第24話
僕は、F10の白色下地を指でなぞった。
微かな湿り気を帯びたその平滑な表面は、細目のサンドペーパーで仕上げられ、プラスティックの化粧板のように輝いていた。
テレピンオイルを油壷に注ぎ足す。膠ほどひどくないが、皆に評判の悪い悪臭の一つだ。ペーパーパレットにはバーントアンバーとローシェンナ。チタンの白も少量絞り出した。
僕は背もたれのない腰掛に座り、じっとキャンバスを見詰めた。
(私のために描いてくれるかな、早乙女君?)
頭の中で、その言葉を繰り返してみた。
煙草の匂い。日焼けした顔。大きな背中。
先日の会見で沢木亨二、一等治安管理官が僕に言った言葉だ。僕の描く絵が何かの手掛かりになるという。何だっけ?
そうだ、この間の0・3Gステージの展望回廊の事故の調査だ。
誰かのために絵を描いたことはない。
そもそも僕は理由があって絵を描くわけではない。絵を描くことは単なる習慣、作業療法士の人がそうしなさいと言ったから。
絵を描くことで頭の中に浮かんでくる不安や心配事を、どこかに追いやることが出来るからだ。
治療の一貫。ソーシャルトレーニングの一つ。
先生は難しい言葉でこう言った。
メンタルコントロールの手法、だと。
人に頼まれて絵を描くのは初めてである。
どうしたらいい?
僕は沢木管理官の言葉を注意深く思い返した。
(事故のことは置いといて、その少し前というのかな)
前?
(私と君が最初に会ったところは、わかるね?)
緑色の喫煙室、煙草の自動販売機。0・3Gステージの展望回廊だ。
(私と出会うまでに、誰かに会わなかったかい? 誰か、変わった人とか?)
見えたのは、金髪の巻き毛の少年だった。
痩せた華奢な体格。ぴったりとした白のタートルセーター。
十六、七の、僕と同じくらいの男の子だ。恐らく外国人だと思う。
僕は、はっきりと覚えていた。
キャンバスの白い画布に目を向けると、その少年の顔が滲むように浮き上がってくる。四角形の枠組みのどこに肩の稜線が通り、どの位置に顎が、鼻があるべきか、見えてくる。しばらく眺めている間に、僕の頭の中で絵は完成する。
天使の微笑みを浮かべる、美しい少年。
ラファエロ・サンティの天使像を思わせる顔立ちだ。
「小椅子の聖母」の幼子イエスのようだった。
僕は腰掛から身を起こした。
後は絵筆を取ってそれをなぞるだけである。手順は決まっている。
僕は小さめの平筆を持つとテレピンオイルを含ませ、バーントアンバーを取った。僕の眼とキャンバスの間には、ビニールように透明な完成の図版が見えていた。迷うことなく絵筆を走らせる。顔の位置関係がぴたりと決まった。記憶の図版を重ね合わせ、狂いがないことを確認した。
人物画は簡単だった。
僕らは毎日鏡を見るから、その間違いにも厳しいけれど、正確な位置関係が決まった輪郭を見付けると、経験によって自ずと足りない部分を補完してしまう。
人物の肖像は手数を掛けなくても、それとわかるものだ。
バストショットの肖像ともなれば尚更。描き込むのは顔のみで十分だった。
ふと、僕は考え込んだ。
僕にとって、この作業は容易い。
でもこの先、頭の治療を進めていっても、この能力は残っているのだろうか?
この間、洋子さんの頭と繋がったとき初めてわかったのだが、普通の人の頭の中は驚くほどに複雑で曖昧だった。記憶と気分が薄いベールのように絡み合っていて、僕には不可解な生き物のように見えた。
僕のとは違う。
僕の頭は単純だ。記憶は新しい順に手前に向かって所定の場所に納まっていて、それを時々に取り出して、見通しのいい場所で眺めることが出来た。気分とは完全に独立したものだから改めて詳細に観察することだって可能だ。
記憶と気分が関係を持つこと自体、つい最近知ったことだ。
治療が進むに連れ、僅かだが僕の頭の中にも薄いベールが育っている。
洋子さんの頭に繋がった時に少しずつ影響を受けている、そんな気がした。
まだまだ僕の頭の中はがらんどうで、見通しが良かった。
でもそのうち、洋子さんや、他の人のように、ベールの襞(ひだ)で一杯になるのかもしれない。その時果たして僕は、今のように絵が描けるだろうか?
僕には、わからない。
その能力を失うことが残念?
それも僕には、わからない。
だって、それは作業療法の一貫で、治療してなくなるのなら、それは治ったからじゃないのか?
僕が手に入れたものは大きい。
憂鬱な映画はともかく……、吉本のお笑いは最高。
僕はもう一度キャンバスを眺めた。
ビニールのように透明な完成図は、まだ見えていた。
さて、いつもの手順だと、下描きを終えたら乾くのを待って赤の地色引きだ。沢木管理官は急いでいるようだったが、しかし……、
やはり赤く塗ろう。いや、塗るべきだ。
事実はどうあれ、僕にとって世界は闇の中にあり、まずは赤が、そしてその上から青白さが上塗りされている。
それが知覚される世界だった。
青は手前に、赤は背後へ。
それがルールだった。
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