序章 第2話

 リンにとっては、彼はまだ昨日までは優しくしてくれた旅の人程度でしかなく、それほど興味があったわけではなかった。何より人に興味を向ける前に自分や母親のことに精一杯で、他人のことをかまっている余裕なんてなかったのである。

 そこからの今朝の出来事である。自分なんかのために布を汚して顔まで拭いてくれて、さらには可愛らしいとまで言ってくれた。今まで優しくしてくれたのは母親だけだったので、リンはこのクルトという人物に対して少しばかり話を聞いてみてもいいのかなという気持ちになった。

 また心のどこかでは、何か新しいことを予感させるような気がしなかったでもない。


 彼女と彼女の母親の家は、集落から谷間の小道を歩いて僅かに離れた、渓谷の影に当たる場所にぽつんと立っていた。彼女自身、これを家だと公言できるような立派なものだとは思ってもいないし、むしろ小屋だと言ってくれたほうが幾分かましではあったが、それでも母と二人で一緒に暮らしてきた思い出のある立派な家なのであった。

 リンが先に扉を開けて入り、母親に「ただいま」と声をかける。続いてクルトを中に案内したが、「おじゃまします」と扉をくぐった彼からは、あっと息を呑む声が聞かれた。

 その視線の先には、リンにとっては当然そこにいるはずのベッドに体を横たえた母の姿だった。病気がちで少々やつれてしまってはいるが、長く伸ばした白金の美しい髪は朝日に照らされる小川のようで、目鼻立ちは綺麗に整っていて、彼女にとっては自慢の母親であった。ただ、ひとつ大きな特徴を挙げるとするならば・・・

「おかえりなさい、リン。この方はどなた?」

 リンの母は、突然の訪問者には特に驚きもせず、ゆっくりと上体を起こした。

「だめ!横になってなきゃ……」

 それまで声を荒げることのなかったリンは慌てて母のもとに駆け寄り、身体を支えようとした。

「大丈夫よ、リン。せっかくのお客様ですもの、せたままは失礼だわ」

 リンに体を支えられながら、母親はゆっくりと寝台の背もたれに身体を預けた。その段階になってようやく目が覚めたように、クルトはハッとなっていた。

「失礼、ご挨拶が遅れました。僕はクルト・ヴェヒター、魔術師を生業としています。昨日こちらの村へ到着したばかりでして」

「そうでしたか。私はニイド・セシルと申します。うちの娘がお世話になったようで」

「いえいえ、こちらに着いてから娘さんと幾度か縁がありまして、ここを訪ねさせてもらったところです」

 大人二人が緊張感を解いた会話をしているのを見て、リンも少し体の力を抜いた。母は時折、元気だった頃のように動きたがることがあるので、それを止めようとするのに気を使ってしまうのだ。

 リンはベッドの隅から簡素な椅子を引っ張り出してきて、クルトの後ろに無言で置いた。

「どうもご丁寧に」

 用意された椅子にゆっくりと腰掛けると、彼は母に向き合った。

「それで、失礼かと存じますが私の魔術師としての探究心からお尋ねします。あなたはエルフです……よね?」

 エルフ。その言葉は村の人達が時々彼女ら親子を誹謗するときに用いるもので、リンにとってあまりいい気分になるものではなかったが、クルトのその少年のような弾む声には、一切の邪気を感じられなかった。

 少し面食らった様子のニイドは、少し苦笑を漏らした。

「ええ、そのとおりです。やはり魔術師の方でもエルフは珍しいですか?」

「いえ、そんなことは!僕の所属する職場でもエルフの方は複数人働かれていますし、比較的仲もいいですし。ただ、こんなところと言ってはなんですが、魔力の因子も乏しい辺境の村に住まわれていて、さらに驚くことにお子さんまでいらっしゃるとは」

 興奮気味に話すクルトは、身振り手振りで会話を繋げていた。その様子に、隣にいる母につられてリンも少しの間だけはにかんだ。

「確かに、私たちエルフが子を成すことは非常に珍しいこととされています。見ての通り、この子はヒトとの間に生まれましたが、それでも私の可愛い一人娘です。どんな宝にも勝ります」

 ヒト、と言われて、クルトとリンはベッドに腰掛ける母ネイヒの顔を見る。そこには、この村でも他に誰も持っていない、白金の髪から突き出した、長く尖った耳が生えていた。一方、その娘リンには、母のような長く尖った耳はなく、その丸いはずの耳は髪の中にほとんど隠れていた。

 そこで、あまりにもまじまじと見すぎていたのに気付いたのか、再びクルトは己を恥じたようだった。

「す、すみません!興奮してしまいました!どうも魔術関連の事になると見境がなくなるようでして……失礼なことを聞いてしまいましたかね?」

「いいえ、いいんですよ。娘以外とこうやってお話ができるのも本当に久しぶりのことですから、楽しいんです」

 そう言ってにこやかに話す彼女はどこか幼さを感じ、それがエルフ特有の若々しい見た目から来るものだけだとは、彼は思えなかった。


 クルトがニイドと会話を始めて小一時間ほど経った頃、矢継ぎ早にエルフや魔術についての質問を続けていたそばで、リンはちらちらと窓の外を気にしだすようになっていた。

 その様子を母親はすぐに気付いたようで、彼との会話の切りの良い所で、

「少々待っていただけますか?……リン、そろそろお掃除の時間じゃない?私たちのことは気にしないでいいから、行ってらっしゃい」

微笑みながらリンに話しかけた。

「え?ちょっと待ってください、掃除ってどこの掃除ですか?この家はこんなに綺麗に掃除が行き届いてるのに」

 そうクルトが問いかけてくるのも無理は無い、とリンは思った。床に臥せっている母を思い、家の中はホコリひとつにも気を遣うくらい掃除をしてあるのだ。たとえ窓枠を指でなぞられても、なにもくっついてこない自身は彼女にはあった。

 ネイヒは申し訳無さそうに、この家の稼ぎの全てを村人の各家庭の掃除や洗濯・水汲みなどで得られる収入に頼っていること、その仕事全てをリンに負担させてしまっていることを打ち明けた。

 そんな様子を見ていたリンは、多弁ではない自分の性格と、病弱である当の本人に家の事情を説明させてしまっていることにわずかながらの悔しさと諦めの感情を抱いていた。もっと自分が大人であれば様々な仕事をすることができるのに、もっと自分が自己主張のできる性格であれば村人からのいじめにだって耐えてみせるのに、何か自分に掃除以外の得意なことがあれば・・・母がかつて枕元で語ってくれたおとぎ話に出てくる、人々を悲しみや不幸から救済してくれる『星の神子』のように様々な魔法を用いることができるのなら……。

 そこで、リンは椅子に座っているクルトの全身がこわばっていることに気がついた。膝の上に置いた両の手がぎゅっと握りこまれていて、それは何かに耐えているかのように見えた。

 少しの沈黙の後、クルトの目が何か覚悟を決めたかのように見開かれた。

「……僕から、あなた方二人に提案があるんですが、少し聞いてもらってもいいですか?」

 唐突な問いかけに、リンたち母娘は顔を見合わせてきょとんとした。

 返事を待たず、彼は語りだした。

「率直に言います。リン、あなたを是非、我が王国の魔術学園に招待したい」

 本当に突然だった。その言葉を聞いたリンはその魔術学園というものについて知りはしなかったが、名前だけでどういったものなのかは少し理解できる。まさか自分が、魔術を習うことに?

 ありえないと思った。生まれてから9年間、魔術を教わることもなかったし、ましてやふれあうことも知識すらなかった自分である。

 魔術とはとんと縁のないこの村ではあるが、意識して魔術のことを知る機会すら恵まれなかったのである。そんな自分に魔術を学ぶ機会を与えられる資格はあるのだろうか?

 困惑した彼女は、ベッドに体を預けている母親に視線を向ける。と、その母の視線は自分を向いておらず、クルトをまっすぐに見つめていた。

「なぜ、うちの娘を魔術学園に、と思われたのですか?」

 その表情は、困惑しているようでもあり、なにか覚悟を決めたかのような顔でもあるように思えた。

「第一に、リンはエルフであるあなたの娘、つまりハーフエルフです。魔術に携わるものからすれば、彼女の魔術に関する素質はヒト以上のものだということはすぐに分かります」

 リンはエルフという言葉について、村人からの差別の言葉以外に知識がなかったが、まさか魔術に関する存在であるとは今の今まで知ることすらなかった。

「第二に、これは他の村人の方から聞いた話ですが、彼女は何か他人には見えない存在と話をすることがある、と」

 びくっ、と体が僅かに反応してしまった。

 まさかそんな話題に触れられるとは思っても見なかったのである。心あたりがあり、村人に気味悪がられていることを知っている彼女にとってはあまり触れてほしくないことではある。

「その存在は僕にも見えてはいないし、その様子だと母親のあなたにも見えていないとお見受けします。しかし、その存在を予想することはできる。おそらくそれは『精霊』でしょう」

「精霊……」

 リンはその言葉をぼそりとつぶやいてみせた。ふと、その言葉に反応したかのように右肩のあたりが少し暖かくなった。

「……濃い魔術の流れを僅かですが感じます。おそらくこの部屋のどこかに精霊たる彼、もしくは彼女がいるのでしょう」

「…………」

 彼にはわかってしまうのだ、この暖かな存在がいることが。彼女のすぐ側にいつもぴったりとくっついてくれていて、母とともにその日あったことや愚痴を聞いてくれたり、どこか守ってくれているようなその存在が。

 そのことがわかっただけで、リンはこの魔術師の青年のことを少し好ましく思うのであった。

「第三に、精霊は魔術に長けた人物であれば、こういった魔術因子の枯渇した空間であれば認知することは可能ですが、見ることに関しては高位の魔術師はおろか、ほとんどのエルフにすら視認することは不可能です。もし万が一見ることができるとすれば、人並み外れた魔力を保有していること、魔術を扱う適性が元から備わっていること、その2つが両立していないと全くの素人が見ることはほぼ不可能です。精霊が見られる彼女は、おそらくそのふたつを兼ね備えた天賦の才を持ち合わせているのでしょう。・・・そしてその可能性にエルフであるあなたが気付かない訳はない、ですよね?」

 温かい存在がいるであろう場所を探していたクルトは、最後に母親・ニイドを見つめた。

 互いに視線を交わしていたが、やがて先に視線を逸らしたのはクルトの方だった。

「……すみません。問い詰めるような口調になってしまって。しかし、僕にとっては、ここで素晴らしい魔術の才能を持ち合わせた子を埋もれさせたくはないんです」

「わかっています。しかし、私がこの子にあえて魔術のことを一切教えなかったのは、この村では必要ないからだけではなく、必ずしも魔術が人に幸福を与えるだけの存在だとは思ってはいないからです」

「それは、どういう……」

 そこで母は、寝台の脇にある戸棚の引き出しを開け、そこからひとつの装飾具を取り出した。

「これに、心当たりはありますか?」

「このメダリオンは、……そうか。そういう、ことですか」

 そのメダリオンなるものを覗き込んでいたクルトは、静かに何かを納得したかのように、体を椅子の背もたれに預けた。

「合点がいきました。……その名前は皮肉ですか、それとも自身を責めて……」

「……どうでしょうか、今となってはもうそれも昔のことですから」

 ニイドは少し寂しそうな、それでいて僅かに微笑んでいるような表情で消沈する青年を見つめた。

 その様子を見ていたリンには、その青年はもうそれ以上我々家族には踏み込んでくるような気配を感じられなかった。彼がそのメダリオンを見て何を感じ取って、何を諦めようとしたのかは、その時の少女にはまだ知る由もなかったのである。

「……それでも、私もそろそろ前に進む時期が来ている時なのかもしれません」

 その声に、クルトははっと前を向いた。

「リン、あなた自身は魔術を習いたいって思う?」

 寝台に腰掛ける母は娘に対し、優しげにそう問いかけた。

 学びたいかそうでないかといえば、彼女の答えはほぼ決まりかけている。自分に自身が持てず、ずっとこの村で燻っていくものだとばかり思っていたのに、この青年は自分に才能があると言ってくれた。自分にできることがあると教えてくれた。もう訪れないかもしれないこの機会を、みすみす逃すのは惜しいとすら思えた。しかし……。

「……お母さんは、どうするの?……この村に置いてっちゃうの、イヤ」

「リン……」

 魔術学園の場所はよく知らない。しかし、聞いたことがないということは自分も知らないくらい遠く離れた所にあるということなのだろう。この家で唯一の働き手である自分がここを離れることで、病弱な母一人がこんな過酷な環境に残されるのを想像するだけで耐えられなかった。

 なにより、生まれてからずっと母と一緒に暮らしてきた。稼ぎを作ってはいるが、親離れもできていないと自覚はしている自分が、独りで遠くの街で暮らすという孤独を堪えられるのだろうか。様々な不安がリンにのしかかってくる。

 けど、そんな心にかかった靄を、彼は一言で吹き飛ばそうとしてくれる。

「確かにそれはどうにかしないといけない。けど、それに関しては心配することはないよ」

 力強く言ってくれた彼の言葉は、リンはおろか、言葉を出しあぐねていたニイドの表情をも驚きに変えた。

「我が国の魔術学院には様々な国から多くの少年少女が魔術を学びにやってくる。その年齢は入学年度の9歳・・・10歳になる年度だね、そこから成人する15歳までの6年間までだ。でも、結局は成人を迎えてないわけだから、都市部に出てきても保証人や後見人が見つけられないといった問題が出てくるんだ」

「……?」

 リンは僅かに首を傾げた。

「……そうだね、つまり大人になるまでお世話してくれる人がいないと困るってこと。だから、学院では親兄弟までの親族を2名まで同居させることを認めているんだ。王都にいる間の仕事の紹介もしてくれる」

「……ひとりで行かなくてもいい、の?」

 恐る恐る確認のために聞いてみる。

「その通り、寂しい思いをしなくてもいいんだよ」

 その瞬間、リンの曇っていた表情がパアッと明るくなり、思わず無邪気に母のほうを見つめた。

 しかしその母は、それでも芳しくない表情をしていた。

「私も一緒に行けるというのならリンの不安も減るでしょう。しかし、私はこの通り床に臥せっているので何か仕事が出来るわけでもないですし・・・足手まといにはならないでしょうか」

 その言葉に、クルトは少し真剣な表情になった。

「ニイドさん、あなたはご自分の症状についてどの程度の自覚、というより知識がありますか?」

「いえ、自覚症状については理解していますが、どうしてこうなったのかについては……」

 ニイドは予想外の質問に少々困惑した様子だった。

「エルフはご存知の通り、基本的には不老長寿です、現在に至るまで寿命・老衰による死亡例は確認されておらず、もし生命を失うことがあるとすれば、外傷などの身体の損傷に伴う絶命のみです。ヒトのように風邪や病気などにかかることもまずありえません」

 横で聞いていたリンは、母がまさかそんなすごい人だったとは思いも寄らなかったようで、ただ呆然とその話を聞いているだけだった。

「しかし、あまり知られていることではないですが、もうひとつだけ、エルフを死に至らしめる原因があるんです」

 クルトは神妙な面持ちで語っている。それもそのはず、目の前にいるエルフについての弱点を話しているのだから、堂々とした気持ちになりようもない。それでも、彼は必要なことだと言わんばかりに続けた。

「原因はそれほど難しいものではありません。要は『魔力の不足』です。……エルフやヒトの人類に限らず、生物であれば生きている限り必ず魔力を消費します。消費したものを補うために、食物で栄養素とともに濃縮された魔力も摂取します。これがヒトまでであればそこでおしまいですが、エルフの場合はヒトより高い魔術の素質を持ち、生きているだけで多くの魔力を必要とします。そのため、大気を漂う魔力をも必要として吸収しますが、ほとんどの土地の場合、それで魔力が足らなくなるということはありえません」

 そこで彼は僅かにすかしてある窓の方を見た。この村の家には貴重なものだが、必ず1枚ははまっている硝子窓の向こうには、高く急峻な山と、その麓には微かだが何か大きな建物が見える。

「この土地は、世界でも類を見ないほど魔力の乏しい地域です。ほぼないと言ってもいいでしょう。おそらく、作物を育てるのにも家畜を飼育するのにも苦労しているのでしょう。土地が痩せているばかりが原因ではないようです。そんなところにエルフが住んでいるとどうなるか・・・答えはあなた自身だと、僕は思います」

 難しい話はよくわからないが、それでもリンは、この話が母にとっては非常に恐ろしい話だということが十分に理解できた。つまり、この土地に居続ける限り、母の体調は良くならない上に、死に至る場合もあるということなのだ。

「こんな土地は他に例がないので、知識として知っている人は多くないでしょう。ですが、体調を元に戻す方法もそれほど難しいことではありません。……ちょっといいですか?」

 そう言って、クルトはベッドの脇に膝を立ててしゃがみ、ニイドと視線の高さを合わせた。

 自分の懐を探り、取り出したのは親指の先ほどもある大きな青い宝石だった。

「ニイドさん、これを手で握ってもらってもいいですか?」

「構いませんが……まさか、いえそんな。もったいないです!」

 母は受け取ろうとしたその宝石を彼に返そうとしたが、その手をやんわりと押し留められ、その指で母の手に向けて何かを宙に書いたようだった。すると、その手を中心に青白い仄かな光が漏れ出してきて、季節柄寒かったはずの家の中の空気が少しだけ暖かくなった気がした。

「そのまま握っていてください。でないと宝石に溜め込んだ魔力がもったいないので」

「そんな、これは流石に私でも分かります。この蒼玉に込められた魔力の量は、1年やそこらでは貯められるものではありません。こんな貴重なものを私に使うなんて……」

 申し訳無さからすぐにでも返したくはあるのだろうが、その暖かな流れに身体が安らいでいるのだろう。先程までの緊張感はかなり薄らいで見えた。

 少し離れているリンにも、その暖かなものが感じ取れた。幼いころに見た、春の息吹を感じる草原のような、水を多く湛えた渓流のような自然の力のようなものを感じる。

「自慢するわけではないですが、僕の所属しているところではこの規模の魔力を溜めた宝石は一人あたり年20個は支給してもらえるんです。けど普段使う分には年間3個も消費するかどうか……。だからもったいないということはないです」

 クルトはそういいながらも恥ずかしそうに頬を掻いていた。

「握りこまなくてもいいですが、お昼ごろまではそのまま体に触れさせていてください。そうすればかなり体調が改善するはずですから」

「え……?それだけ……?」

 あまりのあっけなさに、リンはそれまでの苦労を忘れるほどの衝撃に呆然とした。

 彼女が物心ついた頃には、もうすでにあまり体調の良くなかった母だったが、ここ1年ほどは満足に体を動かすことも叶わなかったのである。もう何年かすればもしかすると母は……そう考えていただけに、衝撃のあとにはすこしばかりのやるせなさと行き場のない苛立ちがリンの心の中にはあった。誰に対してでもない、しいて言うならば自分に対してかもしれない。

「それだけってことはないのよ、リン」

 リンの心の中を見透かしたように、ニイドは少したしなめるように言った。

「クルトさんは何でもない事のように言ったけど、この魔力を込めた宝石1個あれば、私たちふたりが数年は食べ物に困らずにいられるだけの価値があるのよ。それだけ手間もかかっているし、何より自分のものではないのだから感謝しないと」

 すぐに納得できることでもないし、言葉にもしづらい感情である。リンは母の言葉をとりあえずは受け入れることにした。

「もちろん、この魔力だけで完調したわけではないですし、おそらく一月保てばいいほうでしょう。ですから、先程申し上げたように、あなたにも提案があるんです」

 クルトは居住まいを正した。

「ニイドさん、あなたのエルフとしての知識を活かし、我が国の王立魔術院で働く気はありませんか?王都で治療も行い、僕の助手として研究の補助をしていただければ」

「…………」

 青年に問いかけられ、母はしばらく黙り込んでいたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「……クルトさん、魔術は人を幸せにはしません。今の私だからこそ、そう言い切れるのです」

「わかっています。あなたに王国に利するような研究をなさっていただくつもりはございません。僕個人の事情に付き合っていただくつもりです。貴方自身の事情も、あなた方エルフのも、僕は理解しています。」

「……!あなた、どこまで……」

 とても真剣な話をしているのは分かっているが、リンにはその問答の一部すらよく分かってはいなかった。分からないということは今知ることではないのかも、そう思えた。その証拠に、いつも微笑んでいる母の顔はこれまでに見たこともないほど深刻な表情をしているのである。

 再びの沈黙の後、何かを思案していたが、やがてしっかりと来るとの目を見つめながら言った。

「……わかりました。一度は諦めたこの命です。私なんかがこの世の為になるのなら、存分に使ってください」

 ベッドに横たわっている身ではあるが、リンにとってその時の母は、物心ついて以来最も力強い目をしていたように思えた。投げやりややけっぱちになっているのではなく、久々に何かやり込めることが出来たかのように真剣で、それでいて少し嬉しそうな顔もしているようだった。

「ありがとうございます!……僕にはあなたの心にかかった靄を払うことが出来るかは分かりませんが、きっと前に進むことで何か新たな希望が見つかるかもしれません。一緒に頑張りましょう」

 語りながらもにこやかに微笑む青年は、リンから見ると心の中で自分と同じ年頃の少年のように無邪気に喜んでいるように見えた。自分よりもずっと大人だろうけど、ちょっとかわいいな、そう思ったリンだった。

 そこで、クルトと母の視線がいつの間にか自分に向けられていることに気がついた。

「リン、君の心配していたことは解決したよ。あとは君の心次第だ。……魔術を学びたいかい?」

 この青年は、どうして私達家族にここまでしてくれるんだろう。どうして自分なんだろう。もっと才能のある人って世の中にいるんじゃないのかな。

 色々としてくれたことへの感謝と申し訳無さと、見ず知らずのはずの自分に対してここまで熱意を傾けてくれることへの僅かながらの不信を込めて、リンはクルトに問いかけた。

「……どうして、わたしなんですか……?」

 心の中がぐるぐると渦巻いていて、いつも抑揚を低くおさえていた声が少しだけ上ずってしまった。

 リンの問いかけを重く受け止めてかそうではないのか、クルトは優しく微笑んでくれた。

「リン、僕はね、多分君たちに同情しているんだと思う。もちろん、それは人によってはすっごく失礼なことだし、同情されて気持ちのいいものでもないと思うんだ。だからといって、手を差し伸べることを偽善だとして切り捨てることに抵抗があるし、なにより僕自身が君たちを見捨てられるほど心が出来てないのが、一番大きな理由かな」

 はっきりと『同情』だと言い切ってしまうことに驚きを覚えたが、それと同時に、それを打ち明けでしまう目の前の青年に、という印象を覚えたのであった。

「どうかな、僕の『同情』を受け取ってくれる気はあるかい?」

 多分、この返事をしてしまったら、自分の運命は大きく進みだすんだろう。それが前進なのは今の境遇から言っても間違いはないが、この先に何が待ち受けているのかを不安げに待つよりも、自分から進んで見つけに行ってみたい。わずかながらもそういう風に、引っ込み思案なリンは思えたのである。

「……はい、おねがい、します」

 僅かにうなずいた時に、窓の外から吹いてきた風が自分の黒い髪を巻き上げ、少し顔にかかった。少しだけ湿気を含んだその風は、3月とはいえまだまだ寒い山奥の村にも春を運んできたかのような予感を思わせるのだった。

 わたしたち家族にもきっと初めての春がそこまでやってきている。今のリンは少し心が踊るような気分だった。

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