、以前はあったのだろう活気が戻ってくるような気配も感じられない。斜面に無理やり作り付けられた田畑は土が痩せており、そこを耕す人や牛もみすぼらしく痩せ細ってしまっている。これが本当にニイドたち親子の影響なのだとしたら……。

「言ったけどよ、頼むからこの村の奴らにはこの話はやめてくれよな。村の連中は『ある日突然神殿が撤収した。前日に祝福を受けたエルフたち親子のせいだ』とまでしか認識していない。もし神官たちの話まで伝わっちまったらどうなるか、想像したくもない」

 そうだ、彼女たちにもしものことがあれば、それこそ目も当てられない。責任を負うつもりで約束したのだ。こんなことで危険にさらす訳にはいかない。

「……親父さん、これから僕は神殿に行ってきます」

「行くったって……。そりゃ今は危険もないことがわかってるんだけどよ、本当になぁんにもないぜ?」

「それでも、彼女たちの疑惑を晴らす、とまではいかなくても、なにか利するような情報でもあれば、見つけてこようと思います。それに、元々神殿に行くことがここに来た目的ですから」

「そういやぁ、そこの霊山に用があるとか言ってたなぁ」

 亭主は納得したような顔であごを擦ってみせる。

「なに、止めるつもりはねぇよ。別に危ない道中でもねぇしな。それでも一応は気をつけて行ってこいよ。暗くなる前には降りて来ねぇと、いくら参道でも山道だから危ねぇぞ」

「ご忠告ありがとうございます。そんなに長居するつもりはないと思いますが、注意しておきます」

 では、とクルトはきびすを返して参道へと向かいだした。

 先ほど聞いた話がずっと頭のなかを駆け巡っていて、もやもやとした気分が晴れず心にしこりが引っ掛かっていたが、これから向かう神殿で何か手がかりになるものがあれば、それも晴れるだろうと思い、歩を進めた。


 ……日中にその不安は取れることなく、忠告を忘れて暗くなってから下山を始めたクルト。山道を下るたびにもやもやは大きくなっていき、村まであと少しとなったところで、ふと違和感を感じた。

 村の方がやけに明るい。村の山側の入口方面の辺りが、まるで昼でも来たかのように白く染まっている。

 もやもやが動悸に変わった。くたくただった足取りは早歩きに変わり、やがて自然と駆け足になった。息が切れるのもお構いなしに、それなりの距離を走っただろうか。

 山の陰を抜けて、ようやく村が視認できるところまでたどり着いた。そこには、大勢の村人と思われる人だかりが集まっており、その全員の視線はある方向へと向けられていた。視線の先を追わずともそこで何が起きているのかが瞬時に分かった。


 リンとニイドの住まう家は、真っ赤な炎に飲み込まれようとしていたのだった。



 暖かな夢を見ていた。

 そこには元気な様子で立っている笑顔の母親、そしていつも励ましてくれる右肩の暖かな存在。

 家の中は自分と母の暖かな雰囲気に包まれ、つられて窓の外にいる小鳥たちも鳴きだした。

 春の陽気のような心地良い日々。

 ずっとこんな日が続いてきたように思えたし、これからも続いていくような気がしていた。

 いつかありえたかもしれないそんな日々。……それはあっけなく終わりを迎える。

 右肩の暖かな感覚が、突然強い熱と光を持って存在を主張しだした。もっとこの心地良い夢を見ていたかった。それでもその熱を持った存在はこういったように聞こえた。

 逃げて、と。


 目覚めの感覚は、身体を揺さぶられる感覚だった。今日も一日働き詰めで疲れた身体が眠気を感じ、夕ご飯前に眠ってしまったのだったが、その寝台の脇にいた母が身体を揺すっていたのだった。

「リン、早く起きて!大変なの!」

 そんなに体を動かして大丈夫?と寝ぼけたリンの頭はそんなことを考えていたが、さっきから目を閉じていても感じていた明るい光の正体が、ようやく判明した。

 家の入り口から、内側に向かって大きく炎が噴き出しているのだった。扉を飲み込まんとしているその真っ赤なゆらめきは、徐々に天井に這い上がっていき、家の柱までも丸呑みにしていっていた。

「火事よ!早く逃げなきゃ!」

 母親の悲鳴のような急かす声に、ようやく頭の理解が追いついた。

 とっさに寝台から飛び出そうと動いたが、身体にかけていた毛布に足を取られて、床に滑り落ちてしまった。思わぬ衝撃だったために、足やとっさに庇った手が予想以上に痛い。

「ほら、早く起き上がって!裏口から逃げるのよ」

 そう言って、しゃがんで手を差し出してくる母。リンは慌ててその手を取ろうとするが、その背後に見てはいけない物を見てしまったように思った。

 火の手が壁を伝って素早く回り込んでくる。その火は思った以上に細長く、まるで本当に長い火の「手」のようでもあった。

 それは壁から寝台脇の箪笥の裏側へと回りこみ、あろうことかぐぐっと大きなその家具を押し出し始めたのだった。

 上側を押し出されたその箪笥は、ゆっくりとこちらの方に倒れてくる。

「お母さん!」

 自分を見ていないその視線に、ニイドはようやく気がついて背後を振り返った。

 その時、リンは母がそのまま反射的に避けて逃げるものだと思っていた。しかし、当の本人は倒れて身動きの鈍った自分に覆いかぶさったのだった。

 ずんっ、といったものでは形容出来ないほどの衝撃が身体に伝わってくる。加速度をかけて倒れかかってきた箪笥の重みは予想し得ないほどに身体を軋ませ、肺の中の空気が一気に漏れだしていった。

「ぐっ、ううっ!」

 それでもなんとか堪えられたのは、リンの上に被さって来た母がいたからである。

 直にその箪笥の倒れてきた衝撃を受けた母の身体は一体どうなっているのか、その時は想像すら及ばなかった。

「はや、く……、抜け出して……!」

 その言葉に、とっさに体が動いた。床とニイドの身体に挟まれた状態の自分は、摩擦も荷重もそれほど大きくなく、どうにかすぐに抜け出すことが出来た。

 その次にニイドも続こうとしたが、突然懐から何かを取り出した。それは、あの青年、クルトからもらった青く大きな宝石だった。

 彼女は口元で何かをつぶやく。すると、突然その宝石を握ったてから青く強い光が溢れだして、部屋全体を覆った。その光は雨季に見られる優しい雨のような湿気を帯び、水気に脅かされた炎は徐々にその身体をを小さくしていった。

「これで、しばらくは大丈夫なはず……。お母さんもそっちに這い出すから、ちょっとどいててちょうだい」

 そうは言っても、身体を箪笥に強打したその身で動けるのか。心配になったリンは側に寄ろうと僅かに身体を動かした。その途端……

 ごうっと音を立て、突然天井に大きな火が燃え上がった。

あっけにとられるリンとニイドの親子。その一瞬が命取りだった。ばちばちと燃え上がるその火の手は、瞬く間に梁を燃やし、大きな音を立てて崩れ落ちさせた。

「危ないっ!」

箪笥の下敷きになっていたニイドはその手を振って娘を払いのける。びっくりして後ろに尻餅をついたリンは、間一髪その崩壊の巻き添えを喰らわずに済んだ。しかし。

「お、お母さん……?」

 リンの目の前には、箪笥に加えて燃え上がる梁がのし掛かり、胸部より上を外に出して呼吸も絶え絶えになっている母親の姿があった。

 まだ燃えていない箪笥にしがみつき、持ち上げようと試みるが、人の背丈より大きな箪笥だけでも十分なのに、一体どれだけの重さがあるのかわからない梁までのし掛かっているとなると、誰の目にも持ち上げることなど不可能のように思えた。

「ううっ!おね、がい……持ち上がって……!」

 何度も挑戦してみるが、一向に箪笥が動く気配はない。

 と、必死になっているリンの足首を何かが触れた。母の手だ。

「いい……から、あなた、は、逃げて……!このまま……じゃ、ふたりとも……!」

「に、逃げるなんて……そんな……!」

 逃げる、という言葉に、ふと右肩が熱くなったようだった。きっと急かしているのだろう。それでも……。

 突然、轟音が響いた。何かが弾け飛んだ音のようだった。

 リンは音がした方を振り返る。そこにはポッカリと穴を開けた炎の壁と、ばらばらに壊れた玄関の扉の残骸があった。

 一瞬時間が止まったかのように静まり返る。が、数瞬後には大口を開けた炎はみるみるうちに塞がり始めていた。

 逃げられる……?周りを取り囲む炎への恐怖から、ふとそのような思いが頭のなかによぎったが、家財に下敷きの母を置いて逃げるなんてとんでもないと、慌ててその考えを打ち消した。

 しかし、その救いの門戸からは、全く以外なものが飛び込んできたのである。

「ぐっ……、だ、大丈夫ですか!?」

 灼熱の塊から顔を覆うようにして家の中に入り込んできたその人物、クルトは慌ててリンたちの元へ駆け寄ってきた。

「……え、あっ」

 リンは全くの不意打ちだったというような顔で彼を見上げた。

 まさか、この人が私たちを助けてくれるなんて、見捨てて眺めてるだけでも責めはしなかった。救う義理はどこにもないはずなのに……、どうして?そんな思考ばかりが頭のなかをぐるぐると巡っていた。

 呆然としてるリンの隣で、クルトは母親の上にのし掛かっている箪笥を持ち上げ始めた。……しかし、梁まで被さっている状態では、さすがの成人男性でも持ちあげるのは困難なようだった。

「くそっ、何にしても時間がない、まずは火を消すしか……」

 悪態をついたクルトは、懐から何かを取り出した。それはニイドにも手渡したのと同じ、青く大きな宝石だった。

「だめ……です、いけません、クルト、さんっ……!」

 何かを行おうとした彼を、母は息を切らしながら必死で静止しようとする。

「何故です!このままじゃ家が崩れる、そうなったら……!」

「それでも、ですっ……!この……火の手には、何かの意思を、はあっ、……感じます……!」

 意志、と言われてリンはすぐに思い当たった。箪笥にまっすぐ『手』を伸ばし、不可視の力で押し出したり、一度消えたはずの火が再び大きな火球となって復活したり……。

「まさか、誰かが魔術を?しかし術者の気配を感じません!」

「……おそらくは、『呪符』、です・・・!遠隔で、術式が暴走する、ように……」

「暴走……、そんな!それじゃあ他の魔力が混ざると、暴発して村ごと……?」

 魔術の知識がないリンにも、今のクルトの言葉で何が起きるのか察しがついた。

しかし、この期に及んでニイドはまだ村人を守ろうとしているのか。追い立てられ、虐げられ、どん底に突き落とされているリンたち親子を、そうなるように仕立てた住人たち。そんな人達を救う価値なんてあるのか。

「……クルト、さん。はあっはあっ、お願いが、あります……」

 ニイドは、わずかに娘のほうを見やった。

「この子を、リンを連れて……、行ってください。……外の世界を知らない、可能性のある、この子に、色んな事を、ぐっ!……教えてやってください……」

「まだあなたを助けられないって決まったわけじゃ……!」

「いいん、ですっ……!私はあなたから、を頂きました……。もう、それだけで十分、なんです……」

「そんな……」

 一瞬の静寂。めきめきと音を立てて燃えていく柱や壁が気にならないほどの言葉の間。それはクルトの決意を固めるのに十分だったのだろう。リンは、隣りにいる彼が痛いほどに手のひらを握りしめるのを見た。

「……分かりました。リンは僕が責任をもって預かります。必ず、立派な魔術師にしてみせます」

「……ああ、良かった……」

 体に掛かる負担がまるでないかのように、ニイドは安心しきった顔で微笑んだ。リンは、こんなに心から喜んだ顔をした母を見るのは久しぶりだし、これからも忘れられないような気がした。

「……リン」

 そう呼んだ母の声は、気が抜けたのか、とても弱々しくも優しさを感じられた。

「あなたは、きっとこれから……、たくさんのつらい目にも、合うことでしょう。ごほっごほっ!……善と悪の区別の、付かないことに直面して、戸惑うことも、あるでしょう。……けど、あなたはあなたの正しいと思った道を進んで。あなたの頑張りの評価は、いずれ後からついてきます……だから、いっぱい悩んで、いっぱい考えて、ね?」

 きっとこれは別れだ。もう二度と会えない。

 生まれてからずっと一緒にいてくれた母とは、ここで別れなくちゃいけない。

 そう実感させるだけの言葉の重みがあった。だから・・・

「……クルトさん、寝台の下に、旅の荷物をまとめてあります。ですから、必ず……」

「……いや」

 思わず声に出してしまった。しかし、一度溢れてしまったものはもう止められない。

「……お母さんを置いてなんて、行けない。わたしもここに残る」

 うつむいたリンの顔に、大人たちふたりの視線が刺さるのを強く感じた。

 母は、耐え難いほどの苦しそうな顔で目を閉じ、歯を食いしばった。

「……クルトさん、お願いします」

 その頼みは、どういった意味で発せられたのだろう。そう考える間もなく、大きな手が方に置かれるのを感じた。

「さあ、行こう」

「いやっ!」

 思わずその手を強く払いのけてしまう。この時ばかりは、受け取った恩も全て忘れてしまいそうだった。

 次の瞬間、ふわっと身体が軽くなった気がした。彼女の視点が、うつむいた床から大きく変わり、いつの間にか天井を見上げるような体勢を取っていた。

 近くにはクルトの顔。彼に抱き上げられたのだ。

「このままじゃ君まで危ない!とにかくまだ無事な裏口から出よう!」

「やめてっ!お母さんが、お母さんが!」

 腕の中で全身を使って大きく暴れる。しかし、小柄なリンの身体では、大人の男性の力には敵うものではなかった。

 振り返り、母の様子を見やる。彼女は、悲しくも無理やり作ったような微笑みを浮かべている。

 視界が滲む。これが最後かもしれないのに、うまく母の顔を見ることが出来なくなっていった。

「やだ……、お母さん……!」

 クルトの身体が、裏口の方へ向かって進みだした。彼の胴に隠れて、もう母の姿を見ることは出来ない。

 もっとこの目に刻みつけていたかった。二度と忘れないくらい、母の優しい微笑みを、愛情にあふれた顔を、……最後の悲しそうな顔を。


 裏口の扉は焼けて崩れ落ちていたが、奇跡的にも炎の壁はなく、容易に通り抜けられることが出来た。

 クルト曰く、犯行を行った人物が村人に紛れてるといけないから、とのことで、村の中を通らず、山の斜面にある畑の中を行き抜け、村の出口までたどり着いた。そこに到着するまで、リンはずっと抱えられたままだった。

 リンは振り返る。赤々とした空が、今もまだ続いている。

「リン」

 隣から呼ぶ声がしたが、彼女の視線は赤い空を見上げたままだった。

「これは確定した未来だ。君は立派な魔術師になる。他の追随を許さず、頂点を極めることになる。僕なんかが足元にも及ばないほどにね。

 だから、君は君の母さんが願ったように、自分の正しいと思ったことをして、大を成すんだ」

 時間が経って枯れかけた涙が、再びつうっと流れた。

 今はまだ何が起こっているのかも、これから何が起ころうとしてるのかも全く分からない。それでも、母はリンの幸せだけを考えてくれていた。きっといつか、それに報いる時が来る。

 反転し、山を下る道を先立って歩いて行く。一歩一歩が、まるで地面に足が張り付いたかのように重い。けれども前に進んでいく。無理矢理にでも辛くても、前を向いて歩んでいく。


 行く道は未だ暗く、まるでどこに進んでいいのかすら分からない。それでもわずかに雲間から覗く、月明かりのみが頼りである。暗闇に浮かぶその月はまるで、リンの心の中に残った母の笑顔のような、一点の光だった。

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