コーヒータイム・ストーリーズ

シオ・コージ

01.縁結び


 この神社の真下まで来たのもずいぶん久しぶりだ――。

 美沙は小高い山の中腹まで伸びている、いまにも崩れそうな古い石段を見上げた。

 石段の先に赤い鳥居が見える。鳥居をくぐれば、猫の額ほどの広さの境内に小さな祠が建っているはずだ。

 去年まで、この地方では多少名前の知られた旅行会社「みちのくツアー」で現地ガイドの仕事をしていた彼女は、都会から来た団体旅行客たちをあちこちの観光名所へ案内しながら、このさびれた神社にも何度となく訪れていた。もっとも些末なわりにはやたら手間のかかる業務に追われ、境内まで足を踏み入れたことは一度もなかったが。

 ガイドブックの紹介記事によれば、神社の中の大銀杏には縁結びのご利益があって、長く伸びた枝にたくさんの短冊が結ばれているらしい。おそらく他に名物もない地元をPRするために無理やり作り上げた迷信だろうが。

 いまは会社を休職し、ガイドの仕事からここ一年ほど遠ざかっている。今日はたまたま車で近くを通りかかったので何の気なしにふらりと立ち寄ってみた。夢中で働いていたあのころが少しだけ懐かしくなったのかもしれない。

 ツアーで世話する旅行客は、自分の祖父や祖母のような年配者が圧倒的に多かった。地元の大学に通っていたころからアルバイトでこの仕事を続けていた美沙は、その豊富な経験と、もって生まれた面倒見のよさで彼らからも評判のガイドだった。

 ほんとうは仕事を離れたくなかったのだが――

「僕と結婚するなら、旅行の仕事はしばらくのあいだ我慢してくれよな」

 結婚話が進行する過程で、いまの夫である男性からそんなふうにやんわりと釘を刺されてしまったのだ。

 けして美沙の自由を束縛するような傲慢な人ではない。ツアーガイドは長時間の拘束やわがままな客の要求に神経をすり減らすハードな職業だ。きっと自分の体を心配して言ってくれたのにちがいない。美沙はそう思い、彼の言葉に従うことにした。しばらく子どもを作る予定はないし、そう遠くないうちに職場に復帰できるだろう。

 夫との出会いは電撃的だった。ごく些細なきっかけで知り合い、1年ほどの交際のあとにはもう挙式をあげていた。それまで異性には積極的でなかったのに、自分でも信じられないほど。

 かくべつ焦っていたわけでもなく、本当に自然な成り行きだった。美沙はあの頃のことを思うと、まるで何かに導かれているようだったと感じずにいられない。

 目の前に神社まで続く石段が、むかしと変わらないまま午後遅い陽ざしに照らされている。山から吹き下ろす風もやわらいだ早春の一日。人の気配もなく周囲は静まりかえっている。

 ふと、境内まで上ってみようかと心が動いた。

 いつもツアーの仕事で来たときは神社に参拝する客たちをこの石段の真下から客たちを笑顔で見送るだけだった。

 次はいつ訪れるか分からない。美沙は誘われるようにゆるやかな石段を一歩ずつのぼり始めた。

 山に囲まれた街並みが、足元に小さくなっていく。最上段へたどり着いた美沙は振り返り、ほんの少しその景色を見下ろした。住み慣れた小さな町もこの角度から見ると新鮮だ。塗りのはげかけた赤い鳥居をくぐり抜け、葉を落とした木立ちに囲まれた無人の境内を歩いた。古ぼけた祠の前に立って手を合わせ、これまで仕事で訪れながら一度も参拝せずにいた不義理をわびるように賽銭を投げ入れる。かすかな音が響いた。

ほかにこれといって見るものもない。そろそろ戻ろうか。そう思って踵を返したとき、誰かの視線を 感じたような気がした。

 気のせいだ、と思いつつあたりを見回してみる。少し離れた場所に一本の大きな銀杏の木が目に入った。

 良縁が成就するという樹齢数百年はありそうな古木の枝々に、ところ狭しと白い紙片がぶらさがっている。おびただしい数の短冊だ。賽銭箱の脇にも同じものが何枚か備えつけられており、参拝をすませた者は願い事を書いて結びつけていくらしい。

 これがガイドブックに出ていた縁結びの迷信ね。やや皮肉まじりに思いながら美沙は銀杏の太い幹のまわりをゆっくり巡る。冷やかし半分にひとつひとつの短冊を眺めていったが、とある一枚に目をやって突然その表情が変わった。思わず足をとめ、顔を近づける。

 短冊にはたどたどしい文字が一行、

「親切なガイドさんに素敵な男性が現われますように みちのくツアー参加者より」

 一枚だけではない。同じような文面の短冊がいくつもいくつも枝に結びつけられ、誰かの幸せを願うようにかすかに風に揺れている。裏側に書かれた日付けはどれも、ちょうどおととしあたり、いまの夫と知りあったころのものだった。

――あたしらもうトシだから、縁結びの神さまにお願いすることもないしねえ。

 参拝を終えて神社から降りてきたお客のひとり、年配の夫人が石段の下で待っていた美沙に笑いながらそんなふうに言っていたのを思い出した。

 ほかにもこれまで案内してきた多くのツアー客たちの顔が浮かぶ。ほとんどが年老いた夫婦連れで、孫娘のような美沙の案内に感謝の笑顔を見せていた。

 こんど職場復帰したら会社に提案しよう。長寿のご利益で有名な隣町の厄除け地蔵に、ぜひ高齢のお客さまを案内してみてはと。

 美沙は自分の思いつきにくすりと微笑み、縁結びの木がたたずむ境内をあとに長い石段を下り始めた。(終)

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