04.盗 作
「もうやめませんか、手首切ったりするのは」
診察室からナースが出ていくのを見はからい、私は目の前の患者に告げた。
「そうやってヒトミのこと心配してくれるの、センセイだけ」
彼女はいたずらっぽく微笑み、まくりあげていた黒いブラウスの袖をおろす。左手首の上を横切る、幾筋もの白い傷痕が隠れた。
私はほっとため息をついて、
「いったいどんなときに死にたくなるのかな、ええと、ヒトミさん」精神科医の冷静な口調に戻って尋ねる。
「それが知りたかったらねえ」
彼女の視線がくるりと診察室のデスクの一角へ動き「あそこのパソコン、ネット見れる?」
「見れるよ」
「ちょっとかして」
患者のカルテを管理するのに使っている私の黒いノートパソコンを、彼女はまるで自分の所有物のように無造作に引き寄せる。画面を開き、目にもとまらぬ速さでキーをたたいて、とあるサイトを呼び出した。
「ここに全部書いてあるよーん。あたしのブログなんだー」
あまり気が進まなかったが、私は彼女にうながされるままパソコン画面をのぞきこんだ。
サイトのタイトルは“ヒトミの死んじゃおうかな~日記”
いやな予感が的中した。
タイトルの横には黒づくめの服装をした少女のイラスト画像。汚れたテディベアを小脇に抱き、もう一方の手に長く刃を伸ばしたカッターナイフを握りしめている。無表情な少女の大きな瞳から、涙のしずくがぶら下がっていた。涙の色は血のような赤。
私は平静をとりつくろい「インターネット日記かあ」
私が興味をひかれたと思ったらしく「読んでみてよ、センセイ」彼女は自慢げに私の顔をのぞきこむ。
私はマウスを握り、画面をスクロールして文字列を目でたどっていく。二十歳前後のどこにでもいそうな娘の、取るに足らない日常が綴られている。唯一違うところといえば、その平凡な記述の中に時おり「死にたい」だの「死んでやる」だの、あるいはその真反対の「生きなくちゃ、絶対!」といったフレーズがかいま見られることだ。書き手の心理は短い一日のうちに、生と死の間を行ったり来たり何往復もしていた。
格別驚くような内容でもない。ネットの海の中はさまざまな魚が自由自在に泳いでいる。か弱いイワシの群れ。凶暴なサメ。彼女のような心を病んだ深海魚も、光の届かない海底の暗闇でじっと息をひそめているのだろう。
「よく書けてるね」私は平凡な感想を口にした。内心、思っていたほどショッキングな内容でなかったことにほっとしながら。
「でしょ?」彼女はますます得意げな表情を浮かべる。
「アクセス、いっぱい来てるんじゃない?」
「まあね」
彼女の口調がそこで少し曇り「でもね、もう閉鎖しちゃおうかと思って」
「ブログを? どうして」
私はこころもち身を乗り出して尋ねる。彼女の訴えの核心に触れつつある…長年の精神科医としてのカンがそう告げていた。
「見てよ、これ」
彼女は足元においてあった布製のトートバッグから一冊の本を出す。
受け取って表紙を見た。『リストカット・ダイアリー』作者・音無響子とある。
「書店のエッセイのコーナーで見つけたんだけど、これがあたしのブログの内容とそっくり同じ」
私は本を開き、ぱらぱらページをめくってざっと内容を確かめた。
「最近売れてるみたいね、この人の本。でもまだマスコミとかに顔を出したことはないんだって。謎の女流作家って呼ばれてるみたいね」
彼女は私を見つめ「どういう人だかよく知らないけどルール違反だなあ、人の文章を自分が書いたみたいに本にするなんて」
「自分の日記が無断で本に使用されたと思ってるの?」
「されたと思ってるんじゃない、これはもう完全な盗作なのよ」彼女は強く断言する。
私は沈黙した。
「信じてないでしょ、センセイ」
彼女はじっと私の顔色をうかがい「たしかにそういうメンヘルの人って多いみたいね。TVドラマを見て、あの主人公は自分をモデルにしてるとか騒ぎ立てたり。症状としてはわりと典型的なんでしょ? 私もここに通い始めてから勉強したんだよ、何冊も心理学の本を読んで」
「たしかに、そういう妄想を訴える患者さんは、多い」私は率直に認めた。
「でもね、私の場合は動かぬ証拠があるの。見てよ、この日のあたしのブログとこの本の内容」
彼女は私の手から本を取り上げ、わざわざ付箋をつけてあったページを開き、それとパソコンの画面とを指し示す。「較べてみてくれる?」
私は両方の記述に目をとおし、「よく、似てるね」と言うにとどめた。
彼女は私の鈍い反応が気に入らなかったようだ。「もしかしてこのブログじたい信じてない? あたしが書いたものじゃないとか」
私の手からマウスをひったくるとクリックして別のページを表示し「じゃ、ここ見てくれる? あたしがはじめてこのクリニックに来た時の先生とのやりとり」
ちょっと見て、私はうなずいた。「そうだね、たしかにこんな話をしたよね」
「この診察室の中の、センセイとあたししか知らない話の内容よ。それが、この本にも出てる。絶対わたしのブログ見たのよ」
「たしかにそっくりだね。でもそんなに特別じゃない、ありふれた診察のやりとりだ。私はほかの患者さんとも、こんな会話をしている」
私の答えに、彼女の形相が一変した。
「そうやって、この本の作者の、音無なんたらの肩をもつ気?」
「いや、そういうわけじゃ」
「ひょっとして音無なんたらにあたしのこと喋ったの、センセイじゃない?」
「まさか、医者には守秘義務がある」
いそいで私は否定したが、彼女の感情は鎮まらなかった。
「もう来ないわ、こんなところ!」
彼女は椅子を蹴るような勢いで立ち上がり「出版社に電話して、この作者も訴えてやる!」
足音高く診察室を出て行った。
私は低くため息をつく。
入れ違いに隣室からナースが入ってくる。
いまのやりとりの一部始終を聞いていたようだ。気遣うような表情で私に問いかける。「本当のことはまだ申し上げてないんですか」
「今はまだとてもね」私はナースに意味ありげな目くばせを送り「もう少し、待った方がいいかなと」
「そうですか」ナースは窓辺の一輪挿しの花を取りかえながら「長くかかりそうですね、音無先生」
私はうなずき、カルテにペンをはしらせながら「今日はヒトミという人格だったよ」
コーヒータイム・ストーリーズ シオ・コージ @sio-koji
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