序章 征く道は未だ昏く

序章 第1話

第一章



 そこには、山々に囲まれた山村があった。

 平らな土地が少なく、家々が斜面にひしめき合っていて窮屈そうに見える。集落の周囲には、狭い土地を有効活用しようと段々畑が広がっていたが、少し見ただけでも栄養状態の良い土地には見えなかった。

 季節はもうすぐ春へと移り変わろうとしていたが、標高の高いこの村にはまだ遠いらしく、屋根から落ちたであろう雪が軒下で氷のようになって溶け残っていた。その景色を、朝霧が薄く覆っており、はっきり言ってこのようにみすぼらしいような村でも、その様相を少しでも幻想的に見せていた。

 村の中はそれこそ朝の農作業へと出て行く人々の姿こそはあったが、それもまばら、若い人間の姿もあまり多くはなく、若者からもあまり生気は感じられず、活気というものからはおおよそかけ離れた光景であった。

 このような村だからこそ、まさか外部から人間がやって来ようなどとは、この時誰も想像などしていなかった、いや出来なかった。


 日が昇って幾分立ち、午前九時の鐘が鳴ろうとする時間になり、農作業をしていた人々が、午前の小休止を取ろうとしていた頃、村の下手の方からガラガラと聞き慣れた音がしてきた。荷馬車の音である。

 この村には週に一度、行商人が馬車を引き連れやってきて、村内で行われる金銭を伴った経済活動のほとんどが行われるのである。ある老人は、自分の畑で採れた茶葉や野菜を行商人相手に販売し、またある主婦は、砂糖や塩などの山では作れない調味料を購入し、またこの村で数少ない子供は、これまた少ないお駄賃を手に蜂蜜と焼き菓子をねだる。この日が村で一番栄える祭りのような日であり、村人のかけがえのない時間でもあった。

 この日も、村の中心にある唯一の広場といえる場所に馬車が停まり、御者台から商人が降りてくる。

 毎週決まって同じ商人がこの村にやって来る。よぼよぼに年老いて、もうすぐ天に召されそうなほどの見た目の商人ではあるが、この村の麓にある少し大きな町から荷物を満載して、山道を毎週三時間ほどかけて登ってくるのだ。余程の体力がなければ続かないであろう。

 毎週の顔なじみになっているこの商人は、もうすでに人々の間では村人の一員であるし、この人の売る商品に間違いはないだろうという安心感もあった。

 御者台の下から取り出した杖を突きながらゆっくりと馬車の裏手に回り、幌を被せてあってよく見えない内部をじっくり見るかのように視線を向けてから、村の若い衆に後部の幌を捲るように指示する。

 おう来たと言わんばかりに一人の若者が進み出てきて、勢い良く布をバサリとまくっていく。そして、視界に入ったはずの多くの荷物を見たであろう若者は、突然情けない声を出しながら、よたよたと後退して腰を抜かしてしまったのである。

 唐突な出来事に、集まっていた多くの村人が、若者の周囲に集まって肩を貸そうとするが、その前に、荷馬車の中身が気になった人々が中を覗き込んでは、その身を固まらせていた。

 人々が驚いたのも無理は無い。多くの荷物がひしめき合う荷台のその一番手前には、精巧な人形がうなだれていたのである。

 みすぼらしい外套で全身を覆い、頭巾を被ったその顔はよく見通せないが、まさかこんなに大量の荷物の中に人がいるはずがない、いや、もしかするとこの商人の爺さんは、こんなをしながら、とうとう人を殺めて持ち運んでいたのかとすら想像するものもいた。

 しかし、少し間を置いたその数瞬後には、その人型のものは突然肩をびくっと震わせたのである。

 これには馬車の周りにいた人たちも軽く悲鳴を漏らし、後ろへ後ずさった。

 さらに人型は、首を持ち上げると、ごきごきっと音を鳴らして首を左右に振り、両手を上げて大きく伸びをした。

 もうさすがにこの辺で、ほとんどの人はこれが生きた人間であるということの事実を受け入れた。

 その人はかぶっていた頭巾を降ろし、朝の陽によく映える金の髪を揺らしながら大きなあくびをして一言、


「ふわあぁ、……おはようございまふ……」


 一人の青年が馬車の上から皆を見下ろす形でこう言った。


「しっかし、あんなけったいなところに人が収まってるとは誰も想像しねえって」

 そう言って、村一番の体格を持った男は波々と麦酒の入った容器を片手に肩をばしばしと叩いてきた。

「あのじいさん、とうとう死人までも取り扱うようにまでなったのかって村中で噂が広まるところだったよ、……ええと、あんた、名前なんてったっけ」

「……クルトです、クルト・ヴェヒター」

 この男はさっきから何度も名前を聞いてくるが、酔いが回って正確に覚えてられないのかなと青年、クルトは想像した。

「おお!そうだったそうだった。がははは!」

 大笑いしてごまかしているが、そのうち名前を聞いてくるのだろう。もう諦めよう。

 そんな中、こじんまりとした宿屋の厨房から両手に料理を抱えた女性が出てきて、卓上に整然と並べていく。

「すまないねぇ、大したおもてなしも出来なくて」

「いえいえ、僕にとっては十分にごちそうですよ」

「普段はこの村にお客なんてやってこないから、宿なんて閉め切って畑仕事に精を出してるからねぇ。この馬鹿亭主にこの部屋の掃除をやらせるだけでもまさか夜までかかっちまうなんて」

「んだとぉ?」

 そのやりとりを見て、軽く微笑むクルト。

 しかし、今クルトが頂いているこのぶどう酒一つにとっても、よっぽどのことがない限りは、振る舞われることもないのは事実なのだろう。山間部にあるこの村なら谷川の水は豊富だろうが、農業には使えても飲水として適さない水も存在するため、購入するだけで口にすることのできるこの飲み物がどれだけ貴重なのかはよく分かる。

 クルトが昼間のうちに見て回ったこの村の感じでは、あまり健全に経済の回っていない雰囲気があり、村人はどこか疲弊した感じのある、なんとも寂れた村という印象であった。

 そういった村にはなにがしか不満はあるようで、

「それよりあんた、商人さんが言ってたけど、また近いうちに税収が上がるかもって」

 麦酒を呷っていた亭主は、突然むせ出して手のものを食卓に叩きつけた。

「はぁ?去年も上げたばかりだろ、そんなに俺達の稼ぎからむしりとりたいのか、お偉方は」

「なんでもさ、お国の方からってよりも領主様が税収を増やせだの何だのって進言したんだそうよ。最近また一段と館が豪勢になって、お体もより大きくなられたそうよ」

「あんのくそ領主が……っと、あんたには関係のない話だったな。すまんすまん」

 またがははと笑って、肩を叩いてきた。あまり体が頑丈なわけではないから、そろそろやめて欲しい。

「しかしなんだな、あんた、こんな辺鄙へんぴな村に何の用事があってきたんでぇ」

「そうよねぇ。住んでるあたしたちが言っちゃうのも何だけど、本当になんにもないよ、この村は。まあもっとも、10年程前までは、この村の裏手にある霊山に礼拝にくる信者たちで、ごった返してたそうだけどね。時代も経てば信心も薄れてくるってもんさ」

 いずれ聞かれるとは思ったが、別段隠すことではないのでクルトは素直に話す。

「ええ、実はその霊山に御用があって、こちらに越させてもらったのです」

「へえ、そいつぁまた。信者か何かかい?」

「そういったわけではなく。実は僕、一応ながら魔術師をさせてもらってまして、その研究の一環として、霊山から流れてくる川の水を調べさせてもらえないかと思いまして」

 すると亭主はちょっと不安そうな顔になって、

「とすると、この川の水になんか変なもんでも混ざってんのか?使っても大丈夫なのかよ」

 嫌な予感にそわそわとしだした。

「いえいえ、そういうわけでもないんですがね……」

 と、説明を続けようとした時、広間の階段の方から誰かが降りてくるような音がしたので、クルトはそちらの方に意識を取られた。

 そこには、水を満載した木桶を手に、重そうによたよたと段差をゆっくりと降りてくる小さな影があった。段差が大きいからか、足元を確認もできずにそろりそろりと足を伸ばして、一歩ずつ足を踏みしめている。

 階段の方にいるときは、暗くてその姿がよく見えなかったが、やがて広間へと下ってくるとその明かりの下に姿が曝された。

「……!」

 その瞬間、クルトははっと息を呑んだ。

 そこにいた小さな影、少女がどこにでもいそうな小さな子どもというからでも、埃まみれのれて汚くなった服に不釣り合いなほど美しい漆黒の髪を肩口で結わえているからでもなく。

 その、眼。

 一見すると、とても美しい翡翠色の瞳ではあるが、少し角度を変えてみるだけで僅かにだが色を変え、あたかも虹色に見えるかのように錯覚をおこす。じっと見ているだけでぐっと引き込まれ、安らかさを感じるようでいて、すべてを見透かされているような僅かな不安にも駆られるような、そんな眼。

 その時、クルトは確信に近いものを胸のうちに固めていた。

「あんた!こっちにはお客さんがいるんだから裏口から出なってさっき言っただろ!」

 その瞬間まで、周りの状況がまったく掴めていなかった。親父さんの脇にいたと思ってたおかみさんがいつの間にかその少女のもとまで早足で歩み寄っていて、その手を振りかぶっていたのである。

 あっと声を上げたのもつかの間、ぱんっと乾いた音を立てて少女の頬に平手が飛んだ。思いのほか強く叩かれたのか、少女は足をよろめかせたが、手に持った木桶の水をこぼすまいと懸命に姿勢を元に戻す。

「ちょ、ちょっとおかみさん!なにをなさってるんですか!」

 慌てて席を立ち上がるが、向かいに座っていた亭主に行くなと目で諭される。それがやけに強い視線だったからか、一瞬ぐっと怯んでしまうが、すぐさま体は動き出し、少女のもとに駆け寄った。

 屈んで叩かれたところをすぐさま診てみるが、思ったほど腫れてはいないようだ。

 そこまで近くに寄ってみて、少女の全体の様子がようやく見えてきた。服は埃で汚れているというよりも、元々が大きく汚れっぱなしのままのようで、木桶の柄を握った手元はかさかさになっており、見るも痛々しい手になってしまっている。足元の靴もぼろぼろになっていて、つま先が隙間から見えてしまってる。その顔も煤けて汚らしく、とても顔立ちがいいのだろう元の顔が台無しになってしまっている。そのとても綺麗だと思った瞳も、半ば死んだ魚のような目をしていて、若干どこを見ているのかよくわからない感じである。

 念のためにと、懐から湿布を取り出そうとしたが、おかみさんに遮られてしまった。

「ああ、クルトさん、いいんだよ、そんなことしなくたって。湿布がもったいないでしょう?」

「いえ、もったいないとかそういう話ではなく……」

 そう言って懐に手を伸ばしたが、直接手首を掴まれて拒まれてしまった。まさかそこまで強烈に拒絶を示すとは思っていなかったので、クルトは少々面食らってしまった。

「この子はさっきまで部屋の掃除をしてもらっててね、もう遅いから早く家に帰さないといけないんだよ。だから、ね?」

 そこまで強く言い切られてしまったらもう引くしかない。手を離してもらって懐から手を引いた。

 すると、少女は唐突にもじもじとしだして、上目遣いにおかみさんを見上げた。

「あ、あの……」

 声をようやく絞り出したかのようではあったが、おかみさんのぎろりとした目に睨まれてしまって竦んでしまい、次の言葉が出てこないようである。

 と、おかみさんはそこで得心がいったかのように踵を返すと、部屋に備え付けた戸棚から小袋を取り出し、その中から銅貨を1枚取り出した。

「そうだったね、今日のお駄賃をすっかり忘れていたよ。ほら、手を出しな」

 そこで少女は両手がふさがっていたので木桶を床に置いてお金を受け取ろうと両手をお椀のようにした。

 しかし、おかみさんはあえて高いところから銅貨を落とし、それは木桶に入れた水の中に水没してしまったのである。

 少女は無言で木桶に立つ波紋を見つめてたが、すっと手を伸ばして銅貨を拾おうとした。

「こんなところでそんな汚らしい水に手を突っ込んでごみ漁りかい?表でやりな!」

 おかみさんに叱責されてはっとなった少女は、再び木桶を抱えてよたよたと裏口の方へ歩き出してしまった。その時、彼女がちらりとクルトの方を振り返ったが、それも一瞬で、すぐに建物を出て行ってしまった。

 ほんの僅かな時間だったがめまぐるしい展開の流れに、クルトは割と頭の中がこんがらがっていた。なにが一体どうなってこういう状況なのか、ひとまず整理しようと努める。

「ええと、今の子は一体……?」

 さきほどの一連の体罰についてのやりとりはあえて触れないようにと、当り障りのないところから触れていこうかと思ったが、そう問いかけてみただけで、親父さんとおかみさんはとても渋い顔をしてしまった。

 この質問自体が禁句だったのかと失敗を感じたクルトだったが、親父さんのほうがその重い口をゆっくりと開けた。

「まあ、ひとまず席につきな」

 なんだか申し訳無さそうに話すその口調に、ただではすまない事情を感じ、クルトはそれに従った。

「その、なんだ、見苦しいところを見せちまったな、すまねえ」

 頭を下げる親父さんに慌てて手を振って顔を上げるように促す。

「どっから説明すればいいのやら。……まあ、あの子はこの村の抱えたちょっとした厄介事ってやつでな」

 たとえ少女一人に対してでもなんていう物騒な言葉を使うことに抵抗を感じたが、口答えしても話が進まないのでひとまず置いておくことにした。

「あの子は、母親と一緒にこの村のはずれに住んでるんだが、とある理由から村人中から嫌われていて、というか関わらないようにされていてな」

「その、理由とは?」

 先を促してみるが、やはり少々話しにくそうにしている。そのとなりでは以前腹の虫が収まらないような顔でおかみさんが立っている。

「ほら、さっき領主様の話しをちょろっとしただろ?その領主様ってのがとんだ色狂いでさ、使用人でも何でも構わず手を出しちまうんだよ。あの子の母親もその一人でさ、いい家のお嬢様だったそうだが、使用人として入ったがばっかりに傷物にされたってんだそうだ」

「ふんっ!どうせ本人も色狂いの尻軽女なんでしょ?誰かれ構わず股なんか開いてるからあんな領主なんかの子を身籠っちまうんだよ」

 そのあまりにもひどい言い様にクルトは完全に閉口してしまった。もとはその領主とやらが嫌われていたようだが、村人たちはその母親と接するうちに、その本人を憎むようになっていったのかもしれない。なんともやりきれない話だが。

「まあそういうわけであの子は領主様との間に出来た子ってわけなんだが、その領主様本人がそれを認めようとしなくてね、扱いに困った周りの人間がこの村に追い出しちまったってわけなのさ。……まあ、他に理由がないでもないけど、な」

 最後の言葉が妙に引っかかったが、それで大体の納得はいった。それでもまだ疑問に思うところはある。

「それで、あんな小さな子がこんな夜遅くまで働いている理由はなんです?」

 小さな体をぼろぼろにしてまで働いている理由がいまいちわからない。あの年頃の子ならば、同年代の子達と一緒に走り回っては遊んだり、母親に思いきり甘えたりしてもいいはずである。それがなぜ?

「ああ、それはその母親が病に臥せってしまって、働くこともままならないからさ。村に来た当初は元気だったし、良家のお嬢様と言っても何でもそつなくこなせたし、器用ではあったんだがな、その器用さが祟って、色んな仕事を請け負いすぎて、負担を貯めこんで体を壊しちまったのさ」

 親父さんが言うには、その頃から領主との噂がちらほらと聞かれるようになって、徐々に孤立を深めていったそうである。

 と、おかみさんが唐突に口を開いた。

「それだけじゃないよ。あの子は悪魔と契約を結んでるってもっぱらの噂さ。気味が悪いったらありゃしない」

「悪魔と契約?それは一体・・・?」

 またえらい唐突な話が出てきたものである。この平和な世の中で悪魔という単語を聞くことになろうとは。何かと勘違いでも起こしているのだろうか。

 さらに過激な言葉を言いそうになるおかみさんを親父さんがなだめて続きを語りだす。

「悪魔と言っても、まあ何かの勘違いだろうけどな。でもあの子は時たま不思議なことを始めたりするのさ。唐突になにもないところを見上げては手を伸ばしたり、そこに話しかけたりしてさ。周りから見てると、頭でもおかしくなっちまったのかとでも思うんだが、それでも俺達との会話は成り立つんだ」

「……」

「おっと、あんたがこの村で何をしようと自由だけどよ、俺達はあの母娘と関わるのだけはお勧めしないとだけは言っておくぜ。あえて近づいていくのなら、止めはしないけどよ」

「そうですか?まあ私は余所者ですし、あまりこの村のしがらみに捕らわれてもしょうがないとは思いますが」

 すこし嫌味な言い方をして先ほどのおかみさんの行為を咎めるつもりだったが、その本人はあまり嫌味とも捉えなかったようである。

「この村に魔術師さんが来てくれるのは珍しいことだし、あたしとしても歓迎したいけどさ。あんまり厄介事は起こさないでおくれ」

「はは、僕に何ができるわけでもありませんが、歓迎されるのは嬉しいですね」

 そう言って笑ってごまかした。


 その日はそのままお開きとなり、明日に備えて早めに寝ることにした。本来の目的に加えて新たな目的ができたことで、明日はより忙しくなりそうだ。


 まだ霧の霞む早朝、あまり眠ることの出来なかったクルトは、村の下にある河原まで顔を洗いに降りてきていた。

 泊めてもらった民家にも水は用意してあったのだが、どうせなら川の様子も見ておきたかったし、何より新鮮で冷たい水のほうが気持ちが良さそうだと思ったのである。

 そんなことを若干寝不足でボケた頭で考えながら、寝ぐせのひどい髪をがしがしと掻いて、川の流れの手前でしゃがみこんだ。

 下流の水ともなれば、様々な要因で水は臭くそのまま飲めたものではないのだが、山から湧き出したての水は川の底まで透き通ってて、とても美味しそうに見えた。

 川の流れにに手を差し込んでみる。かなりの冷たさがあった。そのまますくい上げて一杯。やはりと言うか無味無臭ではあるが、それがまた水を美味しくさせている。そのままもう一度水をすくい、今度は顔へバシャリと水をかけてみる。水温と朝の空気も相まって顔がとてもキィンと冷え、一気に目が覚めた。

 ふと、この水が飲料に適しているのかを訊いておくのを忘れてた、と思ったが、腹の具合が悪くなったら飲めない水だったんだろうと思うことにした。

 飲料用と研究材料とに使うため、腰に提げていた水筒を取り出し、再び水の中へ手ごと沈めてこぽこぽと汲んでいく。

 と、ようやく頭が働き出したことで、同じ河原にもう一つの人影があることにようやく気がついた。少し離れていたが、目を凝らすほどのものでもなく、背格好から誰がいるのかすぐに分かった。

「おはよう、朝早いんだね」

 驚かせないように、少し離れたところから声をかけて近づく。そこには、昨日お世話になった亭主とおかみさんの家にいた少女であった。

 少女はすでにクルトの存在に気づいていたのか、軽くぺこりと頭を下げてから川に近づいていく。その手には体に合わない大きさの木桶があった。

 川に向かって木桶を沈めると、徐々にその中には水が溜まっていき、、すぐにいっぱいとなった。それをようやっと持ち上げると、ふらふらとおぼつかない足元で、でこぼこの河原を不安定そうにゆっくりと歩き出した。

「ちょ、ちょっと、いくら何でも重すぎやしないかい?もうちょっと量を減らすとかして……」

 クルトは心配そうに声をかけようとするが、少女はそれに答えようとはせず、そのまま歩き出してしまった。

「待ってくれ!ええと、その……」

 呼び止めようとして、まだ名前も聞いてないことを今更知った。

 言葉に詰まって何を言おうか迷っていると、

「……ついて、きて」

 ぼそりとした、喋ったかどうかも分からないくらい小さな声で囁いた。


 少女についていく道すがら、何度もバケツを持とうかと声をかけたが、聞こえているのかどうか、全てを無視されてしまった。こんなに小さな少女が重いものを持っているのに自分だけ手持ち無沙汰なのはどうなのだろうと思ったが、少女が一軒の家の中に入っていくのを見るとさすがについていく気にはなれなかった。

 少しの間を置いて少女が出てくると、村の上流側の人気がない方へと歩き出していった。

 少し歩き続けると、村の家屋は途切れて、寒々とした山道だけが先へと続いていた。

 そこに着くとようやく少女は振り返って、木桶を足元に置いた。

「……それで、何か用です?」

 やはりぼそりとした声で尋ねてきた。あまり喋るのは得意なではないのだろう。

「ああ、えっと。毎朝水を汲みに行ってるのかい?……ってそうか、この村には井戸はなさ気だもんな。愚問だった……」

 こんな小さな子に何を緊張してるのだろうかと、自分で自分に蹴りを入れたくなってくる。

「ええと、それでさっきの家が君のお家かい?随分朝早くに家を出てるみたいだけど」

 すると、少しの間を置いて少女はふるふると首を振って山の方に続く道を指さした。

「……私の家、あっち」

 といっても、その向こうは寂れた道が続くばかりでとても家があるようには見えなかったが、少女が言うには本当にその向こうに家があるのだろう。

 とすると、さっきの家は何だったのだろうか。

「もしかして、人の家の水まで汲んでいるの?」

 こんな早朝に、まだ寒い季節でもあるのに少女一人に水を汲ませるとは何を考えているんだと思うと、自然と怖い顔になっていたようである。

 それを悟られて、少女に気を使わせてしまった。

「……お金もらうために、いろんな家の水、汲んでます……」

「お金って……」

 そこまで言って、昨日世話になった亭主から教えてもらった少女のいきさつを思い出した。つまり、この子と母親の生活は全てこの小さな体の働き全てにかかっているのだ。

 これまでも王都でいろんな生活をしてる人を目の当たりにしたつもりでいたクルトだったが、たった一人の子供だけでこんなに負担の大きい生活を営んでいる事実を知ったことに、少なからぬ衝撃を受けたのだった。

 クルトは、自然と量の手のひらを握りこんでいたが、それをさらに強く握り、決意をしたように切り出した。

「このあと時間はあるかい?」

「……家のお掃除がある、けど。みんなが畑に出てってからだから」

「そうか、じゃあみんなこれから起きてからだから、しばらくはあるわけだ」

 こくりと少女は頷いた。

「なら良ければでいいんだけど、きみのお家を紹介してくれないかな?ちょっとお母さんとお話したいなと思ってね」

 突然身内に合わせてくれと言って、これはさすがに断られるかなと思ったが、以外にも少女は首を縦に振ってくれた。

「……こっちです……。あ」

「どうしたんだい?」

 歩き出そうとして突然立ち止まるものだから、クルトはびっくりしてしまった。

 少女は再びくるりと振り返って、ぺこっとお辞儀をした。

「……昨日は、ありがとうでした」

「昨日……?」

「あの……心配してくれて……」

 思い当たることといえば村の親父さんの家での出来事くらいだが。

「気にすることないよ、心配して当たり前だって。君みたいな可愛らしい女の子が肌に傷でもついちゃったら大変だからね」

 少し茶化すように言うと、少女は頬を染めてうつむいてしまった。

「……で、でも、もう手もこんなだし、顔も汚れてるし……」

「なら、顔を綺麗にしなくちゃね」

 そう言って、クルトは腰の水筒を取り出して、手持ちの布の切れ端に少し水を含ませ、少女の顔に近づけた。しかし、少女は少し距離をおいて離れてしまった。

「どうしたんだい?朝から顔が汚れてるなんて、ちゃんと身だしなみをしないと」

「……水を、使うなって」

「ん?」

「水は貴重だから、無駄に使うなって。だから、顔を洗うと水を使ったの、ばれちゃうから……」

 その言葉にクルトは首を傾げ、川のあった方を見返す。村の傍を流れる清流は、勢いもそこそこ強く、潤沢な流れを貯え、朝の日差しを反射してきらきらと輝いている。

「誰が、そんなことを?」

 もうなんとなく分かりきっているような気がするが、それでも聞いておかずにはいられなかった。

 目の前の少女は、少し戸惑うような素振りを見せたが、何かを諦めたかのように握りしめていた手の力を緩め、

「……おかみさんとか、村のみんなが、わたしは汚れてるほうがいいからって。化粧なんかより、ずっと似合ってるって……」

 あまり言葉に感情を乗せないよう喋っていたようだが、最後の方は少し力がこもっていたようにも聞こえた。

 それを感じ取ってか、彼は少しばかり頭に血が昇ってしまっていた。それは過酷な仕打ちを及ぼす村人たちに対してか、何も気づかずにここまで喋らせてしまった自分に対してか、あるいは……。

 クルトはしゃがみ込むと、彼女の頬に布を押し当て、ごしごしと汚れを落とし始めた。

「いた……、ちょ、ちょっと、痛い……」

 少し痛がってる少女が言葉を発することで、力を入れすぎていたことにようやく気がついた。

「ご、ごめん」

「……べ、別に、だいじょうぶ。でも……」

 そう言って、クルトの持つ布に目を落とした。少し拭いただけではあるが、布は煤で真っ黒に汚れていた。おそらく前日に煙突掃除でもしたのであろうか。

「心配しなくても、僕が勝手に拭いたことにすればいいさ。君は無理矢理汚れを落とされた。まあ、実際そうだしね」

 彼の提案に少し迷っていた彼女だったが、やがて不承不承頷いた。

 少しやりとりをしている間に落ち着いてきて、今度はそっと布を押し当てた。

 彼とはおそらく十歳以上は年が離れているであろう彼女の肌は、拭けば拭くほど白い肌が出てくるが、それでも年に似合わないほどの肌荒れがそこにはあった。

 しばらくかけて拭き終わると、そこには綺麗というよりは可愛らしい顔立ちをした少女がそこに立っていた。煤汚れていた先ほどの顔とは印象が大きく違い、目鼻の整った顔は、同年代ならず大人までをも振り向かせてしまうほどのものであった。

 少女自身にその顔を見せてやりたかったが、あいにく手鏡などは持ち合わせておらず、断念せざるを得なかった。

「うん、綺麗になった。これで朝の身だしなみは終わりだ」

「あ、ありがとう……です」

 そう言ってばっと体を背けると、先ほど案内した方へと歩き出した。

 そこでクルトは、もっと大事なことを思い出した。

「あ、そういえば、君の名前を聞いてなかったね。僕はクルト、一応魔術師なんかをやらせてもらってる。君は?」

 再び立ち止まった少女は、顔だけを振り向いて言った。

「……リン、です」

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