02.迷演技
「もう我慢できないわ」
耳に押し当てたスマホから夏美の興奮した声。「いったいどういうことなの俊彦?」
「い、いきなりかけてくるなよ」
敏彦は声をひそめ「いま仕事中なんだ」
やっぱり出なけりゃよかった。だが着信を無視したところでストレスは膨れあがるいっぽうだ。
「仕事ですって? ほんとかしら、疑わしいところだわ」
夏美のキンキン声は続いている。携帯プレーヤーの音漏れをはるかに上回る不快なノイズ。
敏彦はスマホを片手にあたりを見まわし様子をうかがう。
昼下がりの喫茶店のオープンテラス。周囲のテーブルの客たちは明らかにパニックに陥っている敏彦の挙動不審ぶりに注意を払うそぶりもない。コーヒーカップに唇を近づけたり文庫本を開いたり、思い思いに静かな時間を過ごしている。
ここでは誰もが暗黙のルールに従ってスマートな都会の人種を演じなければならない。敏彦は声をひそめ「用があるんだったらメールにしてくれ。直電なんかかけてくるなよ」
夏美が間髪置かずに「かけてくるなって、ちっともメールの返事てこないじゃない」
理由は簡単。敏彦がメールを送れば五分もしないうちにその数倍もの分量がある返信が戻って来、さらに早いレスポンスで適切なリアクションを返さないとあとでますます責められるからだ。
仕方ない。無駄な抗弁をあきらめ「言わせたいだけ言わせておく作戦」に出た。
「だいたいあなたってさあ――」
夏美の罵詈雑言は続いた。日ごろの敏彦の欠点をあげつらい、口汚いセリフで容赦なくこちらの胸をえぐる。ドSか、この女は。俺はSMの女王様にもてあそばれる哀れなドレイか。ぼんやりとそんな思いが頭をかすめる。
女王様の言葉責めは果てしなく続いている。敏彦は無言で耐えていたが、とうとうこらえきれなくなり「じゃあな、いったん切るぞ」
「電話切ったりしたら、死んでやるからね」
「おい、よせ」敏彦は動揺する。この女はほんとうにやりかねない。「少し冷静になれよ」
まったく面倒なメンヘラーだと思いながら、なだめにかかる。「あの女とは今度こそ縁を切る。もう一度やり直そう」
「その手で何度だまされたことか。あいかわらずの名演技ね」夏美は皮肉っぽく「さぞかしあなただったらいい役者になれるんじゃないの」
どうやら彼女にはもう、敏彦の言動のすべてが信じられないらしい。敏彦は沈黙するしかなかった。
「なによ、ちょっと見てくれがいいからって、いろんな女と遊び歩いて」
スマホ越しの声がふたたび激しさを増してきて「だいたいどこにいるのよ、今? ねえ? 」
「き、喫茶店だ」敏彦は弱々しげに「本当に仕事なんだったら…」
カメラはオープンカフェの全景がフレームに収まるよう、お店から道路をはさんで少し離れた場所に据えつけられている。
周囲では大勢のスタッフが機材を運んだり台本を片手に撮影の打ち合わせを進めている。ロケの現場はいつでも慌ただしい。
雑誌でもたびたび紹介されている小洒落たカフェは、次の秋から放映される都会的な雰囲気を売りものにした恋愛ドラマの舞台にうってつけだった。
望遠レンズはテーブルをはさんで向かい合うイケメン俳優とアイドル女優を大写しにしている。そのまわりを店のウエイトレスやお客に扮したエキストラたちが取り囲み、それぞれの役割に合わせてさりげない演技を続けている。
「おい、あのエキストラ」
カメラのファインダーをのぞきながら黒メガネをかけた監督がつぶやく。「いい芝居してるじゃないか。演技つけたの誰?」
監督がじっと凝視しているのは、大映しになった主役の俳優たちの奥、店の隅のぎりぎりカメラのフレームにはいっている位置で、スマホへ向かいなにか哀願するように話している男だった。
「真に迫ってますね」
本番前、喫茶店のシーンのために集められたエキストラたちに演技指導したチーフ助監督が脇からのぞきこみ「とくになにも注文はつけませんでしたけど。きっと恋人と別れ話でもしてる感じで芝居してるんでしょうね」
「主役を食うような演技力だな。次の作品で使ってみるか、重要な役どころに」
監督はつぶやき、満足げにカット、と声をかけた。
ロケ現場を引き上げる準備を始めながら「おい、誰かあいつに芝居はもういいって言ってやれ」
(終)
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